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第二十九話

 僕は居酒屋に黒川さんを残し、一人で帰宅した。聞けば黒川さんは「もう少し呑んでいくね」との事だ。

 ……ほーんと、外で他人に迷惑を掛けるのだけは止して欲しい。



 外はもう暗く、真っ暗闇の中で街灯や家々の明かりが外気を温めていた。雨はもうすっかり止んでいる。手には梅雨の湿り気が残っている。雨に叩かれ続けたコンクリートの匂いが鼻腔に差し込んできて、頭を冷たく掻き混ぜる。


 空にはまだどんよりと曇天が掛かっていて、星も月の明かりでさえよく見えなかった。

 梅雨の終りはいつなのだろう――――ふとそんな事が頭を過った。



 あと一週間くらいだろうか。雨の匂いは明日も梅雨である事を色濃く告げている。

 白峰館の門を潜り抜ける。二階に上がろうとして、僕は一階――103号室の辺りに目をやる。103号室からは灯りが見える。相田さんとももう十日、顔を合わせていない。


  ……後で相田さんのところに差し入れに行こうか。そう思った。



  僕は自宅――202号室を素通りし、201号室の扉を開けた。

  相も変わらず白峰館201号室の鍵は開いていた。


  部屋からは妙に籠っているような熱気が伝ってきた。多分、この十日というモノ一度も換気をしていないのだろう。僕は覚悟を決めつつ部屋に入る。


  直ぐに遮光カーテンの姿が目に映った。その隙間から黄色い光が漏れる。奥からは布の擦れ合わさる音が聞こえる。菫はまだ起きているようだった。



「――――――菫」

 僕は呼びかけた。遮光カーテンに阻まれないような、出来る限り滑舌良く綺麗な声で。


 ……多分、伝わったと思う。返事は返って来ないが…………そう信じよう。

 僕は遮光カーテンの手前に腰を据え、そして再度、口を開いた。



「……菫。今日は晩御飯、準備出来なくて……その、悪かったな」


「…………………………」


「今日は、えと、奈々子叔母さんが代わりに準備してくれたんだってな。……どうだった、味は? あの人、実はやり手のキャリアウーマンだったんだってな。僕、初めてあの人の経歴聞いてもうたまげたよ。そんな人だからすっげー旨い飯を作ってくれたかもな。それとも内面通りに滅茶苦茶な味付けした飯でも出されたのか? まああの人なら有り得るけど…………。どうなんだろうな?」


「…………………………」


「それで僕はと言うとそれが何とあの黒川さんと一緒に居酒屋に行ったんだよ。あの半引き籠りの黒川さんとだぜ? それもスーツ姿なんて滅多に見れない恰好だった。あの人、普段から笑うと美人だと思っていたけど、ちゃんとそれなりの恰好をすれば普通に美人なんだな。驚いたよ。それであの人はまだ居酒屋で呑んでいる。僕が居た時までずーっと呑み続けてたのにまだ呑むのかよ、って感じだけどな。あの様子じゃ、結局あの店でぶっ倒れて迷惑掛ける事は目に見えているよ。……もしかしたら介抱しに後で呼ばれるかもな。少し面倒だけど、僕は白峰館の世話役を頼まれているんだから。しょうがないかもな」


「…………………………」


「それで黒川さんと話して、それで聞いたんだ。――――お前の引き籠った理由」


「…………………………」


「お前がさ、ここで素直に同情して貰いたいなんて安っぽい奴だとは思わない。辛かったね、大変だったね――――なんてB級の言葉を貰ってそれで嬉しがるようなそんなつまらない奴だなんて僕は思わない。……けどさ、僕は思ったんだよ。――――これが本当に本当の意味で引き籠る理由なんだってな」


「…………………………」


「……僕もさ、お前も知っている通り引き籠りだったんだよ。知っているだろう? でもさ……。僕は、お前みたいに大層な理由を持って引き籠った訳じゃない……。もっと、ずっとちんけな理由さ」


