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第二十八話

 これで頭拭きなさい、と黒川さんからタオルを渡された後に、

「雨宿りも兼ねて寄っていきましょうよ」

 と連れてこられたのは素朴さ漂う居酒屋だった。



「ここ、担当に連れてこられて以来、どうも馴染んじゃってね」

 店に入るなり梅酒を浴びるように飲み始めた黒川さんはそう言って微笑んだ。

 そんな中僕はと言うと、来た事の無い居酒屋の雰囲気に萎縮してしまい張り付けたような笑顔で黒川さんがお酒を煽っている姿を眺めていた。


「ちょっと、椛君。何を遠慮しているのよ? どんどん頼みなさいって」

「いや、でも僕こう言ったところは始めてで……」

「あー、成程。じゃああたしが適当に頼んであげるわね。ちょっと店員さん、かまーん! えっと……ここからここまでお願いね!」

「え、ちょっと……そんなには……」

 反論しようとする僕を無視して黒川さんは手当り次第にメニューを頼む。



 数分後やって来たのは僕が三人居ても食べきれない量だった。

 …………いやいや、どうすんだよ、これ。


「あの、黒川さん。僕、こんなに食べきれませんよ?」

「良いのよ。余ったらあたしが食べるし。それに居酒屋ってのは食べきれない量の飯を頼むのがしきたりなの」

「何、その色んなところからお叱りを受けそうなしきたり……」

 日本人の残飯問題を一緒くたにしたような惨状だ。


 仕方なく僕は目の前にある唐揚げを口の中に放り込む。ジューシーな肉汁とジャンクっぽい味が口の中に広がって腹が空いていた事を僕は思い出した。

 その後は次々と目の前に広がっているメニューを平らげていく。食べきれない量だと思ったのに、四分の三くらいが直ぐに無くなっていった。



「やっぱり育ちざかりなのねぇ……。あたしもこんなに食べるとは思わなかったわ」

 黒川さんは驚いたように言う。計画性の無い様子は見習うべき所もあるのかも知れない。

 …………いや、普通に反面教師か。


「……って。そういや、僕、今はお金なんて殆ど持っていないですよ?」

「そんなの良いわよ。これぐらい払えない程、あたしが甲斐性無いように見える?」

「……残念ながら」

「再評価を要求するわ」

「再評価ですか……」

 僕は黒川さんをまじまじと見つめた。いつもの竹箒をぶら下げたみたいでは無い、それなりにきちんと整っている髪の毛。普段見せている酷い隈は化粧で隠しているのか目立たないし、何よりもスーツ姿なのが新鮮だ。……いや、違和感だ。普段、スウェットの上下姿しか見た事が無いのでどうしても喉元に引っ掛かるような疑念を感じてしまう。



「最早、別人ですよね」

「椛君。それは褒め言葉として受け取って良いのかしら?」

「……いえ。女ってこえーなーって思いました」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 ……いやだってさ。普段、あんなにだらしない恰好している黒川さんが外ではこんなにもちゃんとした格好した人だって思わねえじゃん、普通。


 半引き籠りで、常時スウェット姿で、下手したらこの現代日本で餓死してしまうような自堕落に自堕落をかけたような生活をしている人間がまさか…………。それは裏を返せば普段外で見かける凛としている女性――例えば部長のような人でも家では廃人のような生活を送っている可能性がある訳で。



 それはもう奇怪だと言って何ら遜色無い。


「あたしら引き籠りは特にだけど……。人は皆、外が怖いから武装していくものなのよ。中でも女性は別格ね。家の中と外では別人だと思っていた方が良いわよ」

「女ってこえーです」

「繰り返し、刻み込んでおきなさい」

 僕はヤケ酒とばかりに黒川さんが頼んでくれていたオレンジジュースを煽った。喉元が甘ったるい味で焼かれる。脳味噌がごちゃごちゃとした暗雲を消し飛ばす。


 そして僕はようやく思い出した。



「あ…………菫ッ!」

 僕は居酒屋に置いてある掛け時計に目をやった。時刻はもう午後の八時を回っている。今から帰って晩御飯を作り始めたとしても九時は余裕で過ぎるだろう。いや、多分十時近くにはなってしまう筈だ。


