第二十七話
「……………………………………」
十日前――手の平から滴り落ちる泥みたいに過ぎたあの日の事を思いだしながら僕は再び胸糞を悪くした。
原因は――――――二つある。
一つは当然ながら相田さんの事である。
相田さんは菫のあんなに大変な様子を見てからと言うモノ、菫に顔を合わせていない。
詰まる所、相田さんは見捨てたのだ。菫を面倒なメンへラ少女だと決め付け、そして関わり合いにならない事を選んだっていう事。
――――それを僕は決して許さない。
だって身勝手過ぎるじゃないか。最初こそ相田さんは菫を可愛がっていたのだろう。……いや、今も相田さんは菫を気に掛けてはいる。だが、それでも菫の面倒な真実に触れた途端、掌を返すようにして後ろを向いてしまった。
――――――見捨ててしまった。
それは駄目人間どころじゃない。最底辺の――――人間以下だ。
人で無し――――ひとでなし、だ。
僕は何だかんだで相田さんを良い人だと思っていた。駄目人間でこそあるものの、人を気に掛け、時には優しく相談に乗ってくれる。そして違う視点からそれなりの意見や答えを提示してくれる。
僕は相田さんを世話しながら、実際助けられる事も多かった…………と思う。
だがもう僕は相田さんを許しはしない。手を差し伸べるべき人間に背を向けるなんて人間のやる事では無い――――――――僕はそう思うから。
この十日間もの間、僕は一度たりとも相田さんと顔を合わせてはいない。そもそも相田さんの世話する時は相田さんから僕の部屋を訪ねてきていた。そこはかとない気軽さで飯を作ってくれだの、つまみを作ってくれだのとお願いされるから僕は何かと相田さんと顔を合わせる事が多かった。しかしこの十日間は一度も僕の部屋を訪ねてはこなかった。
多分、相田さんも十日前の事は後ろめたいのだろう。……それで良い。
相田さんはこの四年間もの間、菫を放って置いた事をもっと反省すべきなのだ。
だから当然、僕からも相田さんの部屋――103号室を訪ねてはいない。
――――彼は今、どうしているんだろうか。
……いや。多分、十日前の事どころかこの四年間の自分の行いに何の自責の念も持たず、気ままに絵でも描いているのだろう。ゴミ屋敷を形成しながら。
あんな奴、誰が手助けするものか。あのままゴミに埋もれて一生過ごしやがれ。
家賃の事なんぞ知るものか。いざとなればバイトでもしながら家賃やらを支払えば良い。奈々子叔母さんの策に屈したのも住民の世話が僕にとってそれほどの苦にならないから、という前提があってこそだ。その前提が崩壊すれば策に乗る必要など毛頭無い。
そんな風に、そんな感じに。
僕はつまらない怒りに胸を焦がしているのだった。血の一滴一滴に棘が入り込んで心臓に届けばその都度、心臓に熱い傷を残すような感覚。傷は怨嗟を膿んで、また僕に猛々しい怒りを覚えさせる。
だが怒りの理由は――――もう一つある。
それは勿論、自分に対する自責の怒りだ。
自己嫌悪で僕は押し潰されそうなくらい黒々と塗り潰されている。
十日間――だ。
そう。十日間もの間、僕は菫に対して何にも出来ていなかった。
あの日から僕は相田さんのみならず菫とも言葉を一言ですら交わしていなかった。
詰まる所、もっとずっと前――――四月の始め、一口でさえご飯を口にしていなかった頃に戻ったみたいだった。分厚い遮光カーテンは一向に開こうとはしない。
普段と同じく僕はこの十日間、一日たりとも菫に晩御飯を届ける事を欠かしてはいない。だが菫はあの日よりめっきり食べる量が減ってしまった。朝、食器を取りに来ても口にされているのは良くて三口と言ったところ。四月の頭よりかはマシだったものの、それでも減った事には変わりない。
――――いや。多分、状況は悪化したのだろう。四月の頭、どうして二週間以上も菫が僕の作った飯を一口でさえ食べずに生存出来ていたのか――――それはその分を部屋にあったお菓子を食べて彼女は生存していたからだ。でも今は部屋に殆ど何も残っていない筈。僕は何度も彼女の部屋を掃除しているのだ、僕が見る限りに置いてお菓子は置いていなかった。もしかすれば僕が知らない場所にお菓子他食糧を隠し持っているのかも分からないが、それでもそう長くは持たない。
