第二十六話
「……そうか。お前も『アレ』を見ちゃったか」
十日前のあの日、あの後――菫が常軌を逸した取り乱し方をした後に僕は相田さんに先の件について尋ねてみた。
すると相田さんは先のような事を神妙な顔付きで言った。
「…………と言う事は相田さんも菫のあの様子を……知っているんですね?」
「まあな」
鋭い眼光を向けられ僕は一瞬、立ち竦む。
――――しかし、僕はここで真実に触れずには居られなかったのだ。
菫のあんな様子を放置したままにする事は僕には――――出来なかった。
「相田さん――――あれはどういう事なんですか?」
「……………………………………」
相田さんは少しだけ沈黙を見せた後、
「……そうだな。『アレ』を見て尚、お前に菫の事を隠しておくメリットはもう無いし…………俺が知っている事で良いなら話してやろう。……煙草、一本良いか?」
「…………お好きに」
僕の言葉を受け、相田さんは煙草を一本取り出して咥えた。火を点けて煙を大層美味そうに吐き出す。
だが僕には相田さんの吐く煙が暗雲立ち込めているように見えてならなかった。
実際の煙は103号室の天井に吸い込まれるようにして消えていく。
僕はベランダのへりに腰かけ、相田さんも間を少し空けて隣に並ぶ。
目は一切、合わさなかった。相田さんの虚のような目付きを見るのが僕は怖かったから。
「……菫のあの様子を俺が最後に見たのは四年も前の事だ」
相田さんはそう切り出した。氷塊された言葉がちょっとずつ溶けていく。
「あの時それはもう驚いたもんだ。すっげー暴れてさ……。あいつのあの状態になった時の目、ちゃんと見たか?」
「…………………………はい」
「すっげー、黒かっただろう」
「………………………………」
僕は無言で頷いた。
菫の目は黒かった。黒々としていて――――濁っていた。
そして僕は何となくあの目がどんな目であるか――――知っている。
あれは現在では無く――――過去に潰された目だ。
過去の陰惨な記憶に焼かれた目だ。
僕は何度と無く鏡を通してあの目を見た事がある。
他ならぬ僕が――――宿していた目だ。
「そうだ。あの夜中に井戸を覗きこんだような目。……正直、ゾクっとしたな。十歳かそこらの少女があんな目をするなんて知らなかった。俺の見識は狭かった。俺は本当に幸せな場所で生きていたんだな、と痛感させられたよ」
「菫は…………どうしてあんな目を…………」
「あいつさ…………昔起きた身代金誘拐事件の被害者なんだよ」
「み、身代金!?」
そうだ、と呟く相田さんの言葉を僕は上手く飲み込めなかった。
飲み込んだとしても胃にまるで異物を詰め込んだかのような、そんな毒々しさを覚える事だろう。それぐらい相田さんの言葉は冷ややかな熱を帯びていた。
「誘拐された菫と引き換えに菫の両親がそこそこデカい金額を払って事無きを得たらしい。その時、犯人に脅されて両親は警察との連携も上手く取れなかった。菫が帰ってきたのも誘拐されて数日経ってからだ。多分、相当酷い事もされたんだろう。それ以来、菫は人の温もりを感じるとそれを敵意だと感じるようになった」
「それで菫は…………」
「まあな。でもそれだけじゃない」
「…………え?」
「……お前さ、何で菫があんなとこに居ると思ってんだよ?」
相田さんは煙草の煙を吐いた。黒々と。僕ははっとする。
そうだ。菫はまだ大した年齢でも無い少女なんだ。
――――そんな少女がどうしてこんなところに居る?
――――どうして白峰館なんてアパートの201号室で独り、暮らしていると言うのだ。
……馬鹿馬鹿しい。そんな事はもう考えるまでも無い。
「捨てられたんだよ、あいつは。ろくでもない両親によォ」
「そんな…………」
僕はうち捨てられた子犬のような力無い声を発した。
「アイツの家も色々あった末の事だったらしいんだけどな。けれど、そんな事は理由の内になんて入らねぇよ。どんな理由であっても子供を見捨てる親は糞だ。掃き溜めにも劣る」
相田さんの言葉は酷く刺々しかった。色が付いていたのならきっと危険色が混じっていた事だろう。
「相田さんは前に僕に『失敗したから菫には会えない』って言ってましたよね?」
「ああ」
「つまり相田さんは菫のあの様子を見たから…………いや、四年前に菫のあの様子を見て以来、顔を合わせていないんですか」
「そうだ」
「…………何、やってですか?」
僕の声はきっと震えていただろう。
怒りに打ち震えていた事だろう。
本当なら――――もっと叫んで、そして罵倒してやりたかったから。
「相田さん、何やってんですか? あんたは馬鹿なんですか? いや馬鹿だ。間抜けで愚鈍で能無しの正真正銘の馬鹿だ。分かっているんですか?」
「………………………………」
無言で煙草を吸い続ける相田さん。僕はそれを見て、更に怒りが増す。
「本当に分かっているんですか!? あんたがやった事は菫のあんな様子を見て、そして見捨てたって事ですよ? それはつまり菫の両親がやった事と殆ど変らないんですよ!? あんたが糞って言って吐き捨てた、糞な両親と一緒って事なんですよ!?」
「そうだ。そうなんだよ、椛」
相田さんは静かにそう告げた。
「だから俺も糞だ。……いや、それ以上の屑だ」
「相田さん…………」
俺は絶望の声色を漏らした。
「椛、俺は守りたかった少女が居ても一切どうにも出来なかった屑なんだよ。何にも出来なかった。何にもしてやれなかった…………。だから――――」
「だから………何ですか?」
「だから――――椛、お前は俺みたいになるなよ。そして頼む、俺の代わりにあいつを……菫を救ってやってくれ。頼むから…………」
相田さんの言葉は力を失くしていて、飛び立つ場所も、飛び立つ力も失くした弱弱しい小鳥のようだった。只々つまらない後悔だけを残して彼の言葉はどこにも届かない。
――――つまらない懺悔の言葉、だった。
「ふざけるなよ、糞野郎……」
僕は吐き捨てた――――――彼の事を、吐き捨てた。
「何でそんな事、したんだよ……。あんただって見たんだろう? なら分かっている筈だ……。あいつは……菫は……もうヤバい……。一歩間違えれば途端に力尽きちまう。もう一人で歩いていけるような力は残っていないだろう、あれは……」
僕は淡々と呟いた。先程刻まれた菫の様子がフラッシュバックする。
暴れる菫。寄る辺ない静けさに怯え、藁をも掴もうと懸命に四肢を動かしている内に周囲を傷つけ、そしてより一層掴み取るものを失くしていく。壁は傷で一杯になり、シーツはズタズタにされ、羽毛が飛び散り、自分自身の身体をも引っ掻き傷だらけになる。妄想による恐怖に怯え、表情は強張り、涙は止めどなく溢れ、顔はぐちゃぐちゃになっていく。髪はぼっさぼさに掻き乱され、傷つき、抜け落ちていく。
――――あんな姿をどうしたら放っておけると言うのだろうか。
「…………失望しましたよ、相田さん」
「椛。俺は元々、こんな人間だ。失望するだけ損ってもんだ」
「…………………………………………」
僕は無言で立ち上がり、そして103号室を出て行った。
後ろで煙草の煙がたゆたう音が聞こえた。だが僕にとってそれは百害あって一利なし。只の煙草の副流煙であり、有害なものでしか無かった。