「……い、急いで戻らないと!」

 そう口にして僕は帰り支度を整え、立ち上がる。腹が少しだけもたれたが関係無い。



 菫は引き籠りなんだ。誰かが世話をしなければ直ぐに折れて砕けてしまうような、そんな脆い存在。それは真実に触れてより顕著に見えている。


 だから…………ッ。そう意気込んで立ち上がる僕を黒川さんはあくまでも優しく制した。


「ちょっと待って、椛君」

「ちょっと待ってって……。そんな事……今も菫は僕の作る飯を待っているかも知れないのに………………ッ」

「その点は心配要らないわ。だから座りなさい」

「どうしてそんな事――――」

「今日のところは菫ちゃんのご飯は奈々子さんにお願いしてあるわ。だから今日のところは大丈夫。良いから座りなさいな」

「え…………奈々子叔母さんが……」

 意気込んでいた僕は身体がら空気が抜けていくように座った。


 より正確に言えば膝から崩れ落ちた。

 ……何なのだろう、この気持ちは。ゴール地点を失ったランナーのような、価値を見失ったかのような、そんな気持ちは。



 ……いや、そもそも僕はどうしてこんなにも落胆しているのだろうか。

 菫の世話を奈々子叔母さんが引き受けてくれた、それは楽になったと喜ぶべきじゃないのか? 菫が腹を空かせる心配が無くなったと胸を撫で下ろすべきでは?


 それが分かっていて尚、感じるこの虚脱感は何なのだろうか。



「椛君。貴方は色々と肩肘を張り過ぎなのよ。少しは息抜きしても良いとあたしは思うよ?」

「………………………………」

 僕は今、どういう顔をしているのだろうか。ちゃんと笑っているだろうか。表面だけでも取り繕っているのだろうか。

 それとも悲壮感漂う顔をしているのか?


「ごめんね。最近、自分の事で精一杯で椛君に構う暇が無かったんだ。……聞いたよ、菫ちゃんの事、知っちゃったんだってね」

「……別に。心配されるような事は……」

 僕はかぶりを振る。確かにこの十日程、僕は黒川さんの姿を見ていなかった。どうせ仕事が忙しいんだろう、とそう思っていた。


 気に掛けて貰っているなんて思いもしなかった。

 そして気に掛けて貰う必要があるなんて考えもしなかった。



「この間、智久から聞いたわよ。結構動揺していたらしいじゃない」

「そんな事は……」

「ごめんね。智久ってばそういうフォロー、ド下手だから。あいつ、大体何でも出来るけど、こういう人付き合いに関してはチンパンジー並だから」

「…………………………」

 人間にすらなりきれていなかった。


 ……結構、辛辣な事言うな、この人も。


「前に聞いたでしょう? あいつ、社会に出るまでは勉強しかしていなかったような典型的ながり勉だったらしいのよ。だから人付き合いに関してはもう、ね……。出来れば察してくれるとありがたいわ」

「……察するですか? あの人を?」

 あの――――ひとでなしを?



 菫を見捨てたあんな奴を?

 そんな奴を慮ったところで一体何が残ると言うのだろうか。


 僕は苦い顔をした。目に泥を浮かべる。



「でもあの人はあいつを――菫を見捨てたんでしょう? あんなに大変な様子になった少女を放って置いたような人間でしょう? そんな奴の何処を察しろって言うんですか?」

「…………智久、そんな事言ってたの?」

「ええ。俺は菫を捨てた両親と同じような屑野郎とか何とか…………」

「…………………………………………」

 黒川さんは動揺の色を瞳に浮かべた。そして――――言う。



「あいつ…………どんな言い方をしたらここまで椛君を誤解させられるのかしら?」

 右手で目を覆いながら黒川さんは苦い顔を浮かべた。


「…………え、ん? どういう事ですか?」

「つまりね、椛君」

「…………………………」

「智久は見捨てたんじゃないの。見捨てざるを得なかったと言うか……。いや、そういう事じゃないか。ううん…………」

 黒川さんは言い方を選ぶような物言いをする。


 言葉は難しい――――――そう言いたげに。



「正しくは智久が差し出した救いの手を菫ちゃんが拒んだのよ」

「…………へ?」

「ちなみにそれはあたしも同様よ」

「………………………………」

 菫が相田さんと黒川さんの助けを拒んだ…………つまりはそういう事なのか?



 何の為に――――そう思い浮かべてそんな事は直ぐに分かった。

 それは僕が一番良く知っている。元、引き籠りの僕だからこそ。


 菫は傷つかない為に二人の助けを拒んだのだ。

 お互いに触れて、触れ合って、これ以上、傷つきあわない為に。



 引き籠りの臆病さを僕は――――――よく知っている。


「智久からも聞いたでしょう? もう四年も前にあたし達二人は菫ちゃんの事実を知った。菫ちゃんは他人に不用意に触れられたりすると昔のトラウマ――誘拐された頃の事を思いだして発作を起こす。その異常さは君も目の当たりしたんでしょう?」

