第18話 怖い顔の治癒士、少し届く
朝、ギルドに寄ってから治癒所に向かう、というのが最近の日課になっていた。
依頼があれば受ける。なければ治癒所に直行する。
今日は依頼がなかった。
ギルドのカウンターで「今日は依頼がありません」と受付の男性に言われた。男性は最近、俺の顔を見ても言葉が一回で出るようになってきた。「ち、癒……士……」から「治癒士様」まで、一週間かかった。ドンの言う通り、段階がある。
「……わかった。また来る」
「は、はい……! お待ちしております……!」
男性がまだ少し引きつった笑顔で頭を下げた。笑顔が引きつっているのは仕方ない。笑おうとしてくれているだけで、十分だ。
ギルドを出て、治癒所へ向かった。
朝の石畳は人通りが多い。今日も何人か壁に張り付いた。
三人目の男性は、張り付く前に足がもつれた。
「……大丈夫か」
「だ、大丈夫では……ないです……」
男性の視線が、自分の足元に落ちた。
俺も釣られて足元を見た。
石畳が、濡れていた。
「……申し訳なかった」
「……こちらこそ……申し訳……ございません……」
男性が震える声で言った。顔が真っ赤だった。
「……近くに着替えはあるか」
「は、はい……宿に……」
「……お大事に」
「……ありがとうございます……本当に、申し訳……」
「……俺の顔のせいだ。気にしなくていい」
男性が小さくなりながら宿の方へ歩いていった。
(……これは、流石に申し訳なかった)
今まで逃げられた、壁に張り付かれた、気絶された、剣を抜かれた。色々あった。でも今日のは、一番申し訳なかった。
治癒所に着いてから、グランに報告した。
「……道中で石畳が濡れた」
グランがしばらく俺を見た。
「……お前さんの顔のせいか」
「……そうだ」
グランが「……そうか」と言って、それ以上何も言わなかった。
この件については、何も言えないことが正しい判断だと思った。
◆ ◆ ◆
午前中、患者を六人診た。
五人目は初めて来た若い女性で、頭痛が続いているとのことだった。入口で俺の顔を見て、固まった。固まったまま、前にも後ろにも動かなかった。
「……中に入ってくれ。座れば楽になる」
「……は、入れるかどうか……」
「……頭痛は、続いているか」
「……続いています……」
「……入れば治る。顔は見なくていい」
女性が意を決したように目をつぶったまま、一歩踏み出した。目をつぶったまま、二歩目を踏み出した。三歩目で段差を越えた。段差は先週、俺が削った。なのに躓いた。
「……段差は削ったはずだが」
「め、目をつぶってたので……何もないのに躓きました……」
「……椅子まで案内する。手を出してくれ」
女性が目をつぶったまま、おそるおそる手を伸ばした。俺がその手を取って、椅子まで導いた。
「……座った。目を開けてくれ」
女性がそっと目を開けた。俺の顔を見て、また閉じた。
「……できれば閉じていてくれ。その方が治療しやすい」
「そ、そうします……!」
女性が目をつぶったまま、ほっとした顔になった。目をつぶる許可が出て安心したらしい。
頭痛の原因は、首の筋肉の緊張だった。光を流すと、少しずつほぐれていく。
「……楽になってきたか」
「……はい……あ、痛みが……引いてきた……」
「……目を開けなくていいから、もう少し待ってくれ」
「……わかりました……。あの、声は、怖くないです」
「……そうか」
「……低いですけど、怖くない。なんか、落ち着きます」
リエナが作業台で「声は大丈夫なんだ」と小声で言った。
グランが「顔だけが問題なんだな」と小声で言った。
「……聞こえている」
二人が黙った。
◆ ◆ ◆
昼飯を食べた後、グランが「今日、レンが来る」と言った。
俺は箸を置いた。
「……そうか」
「昨日、母親から伝言があった。今日の午後に来ると」
「……わかった」
前回からひと月が経っていた。前回、俺は体の奥の「何か」に初めて指先が届いた。あの感覚を、この一ヶ月間、頭の中で何度も反芻した。ギルドの依頼で様々な傷に向き合うたびに、光の制御を磨いた。リエナの薬草研究で、補助なしで光を操る感覚を練った。
今日は、前回より深く届かせたい。
「……緊張しているか」
グランが聞いた。
「……している」
「正直だな」
「……緊張していないと言っても、伝わらない顔だ」
グランが「そうだな」と言って、珍しく笑った。
リエナが「カルが緊張するの、珍しい」と言った。
「……珍しいか」
「普段、何があっても同じ顔だから。でも今日は少し違う」
「……どう違う」
「……怖い顔が、少し、真剣な顔になってる」
「……いつも真剣だ」
「そうだけど、今日はもっと。レンちゃんのこと、大事に思ってるんだね」
俺は何も言わなかった。
大事に思っているかどうか、言葉にするのが難しい。ただ、あの子に届かなかった日から、ずっとあの子のことを頭の片隅に置いていた。それは事実だ。
◆ ◆ ◆
午後、レンが母親と一緒にやってきた。
ひと月前より、顔色が悪かった。
目の下の隈が濃い。足の引きずり方が、前より大きい。体が、少し薄くなった気がする。
「……来てくれたか」
「うん。また来るって言ったから」
レンが静かに答えた。俺を見て、わずかに表情が柔らかくなった。ひと月前と同じだ。
母親が「お願いします」と深く頭を下げた。頭を上げた時、目が赤かった。