「…………………………」


「苛められてたんだ、僕」


「…………………………」


「中学二年の頃の事さ。今思えば大した事でも無かったんだけど、当時の僕からすれば死にたいぐらい苦しかったよ。……暇さえあれば校舎裏に呼ばれてさ、殴る蹴るは当たり前。小遣いも何度か忘れるくらい奪われたし、パシられもした。トイレに入ってたら頭上から汚水が降ってきた時なんて結構きつかったな。机は砂が詰まってたり、椅子がなくなってたり…………まあ中学生の、っていうかガキが考え付きそうなあらゆる苛めを経験したよ」


「…………………………」


「…………苛められていた理由は……まだよく分からない。まあ予想は幾らか思いつくけどな。どれも理由と言って良い程、大したものじゃないよ。強いて言うなら安心したからかも知れないな。弱者を作る事で彼らは安らぎを得たかったんだよ。――――なんて言うのは余りにもベタすぎるか」


「…………………………」


「毎朝毎朝、嗚咽が漏れだすのを我慢しながら学校に通っていたよ。胃が痛くなるんだよな。それを意識した次の瞬間には足が重くなって、その後は手が動かなくなる。それでも気力で学校へは行っていたよ。親に下手な心配掛ける訳にはいかなかったからな。……まあそれが今考えれば僕にとってもっと罪深かった考えなんだけどよ。……他人を頼れない奴なんてそれだけで罪深いってなもんだ。……お前も知ってんだろ、それぐらい。知っていて尚、引き籠ってんだろう? ――――僕もそうだった」


「…………………………」


「そんでさ……まあ、中学二年の頃は耐えきったんだよ。今、考えればそれなりに凄いと思う。自慢にはならないけど。それで中学三年生になって……少しは状況が変わると思った。良くなると考えた。……結果良くならなかった。クラス替えで僕を苛めていた連中とはまた同じクラスになったよ。当時は心が折れそうだった。……それでも僕は折れなかった。プライドばっかり高かったからさ、折れて堪るかって感じだった。――――あと一年、あと一年って。そればっかり考えていて、それが生きる希望だった」


「…………………………」


「それで進路を選ぶ時期になって僕はちょっと離れた高校を選ぶ事に決めた。……近いところじゃまた苛めていた連中と同じところになっちまうかも知れないって。そんな可能性を僕は恐れていたのさ。そんで進路希望を提出する間際、僕はちらりと連中の進路先を盗み見た。――――瞬間、僕の心は折れた。同じだったんだ、進路先」


「…………………………」


「……でもさ、僕は思うんだよ。それもあいつらの手口だったんじゃないかって。もうあらゆる手段で僕に対する苛めを試していた連中の手段の一環だったと思うんだ、あれはね。進路だって後で変更なんて幾らでも出来るんだし。……そうは言っても当時の僕にとっては決定的なダメージになり得た。脳味噌を直接鈍器で叩かれたような感じ。視界を暗闇が覆い尽くす。世界のトーンが灰色に移り変わっていく……。僕はそうして引き籠った。もう傷つきたくなくて。もう世界の残酷さに触れたくなくて」


「…………………………」


「でも中学三年生の頃は休みがちだったけど、それでも学校へは通ったんだ。それで出席日数が基準を満たした瞬間、僕は引き籠りになった。一年間――それが僕のタイムリミットだったんだ。そしてそれを機に完全な引き籠りに堕ちた。沼の中に沈んでいく感覚。最初は発狂しそうなくらい苦しくて、段々と泥の感触が気持ちよくなって温かくなって、底に辿り着いて、そしてそこで懸命にもがき続ける。……つまらないよな。でも止められない。そうしていく事でしか生きられなかったから」


「…………………………」


「……な? ちんけで詰まらなくて矮小でどうしようもなく愚かな理由だろう? お前の理由とは比べものにならないくらいよ。僕はあの頃どうして引き籠っていたのか分からないくらいだ。――――駄目な奴だったんだよ、僕は」