だから遅かれ早かれ菫にはもっとご飯を食べて貰わなければならない。このままでは栄養失調で倒れかねないから。
しかし彼女が倒れたとしても僕はその事実に気付く事が出来ない。一応、遮光カーテンの奥から届いてくる衣擦りの音で未だ大した問題にはなっていない事は確認しているけれども、それでも――――明日はどうなっているか分からない。
――――――出来れば。
出来る事なら遮光カーテンを思い切り開け放ちたかった。
またあのカーテンを開けて、ベッドの中で埋もれているあの少女にちょっとした悪態を吐かれながらも何気ない返事をしつつ部屋を掃除してやりたかった。
部屋は舌にざらつく埃っぽさを段々と取り戻し始めている。あの201号室はまたも沼の深くに沈みこみ底を削り始めているのだ。息が詰まるような閉塞感が肌に纏わりつく。
――――ふと。どうして僕はあの少女に――菫に拘るのだろうという疑問が沸いてきた。
どうしてだろう――僕はどうしてあの少女に拘るんだ。
見捨てろ、とまでは言わないがそれでも助けを求めれば良いじゃないか。こうなった責任は僕にあるかも知れないが少なくとも僕一人で解決しなくてはならない訳でも何でも無い。奈々子叔母さんに丸投げして僕は時折、様子を見に行くくらいに留まれば良い。
一応、僕は奈々子叔母さんに状況を逐一、知らせこそすれ決定的な言葉はまだ言っていない――――――僕ではどうにもならないから何とかしてくれ、という言葉を未だ口にはしていない。
僕がこの白峰館に入居するまでは奈々子叔母さんが菫の面倒の殆どを見ていたのだろう? なら今後もそうすれば良いのだ。それは見捨てた内には入らない――適材適所だ。
僕は携帯を握りしめる。……そうだ。このまま奈々子叔母さんに連絡をして助けを請えばどうとでもなる。叔母さんはあれでいてちゃんとした大人だ。きっと何とかしてくれる。
でも僕はそれをしなかった。硬く握りしめた手を解けさせる。
どうしてなのだろう、僕は再度自身に問い掛ける。
菫を傷つけてしまった罪悪感からか?
菫を世話する内に、手を突っ込み続ける内に情が沸いたのか?
それともそれ以上の理由が存在するのか?
「………………分からないな」
僕は呟いた。声が雨粒の中に溶けた。
僕はゆっくりと視界を上げた。目には見慣れた光景――学校から白峰館までの直帰コースである風景が飛び込んでくる。梅雨の雨に叩かれたこの光景はこの数日間で見慣れたものだ。傘を広げ、そこそこ車通りのある通学路を辿っている。部活帰りの有翅学園の生徒や通勤帰りのサラリーマンやOL、塾帰りの中学生や晩御飯の食材を買い込んだ主婦などがちらほらと見えている。彼らの動きはやけにゆっくりと見えていて、何でだろう何処か綺麗に見えた。
ふと僕は立ち止まってみた。佇む僕を余所にして周囲の人間は構う事無く動き続ける。学生もサラリーマンもOLも主婦も、皆が皆、忙しなく動く。それだけの事だ。
――――それだけの事がどうしてこうも美しく見えるのだろう。
……その疑問に僕は答えを出した。
それは僕があまりにも汚いからだ。矮小でどうしようもなく愚かでつまらない僕という人間が外を覗き込むからこそ、周囲の人間がこんなにも美しく覗ける。生きているという活力こそがこんなにも僕を惹きつける。
とても――――とてもつまらない理由だ。
僕は嗚咽を感じ、むせて、その場にうずくまる。右手に持っていた傘を取り落として、傘は歩道に転がった。背中に雨が冷たく伝う。頭のてっぺんが容赦無く濡れていく。
僕は汚い。僕は汚い。僕は汚い。僕は汚い。僕は汚い。僕は汚い。僕は汚い。
僕は…………何だ?
つまらない問い掛けを自分にして更に胸糞が悪くなる。
一体何をしているのだろう、僕は……。
帰ろう、そう思い立ち傘を拾おうと立ち上がると気付いた。
僕の傘をスーツ姿の女性が拾っている。僕に傘を差しだして何事か呟いている。
「…………したの?」
「…………え?」
視界が白く霞み、雨音で女性の声が掻き消えていた為に僕は呆けた言葉を返した。
女性は微笑んだ。僕はようやく気付く。
「何しているのよ、椛君。風邪、引くわよ?」
笑って僕に傘を差しだしてくれたのは始めて外で見かける黒川さんだった。