「……座ってくれ。今日は少し時間がかかるかもしれない」
「わかった」
レンが椅子に座った。俺がその前にしゃがんだ。
「……前回より、体がつらそうだ」
「……うん。最近、夜に足が痛くて眠れないことがある」
「……今日は足の痛みから先に取る。それから奥に届かせる。どちらも中途半端になるかもしれないが、やってみる」
「……うん。お願い」
俺は両手をレンの足に当てた。
光を流した。
まず表面。炎症を抑える。痛みの根にある神経の緊張をほぐす。じわじわと、丁寧に。
「……あ。痛みが引いてきた」
「……もう少し待ってくれ」
表面が落ち着いたところで、光を絞った。細く、深く。ギルドの依頼でつかんだ感覚を呼び起こす。リエナに教わった光の広げ方を、逆に使う。広げるのではなく、一点に集める。
体の奥の「何か」が見えてきた。
前回は指先が触れただけだった。今日は、もう少し先に進める気がする。
(……届け)
光を押し込んだ。
「……っ」
レンが小さく声を上げた。
「……痛いか」
「……ちょっとだけ。でも続けて。前と違う感じがする」
「……どう違う」
「……前はただ温かかっただけ。今日は、奥から温かい」
俺は光を押し続けた。
届いた。
前回よりずっと深く。「何か」の表面だけでなく、その中まで入っていく感覚がある。まだ全部ではない。でも確かに、前回とは違う深さだ。
十五分ほどかかった。
光を引いた。手のひらに重い疲れが来た。今日は前回より使った。
「……どうだ」
レンがゆっくりと立ち上がった。足を踏んだ。
「……軽い」
「……そうか」
「いつもと違う。足が、地面についてる感じがする。いつもはふわふわしてて……あ」
レンが一歩踏み出した。
いつもは左足が右足より短いぶん、体が大きく揺れる。今日は、揺れが小さかった。完全になくなったわけではない。でも、明らかに小さかった。
「……揺れが減った」
「うん……! 歩きやすい……!」
母親が声を殺した。殺しきれなかった。
「……完治ではない。まだ奥まで届ききっていない。でも、前回より進んだ」
「……また来る」レンが言った。「約束、覚えてる?」
「……覚えている。また来てくれ。俺もまた強くなる」
レンが笑った。疲れた目のまま、でも今日は前回より少し明るい笑顔だった。
「……おにいちゃん、今日は怖い顔じゃなくて、すごく真剣な顔してた」
「……怖い顔だと思うが」
「怖いけど、真剣。真剣な方が大きかった」
俺は何も言えなかった。
レンと母親が帰った。扉が閉まった。
治癒所が静かになった。
◆ ◆ ◆
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのはリエナだった。
「……カル、今日の光、色が変わってた」
「……そうか」
「金色に近かった。前回より濃かった」
グランが頷いた。
「儂にも見えた。お前さんの光が、また一段階変わった」
「……変わった、というのは」
「深くなった。前は光が表面を照らす感じだった。今日は光が根っこまで染み込む感じだった」
俺は自分の手のひらを見た。疲れている。でも、嫌な疲れではない。全力を出した後の疲れだ。前の世界でも、こういう疲れは好きだった。
「……まだ足りない」
「わかっている」グランが言った。「でも今日は前より届いた。それでいい」
「……レンが『奥から温かい』と言った」
「……そうだな」
「……前回は『ただ温かかっただけ』だったそうだ。今日は違った。患者が感じる違いは、俺が感じる違いより、正確なことがある」
リエナが「それ、大事なこと言ってる」とメモを取り始めた。
「……記録するか」
「する。患者が感じる変化を記録すると、治癒の精度が上がると思う。カルの感覚だけじゃなくて、患者側のデータも積み重ねる」
「……それは、いい考えだ」
リエナが「でしょ」と言って、猛烈な速度でメモを書いた。
グランがハーブ茶を三杯持ってきた。
三人で、静かに飲んだ。
外はもう夕暮れだった。石畳が赤く染まっている。今日も一日が終わる。
(……前回より届いた)
それだけで、今日は十分だった。
◆
夜、チャが来た。
今日は扉の隙間ではなく、窓から来た。開いていた窓から、するりと入ってきた。
「……窓からも来るのか」
「にゃ」
「……扉と窓、どちらが好きか」
「にゃ」
「……その日の気分か」
「にゃ」
チャが俺の隣に座った。
「……今日、レンが来た。前回より届いた。揺れが小さくなった」
「にゃ」
「……『真剣な顔の方が大きかった』と言われた」
「にゃ」
「……怖い顔でも、真剣な顔だと思ってもらえるなら、悪くない」
チャがごろごろと鳴き始めた。
今日は道中で石畳が濡れた。それは本当に申し訳なかった。でも、レンに届いた。
どちらも、今日起きたことだ。
目を閉じた。
明日も治しに行く。少しずつ、届かせていく。
道中で石畳が濡れました。今まで一番申し訳なかった出来事です。
目をつぶって入ってきた患者さんが、何もない段差で躓きました。段差は先週削りました。
レンが来ました。前回より深く届きました。揺れが小さくなりました。
『真剣な顔の方が大きかった』と言われました。怖い顔でも、真剣な顔だと思ってもらえるなら、悪くないです。
チャは今日、窓から来ました。