「…………はい」

 今思い出しても背筋が凍りつく。人間が理性を失い、獣になる瞬間と言うのはそれ程までに壮絶だった。


「まあ、そのトラウマってのも割と複雑なものでね……。これは奈々子さんから聞いた話だけど菫ちゃんってば誘拐事件直後からああ言った様子って訳じゃないのよ」

「……では、どういう――――」

「誘拐自体が原因なのは間違いないんだけど……、それを深くしちゃったのは菫ちゃんの両親なの。知っているでしょう? 菫ちゃんが両親に棄てられたって話は……」

「…………酷い話ですよね」

「まあ両親にも誘拐事件の被害者と言えばそうなんだけどね……。でも両親も菫ちゃんもあの事件を全て乗り越えられる程に強くは無かった。当然だけどね。菫ちゃんの家計は誘拐事件で要求された身代金を支払う為に借金をしたそうで、警察もあまり良い対応をしてくれなかった……。保険も上手く降りなくて借金が家計を圧迫している内に両親が喧嘩を繰り返すようになった末、離婚。菫ちゃんは母方に引き取られたんだけど……、母親は仕事が上手くいかず、職種を転々としている内にノイローゼになっちゃったらしくて……」

「………………………………」

 あまりにも――――あまりにも綺麗で絵に描いたような悲劇だ。



 紛い物みたいで。作り物みたいで。嘘みたいな話。


 ――――でも本当の話なのだろう。それは菫の様子と黒川さんの話しぶりから分かる。



「その内に母親は菫ちゃんに当たり散らすようになった。何度と無く、口汚く罵ったそうで、肉体的な暴力は一切行っていなかったんだけど……、それも時間の問題だったんでしょうね。それぐらい菫ちゃんの母親は精神が擦り切れていた。もう一緒に暮らす事は不可能だったのよ」

「それで菫は……」

「ええ。元々、奈々子さんは菫ちゃんの遠い親戚に当たるの。菫ちゃんの母親の兄が奈々子さんの妹の夫でね。殆ど赤の他人みたいな繋がりだけど、奈々子さんはあの性格でしょう? かなり遠い親戚であっても事情くらいは知っていたそうよ。その内に菫ちゃんの母親がノイローゼになった事を知って、いてもたっても居られずに菫ちゃんを引き取ったの」

「……奈々子叔母さんが」

 あの人、あんなちゃらんぽらんな性格している癖して…………。



 ……いや。僕だって奈々子叔母さんには世話になっているくちだ。あの人のお節介さくらい十分過ぎる程、知っている。彼女ならそれくらいやってのけるだろう。

 ――――うん? でもちょっと待て。


「……じゃあ何で菫は一人きりで白峰館なんかに?」

「ええと、椛君は奈々子さんの仕事って何か分かる?」

「………………いや」

 僕は首を振った。……そう言えば聞いた事が無い。



「あの人、実は社長秘書なのよ」

「…………はあ!?」

 僕は自分の耳を疑った。あ、あの人が!? 奈々子叔母さんが…………まさか……嘘だろう? あの歩くセクハラと(僕の中で)有名な叔母さんが社長秘書なんて…………。


「……そうよねえ。普通は信じられないわよねえ……。あんな破天荒な人が社長秘書なんて話、四月一日に聞かなくても嘘だと思っちゃうわ。……まあでも事実なのよ。大手では無いけれど、そこそこ名のある会社よ」

 僕は黒川さんから奈々子叔母さんが社長秘書をやっているらしい会社の名前を聞いて、夢では無いか疑い、そして次に自分の正気を疑った。


 …………よくもまあ首にならずに居られるものだ。



「あれでいて奈々子さんって相当のやり手らしくて…………。知ってる? 奈々子さんって何か国語も喋れる上にキャリアもエリート街道まっしぐらなのよ」

「…………なんか理不尽なものを感じますね」

「あたしもそう思うわ。……何でしょうね。普段、ちゃんとしている人程、鬱憤が溜まっているものがあるのかしらね。さっきの話じゃないけど……、椛君、ホント気を付けた方が良いわよ。……兎に角、そんなんだから奈々子さんは忙しくて自宅に居られる時間が殆ど無いのよ。そんな中で菫ちゃんを自宅に一人留守番させているよりも、白峰館に住まわせた方があたし達も居るしで都合が良いんじゃないかって話になった後、入居したの。……これが五年も前の話よ。時が経つのは早いわね」

 そう言った後に黒川さんは梅酒を一気に煽った。その後、ウィスキーを注文する。



 ……この人、ここで酔い潰れる気なのだろうか。


「それで最初こそあたしと智久で菫ちゃんを世話していたわ。今でこそ菫ちゃんは部屋から一歩も出ようとしないけれど、あの頃はあたし達と一緒で白峰館から外には出ようとしなかったけれど、部屋から何度と無く出てたわよ。奈々子さんも暇が出来れば様子を見に来てくれたし……。今思えばあの頃が一番、真人間に近かった時期かも知れないわね」

