第二十五話
雨音が聞こえる。地面を叩く大合唱だ。空気が幾分か、重い。水分を吸って肌にべたつく。鉄さびの匂いを強烈に感じる。
きっと暫く、このじめじめした感じが続く事だろう。梅雨とはそういうものなのだ。
僕は授業が終わると、さながら決まった数値を出し続けるプログラム化されたインターフェイスのように旧校舎の四階を目指して移動し始める。旧校舎に行く為には一旦、屋根の無い空中廊下に出ないといけないので、そこだけは走って移動した。
雨が肌をくすぐり、洋服に水分が付着する中、僕は旧校舎の四階に辿り着く。
「あら、おはようございます。櫻井君」
「……もう夕方も近いですよ、部長」
「櫻井君、社会に出たら最初の挨拶は時間がどうであれ『おはようございます』から始まるそうですよ?」
「だったら尚更、学生の身である僕らは時間に沿った挨拶をしましょうよ…………」
割と細かいのね、と既に部室に居た部長は笑った。いつ見ても凛とした佇まいを見せる少女は梅雨の中でも涼しげな印象だ。眼鏡なんか曇らないのだろうか。
「そう言えば部長、今日は珍しく本を読んでないんですね?」
「櫻井君、私がいつもいつでも本しか読んでいないような人間みたいに言わないで下さい」
「何をしてたんですか?」
「本棚と本の掃除ですよ。梅雨の時期は埃が溜まり易いし、じめじめしているんで定期的に見てあげないと直ぐに痛んでしまうんです」
「………………………………」
結局は本関連じゃねえか、と思ったが余計な事を言うまいと僕は口を噤んだ。
部長は大きな本棚の前に脚立を持って来て、上側を雑巾で拭いている。その姿は真剣そのものだ。
「部長、僕は何をしますか?」
「手伝って下さるんですか?」
「部長が働いているのに部員の僕が何もしないってのは随分、居心地が悪いですから」
「……それもそうですね。じゃあ、櫻井君は本を一冊一冊取り出して埃を被っていたら掃って、そして渇いた布で拭いてやって下さい」
そう申しつけられた僕は早速、渇いた布を持ってきて黙々と作業を進めた。
ここ、有翅学園文芸部は零細文芸部でこそあるものの、一部活動が保有するには十分過ぎる程の広さの部室と、それを利用したそこそこの蔵書数があるので、一冊一冊取り出して埃を掃ったり、布で拭いたりしていれば一冊に五秒程しか使わなかったとしてもかなりの時間を要する
蔵書数は千五百以上二千未満と言ったところ。最低でも二時間近くは掛かる。
「……部長」
「はい?」
部長は脚立に昇って本棚の二段目辺りの埃を懸命に掃っている。額には汗が滲んでいた。
「……いえ、他の事を訊こうとしたんですが、先に一言、言わせて貰って良いですか?」
「何でしょう」
「……スパッツ穿いていて本当、助かりました」
僕は本のメンテナンス、つまり座っていても出来る作業なので本を二百冊程机の上に積み上げて座りながら行っているのだけれども、その状況から部長を見れば当然部長の足先から視界に入ってくるわけで。
詰まる所、部長のスカートの中身がありありと見えてしまっていた。
紺色のスパッツ。これでもっと大胆な下着でも見えてしまっていたらかなり気まずかっただろう。剣呑、剣呑。
…………いや、残念とか思ってないよ。
「……櫻井君」
「はい……」
「エッチ」
「…………すいません」
僕は部長に背を向けたまま、謝る。
「……いえ、まあ。全く気に留めていなかった私にも落ち度はありますけれど……」
「それはそれで問題です」
一応、部長は美人な方にカテゴライズされると思うのでもう少し気にしていて欲しい。
隙が多すぎるというのは身内にとっては得てして心配になるものである。
「……それでも。見る方がいけないとは思いませんか?」
「男はスカートが見えそうだったら見てしまうんです。しょうがないんです」
「…………そういうものなんですか?」
「…………そういうものなんです」
「………………………………」
「………………………………」
「……エッチ」
「…………本当、すいません」
「ちなみに」
部長の声の調子が少しだけ変わったのが分かった。
「…………ちなみに櫻井君は私のスパッツの中身、見たかったですか?」
「…………………………………………」
戦時下におけるベルサイユ並の地雷臭がする質問が来た。
……え、何、どういう事なの?
僕って何なの、この質問、間違えたらどうなるの?