 そこまで僕は捲し立てるようにして言い切った。喉が熱い。まるで灼熱の泥を飲み込んだようだ。喉を通り、食道を潜り抜け、胃に滴り落ちる。……胃がかっと熱を帯びる。



「――――――らない」

 急に、だった。


 何の脈絡も無く、遮光カーテンの奥から声が聞こえてきた。

 掠れた声。いつもの透き通るような声が消えている。……でも。


 それでも十日ぶりに聞く――――――菫の音。命の声。



「――――――下らないよ、椛」

 菫の音は怒気を孕んでいた。灼熱と冷気が攪拌された痛々しい色を持っている。


「……そ、そうだろう、菫。下らない、そうだよな。何なら笑ってくれても構わないぜ」

「そうじゃないよ、椛。全然違う。間違っている」

「……は?」

 ――――どういう事だ。僕は菫の心意を測りかね、疑問の色を濃くした。



「椛。君のそれは本当に下らないよ。自分で気付かないのかい?」

「…………気付かない。どういう事だ、菫?」

「自分を束縛する鎖を自慢し合う事ほど滑稽なものは無い――――そう言いたいのさ」

「……鎖?」

「そうだよ、椛。不幸は絶対的なものであって相対的なもので無い。お互いの不幸を比べあって優劣をつけあう必要が一体何処にある。不幸の度合いなんて環境や状況によって幾らでも変動するだろう。そんなものは愚かなんだ。君も言っただろう。死にたいぐらいに辛かった、と。客観的に見てどうあれ、なんてものは本来不幸を持っている者に関係ない事なんだ。大切なのはそれを受け止めた人間が一体何が出来るか――そう言う事なんだよ」

「………………………………」

 僕は押し黙った。あまりにも正論だったからだ。



 一体何を言っていたんだ? 不幸を比べて何になる? 況して不幸が他人と比べて優れていたところで、あるいは劣っていたところでそんな事は空しいだけじゃないか。


「そうだ。大切なのは不幸を持っていたところで、それを糧に変われるかそうでないかなんだ――――――――君は変わった。ぼくは変わってない。これが結果さ」

「菫……」

「ぼくは変わらない。変われない。いつまで経ってもこの沼の底から出られない。こんなつまらない沼の中、底をがりがりと削り、そして自分自身を傷つけ続けるだけ……。一体自分がどうしたら良いか分からないんだ!」

「そんな事……」

「そんな事は決まっている? ああ、そうだ! 自分でも分かっているよ、そんな事! でも怖いんだ! 外に出るのが! 世界に触れて、自分自身がズタズタになってしまわないか、ぼくは怖くて怖くて堪らないんだ! 夢にも見る! ドアを開けた瞬間、ぼくが日光に浄化されて灰になり、そして世界を漂うんだ! 永遠につまらない旅路へと出る! 人生なんて所詮はそんなもの――――変わらないぼくが世界の厳しさに触れて、そして生きていける訳が無い! 美しさなど欠片も無い! 馬鹿馬鹿しい!」

「…………………………………………」

「それならむしろこのままが良い! 世界の美しさなど信じず、リスクを背負わず、自分の世界の安全だけを盲目的に信用して沼の底に沈む! ずぶずぶずぶずぶずぶずぶずぶ――――――とね。ぼくは世界を信じない! 世界はぼくを信じない! もう放って置いてくれ! 軽蔑してくれ! 智久も真紀も奈々子もそして――――椛も! ぼくは触れた者全てを傷つけてしまうんだ! 癇癪だって起こす! 君に触れればぼくはいつだって正気を失う! そんなぼくを一体誰が受け止めてくれると言うんだ!」

「………………僕は――――」

「『僕は』!? これから先、何度だって癇癪を起こし続ける不発弾みたいなぼくを前にしてもか! 何度だって傷つくかも知れないのに! そんな事、ぼくは信じないよ!」

「………………………………」

 ――――――――どうして。



 どうして言葉はこんなにも陳腐なんだろう。

 どうして言葉は救いの手を差し伸べるには足らず、そして崖から突き落とすのはこんなにも容易いのだろう。言葉は陰に惹かれやすい――――そんな事は頭で幾ら分かっていても納得出来るものじゃない。



 菫にはもう言葉は――――――届かない。



 だから――――――

 だから相田さんも、そして黒川さんも菫を諦めるしか無かったのか。


 そしてお互いに引き籠って、自分自身の傷を舐めた。



 どうすれば――――良いのだろう。




 僕は遮光カーテンを前にしていつまでも答えの出ない問答を繰り返した。

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