「……………………………………」

「それでまあ、分かっているでしょうけれど……。四年前。菫ちゃんが白峰館に入居してから一年後、あたし達は菫ちゃんの真実に触れた。……いや、その時にあたし達は菫ちゃんがどれだけ傷ついていたのか、どれだけ壊れていたのかを知ったのよ。……酷かったわ」

 聞いていて僕は思った。



 彼女達――黒川さんと相田さんは僕と同じだと。

 いや――違う。僕が黒川さんと相田さんの役目を引き継いだのだ。


 そして同じ失敗を繰り返し、今僕は――――ここに居る。



「……それでどうなったんですか?」

 この質問をした僕は多分、酷い奴なのだろう。

 この結末など分かりきった事じゃないか。


 相田さんは何度と無く「失敗した」とそう言っていた。

 そして黒川さんも言っていた「あたしも智久と同じだ」と。



 この中で導かれる答えなんて他には――――――無い。


「失敗した。バッドエンドよ、これ以上無いくらいの酷いバッドエンド」

 端的に黒川さんはそう口にした。梅雨の鬱々とした中から生まれたような酷い言葉は僕らの空気をどんよりと重くしていく。


「菫ちゃんの真実――今まで触れられてこなかった真実は四年前のあの日から明るみになった。あたし達はおろか奈々子さんも、そして菫ちゃん自身も気付かなかったくらい埋もれていた心の深い深い傷……。多分、菫ちゃんが隠すのが上手すぎたんでしょうね。事件当初はそんな傷、何処を探しても見当たらなかった。それは菫ちゃんが気丈に振る舞って上手く隠していたから。でも両親の離婚、母親の八つ当たり、そして棄てられる――――そうした事を繰り返す内に隠していたものが少しずつ剥がれていった。それで遂に見つかってしまった。菫ちゃんはそれはもう暴れたわ。あたし達二人が必死になって抑え込んでも半日は発作が治まらなかった。部屋も部屋の中に置いてあったものもあたし達も当然、菫ちゃんも皆がみーんな、傷ついた。…………傷つき過ぎたのよ」

「それで……ですか? それで菫は臆病になって、誰も傷つかないように徹底的に引き籠って、そして貴方達二人が差し伸べた手も自ら振り払ってしまったんですか?」

「そうよ」

 黒川さんは言った。その短い言葉が全てだった。



 その短くも残酷な言葉が全てを物語っていた。


 ――――だって彼女の言葉は絶対零度の冷気を孕んでいたから。

 嚥下しようと喉を通せば喉元があまりの冷たさで焼け爛れてしまうくらいの刺々しい、そんな冷たい言葉……。


「引き籠りってね、臆病で繊細で、とっても傷つきやすいの。だから自分で殻を作って、自分の世界に閉じ籠っちゃう。自分の内側を守る為に敵意を全て遮断する。それが正しい生き方だと酷い誤解をしてしまう。他人に触れないからどんどん考えが極端になっていく。自分の未来を失くしてでも、敵意に対して守りに入る。そうしていく内に周囲は変わっていく。それでも自分は変われない。変わるには外の世界に触れないといけないから。外の世界が醜い自分に比べてどれ程、美しいか分かっている筈なのに…………それでも触れられない。触れる事に怯える。どんどん取り返しが尽かなくなっていく…………」

「……………………………………」

「ねえ、椛君。分かるでしょう、貴方なら。変わる事がどれだけ怖い事で、そしてどれだけ美しい事なのか――――――引き籠っていた頃から変われた貴方ならきっと分かる……」

「分かる。分かりますよ…………でも……」

 僕はそれを知っている。


 ……だが、それをどうやって形にして良いか分からない。

 どうやって菫にそれを知って貰えば良いか…………分からない。



「何度でも言うわ。あたし達は失敗した。もう取り返しが尽かない。……けれど、貴方なら……椛君なら、菫ちゃんを変えられるかも知れない……」 

 ――――気付けば。


 気付けば黒川さんは頭を下げていた。他ならぬ僕に対して。

 僕みたいな矮小で愚かな人間に対して――――誠実に頭を下げてくれていた。



「お願い……菫ちゃんを……助けてあげて……あの沼の底から掬い上げてやって……あたし達が出来なかった願いを…………どうか…………」

「………………そんな」

 僕は頷けなかった。


 既に僕は失敗している。失敗して、もう取り返しが尽かないのかも知れない。

 あの酷く壊れやすく、繊細な真実に触れて、それをもう修復するのは不可能――――なのかも……。そう思うと僕は迫りくる焦燥で胸が焼かれそうになった。



 どうすれば良い…………僕はどうすれば…………。



 頭を下げる黒川さんを前にして僕はどうしようもなく滑稽に黙っているしか無かった。



 一歩でさえ外に出られない引き籠りのように――――昔のように――――――

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