……………………。……ここで下手な返しをすれば退部、いや学校での社会的地位が終わる。ここは慎重に返さなければ…………。
「え、えーと…………見たいか見たくないで言えばそれは本能的な話なので…………それはその、僕の意志や感情とは全く別次元のところにあってですね……それで……」
「見たかったですか?」
「見たかったですね」
「そうですか」
部長の端的な言葉が僕の恐怖心を誘った。
……やばい。言ってしまった。あと十秒後にどんな判決が下るか手に汗握り、待つ。
せめて執行猶予くらいは欲しいものだ……。
「…………それは……えと、良かった、です」
「…………………………」
僕はそれ以降に何か言葉が続かないものか待っていたが、部長から暫く言葉が発せられる事は無かった。
……え、何? どういう事なの? 僕の判決はどうなったの? これはもしや……無罪って事で良いの? 大丈夫なの?
…………無言ってのが逆に怖い。後ろで部長が包丁構えて立ってたらどうしよう……。後ろを振り向けば確認出来るのだろうけれども。そうすればスカートの中身がまた見えてしまうかも知れないので、罪に罪を重ねる事になる……。
それはやっぱり…………避けて置いた方が良い。
沈黙が続く。雨音が静寂を切り裂いて、僕の耳を支配し続ける。
その後暫く僕は一心不乱に作業を続けた。菩薩をただただ彫り続ける罪人ってのはこんな気持ちなのだろうか。
「そう言えば、櫻井君」
「……は、はい」
ようやく部長から言葉が返ってきて僕は胸を撫でおろしつつ、返事をした。
声の調子は普段の部長と変わらない平坦な感じだ。どうやら罪は許されたらしい。
「さっき……え、えと……スパッツうんぬんの前に一体何を訊こうとしていたんですか?」
「……あ、そう言えばそうです。すっかり忘れていました」
部長のスカートの中身を凝視してしまう前は他の事を訊こうとしていたんだった。
色々と衝撃的な事があって頭から抜け落ちていた。……本当、単純な頭である。
「さっきはええと……本の事を訊こうとしたんですよ」
「本、ですか?」
「はい。さっきから見ている限りここに置いてある本って大半、もう結構傷んでますよね」
「ええ、そうですね。本来は図書館で処分されそうな本をこちらで引き取っているものだったり、中古の古本屋から貰った本をここに置いていますので。かなり傷んでいる本の方が多いと思います」
「それなんですが……。これ以上、拭いたり埃を掃ったする必要あるんですか? 新品で綺麗ならメンテのし甲斐もありますけど、これだったらそんなに変わらないんじゃ……」
「…………まあ、普通はそうですよね」
後ろから幾分か沈んだ声が聞こえた。それを聞いて僕は取り繕う為、声を上ずらせる。
「い、いや! 別に面倒だとかそういう事じゃないですよ? でも意味が無い事をやるのはどうなのかなって…………」
「いえ、櫻井君の言い分も尤もです。この作業で傷んでいる古本の焼けや染みを改善出来る訳じゃありませんから。正直言えば無駄、かも知れません」
「ええと…………じゃあ……」
コホン、と部長は咳払いしつつ、言う。
「要するに気持ちの問題なんですけど……。ここで引き取った本はこれ以上、傷んだりして欲しくないんです。……い、いや正直それは不可能なんですけれど! 本をずっと傷まずに維持し続けるなんて無理には違いありませんし、劣化していくのは当然なんです。……けれど、本には出来るだけ長く綺麗な形を維持して貰いたいんです、私は。だって本を一冊作るのにどれだけの苦労が居るのか私、知っているんですから…………」
「…………それはどうしてか……聞いて良い話だったりしますか?」
僕は恐る恐る部長に尋ねる。
人の真実はガラス細工のようなものだと思っていた。
だがそれは違う――――もっと繊細で、もっと脆くて、もっと儚げで。
そして何よりも淡く、透き通っている。
僕は最近、ようやくそれを学んだばかりだ。
もう無駄な失敗は――――――――したくない。
「ええ、別に隠し立てするような話ではありませんから。私の父親って出版社の編集をしているんですよ。その関係で私、作家の知り合いも居たりするんです。……ええと、その関係で本がどれだけの苦労で以て作られているか知っているんです。沢山の取材をして、沢山の構想を練って、沢山の労力を割いて書かれた原稿を、それ以上に沢山の人達が関わってようやく一冊の本というのは出来上がります。……だからという訳ではありませんが、本は出来るだけ大事に扱いたいんです。定期的に見てあげれば本は意外と劣化しづらいですしね」
「…………そういう事ですか」
「つまりこれは私のエゴであって、櫻井君が部員だからと言って手伝う必要は無いと思うんです……。だからいつでも止めて良いですから、ね?」
「部長、すいません」
「………………そうですよね、やっぱり面倒です、よね……」
「後ろ、向いて良いですか? こっちにある本、全部拭き終わったんで」
「え、ええ……。あ、ちょっと待って下さい。スカート押さえますんで」
部長から「良いですよ」という声が掛かってから僕は立ち上がって、今まで拭いていた本を丁寧に棚に戻して、また新たな本を取り出して机に積み上げた。
「櫻井君、ええと……まだ続けてくれるんですか?」
「そりゃあ……。部長のそんな話を聞いて尚、気合いが入らない奴が居たらそいつは僕がぶん殴ってやりますよ」
「…………櫻井君」
「さあ、部長! 気合い入れて終わらせないと部活時間内に終わりませんよ。この文芸部は本当、沢山の本と本棚があるんですから!」
「…………。ありがとうございます……」
僕は作業を続ける。傷んだ本だが埃を掃い、そして拭けば少しは見栄えする。丁寧にやればそれ以上にもなるだろう。僕は布を力強く握りしめる。
「…………櫻井君、やっぱり優しいですよね。面倒な事にも一々付きあってくれるし……」
「そんな事は無いですよ。結構暇な方ですし……」
「……でも、最近悩んでいる事、あるんでしょう?」
部長の言葉に僕の血液が逆流しそうになった。心臓が暴れる所為で呼吸が乱れる。
「…………どうして、そう思います?」
視界が少しだけ歪んだ。白く、ぼんやりとする。
「だって櫻井君、最近表情が少し強張っているように見えますよ? 笑っているより、眉根を潜めている方が多い印象ですし……。その、疲れているんじゃないですか?」
「そういう訳では……ええと…………」
僕は言葉を濁した。上手く隠していたつもりだったのに…………。
「櫻井君」
雨音を裂くような力のある言葉で部長は僕の名前を呼んだ。
「困っている事があったらいつでも相談してくれて構わないんですよ? 私、櫻井君には借りを作ってばっかで全然お返し出来てないんです。だから……その……」
「そんな事…………って言うか、部長。やっぱり僕の事、よく見てますよね」
洞察力が鋭いのだろうか。いっつも本ばかり読んでいる筈なのに……。
「へ、え、いや!? そ、そそそそんな事、無いですよ! 櫻井君が! そ、そう、櫻井君が分かり易いんですよ!」
「そうですか……。すいません、心配ばかり掛けまして」
「そ、そんなッ! そういうつもりで言った訳では…………」
「でも大丈夫です、部長」
僕は気丈に笑った。背中越しだが部長に伝わっただろうか。
そして同時に思う――――何が大丈夫なのだろうか、と。
お前の何処が大丈夫なんだ?
失敗ばっかりして、要らぬ事にまで手を突っ込んで、そして――――壊してしまったんだろうが。
繊細な真実に――そんなものにズカズカと足を踏み入れて、そして案の定踏み散らかしてしまったのだろう。
菫を――――――傷つけてしまったんだろうが。
それでも僕は――――笑い続ける。
僕の本質がデリカシーの無い全く以てご無体な輩だと言うのなら、表面だけでも取り繕わなければ。
北極の氷のように――山の上にずっとあり続ける真っ白な雪景色のように――表面を硬く覆わなければ。
そうしなければこれ以上の迷惑を掛けてしまう。
部長にもつまらない壁を生んでしまう。
傷を――――――膿んでしまう。
そんな事を許して良い筈が無い。
「ちゃんと出来ますから……。解決、してやりますから」
「…………そう。なら良いけれどね。でも――」
部長は言葉を続けた。
「櫻井君。悩みって一人でも解決出来るけれど、実のところ二人で考えた方がずっと早く、上手く、綺麗に解決出来るものですよ。貴方が思っている以上に他人は他人に対して優しいものですから。だから――――――辛くなったらいつでも相談して下さいね」
「……はい。ありがとうございます、部長」
僕は笑った。必死に――――笑った。
笑っている事しか出来なかったから。そんな事しか出来ないのだから。
――――僕は役立たずなのだから。
そうやって僕は笑いながら作業を続けた。直ぐに顔面の筋肉が疲れて、顔が強張った。
……笑い続ける事すら出来ないのか、なんてそんな事を思いながら。




