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第二十四話

 真実、なんてものは所詮、触れれば触れるだけ傷ついていくものなのだ。

 それはさながら割れたガラス細工の破片のようなもので、繊細なガラス細工は一度傷つけられると鋭利な刃物となり、触れる者の指を傷つける。


 滴っていく血潮を見て思うのだ。学習するのだ。

 このガラス細工にはもう触れるべきで無いのだと。


 触れる原因なんてもう語る必要が無い程、つまらない事だったりする。

 その日――連休明け、最初に訪れた週末がそうだった。僕はつまらない事を発端として詩菜菫の砕けたガラス細工の破片、どうしようも無く鋭利に尖った真実に触れてしまったのだ。



 ――――いや。多分、真実に触れた訳では無い。精々掠ったくらいのものだろう。


 それでも彼女――詩菜菫は僕を拒絶した。

 傷つき、傷つけ、詩菜菫はまた堅い堅い殻に閉じ籠った。


 誰にも触れられる事が無い、あの舌がざらつくような埃で塗れた世界へと引き籠った。



「菫、掃除するからこのカーテン開けるぞ」

「………………………………」

 僕はいつもの如く手の空いた休日に201号室の掃除を手早く済ませてしまおうとそう思い立ち、部屋を訪れ、そして返事が無い事を了承のサインだと受け取って遮光カーテンを開けた。


「……………………………………」

 菫は珍しく寝ていた。十畳一間にはそぐわない馬鹿デカいベッドの中心に包まりすやすやと寝息を立てている。小さく纏まった姿は小動物ちっくで妙な可愛さを帯びている。



 そして寝相が悪いのか、布団が剥がれていた。普段、何故か丈に合っていないダボダボのセーターばかりを着ていて、そしてそれをワンピースのように着ればズボンを穿く必要が無いと考えているのか、それとも単純に面倒だからかどうかは知らないが結果的に太腿が大きく露出してしまっている。


「……………………だらしないな」

 僕は彼女のあられもない姿を見て見ぬふりで誤魔化した後に、布団を被せて隠してしまおうと菫の足先付近でしわくちゃになっている布団を手に取った。そして静かに布団を被せようとする。



 ――――その時だった。僕は足元にあった、携帯電話の充電器に躓いてしまった。

 菫に布団を被せようと前のめりになっていた僕は自然、彼女に覆い被さる形で倒れ込んでしまう。


「しま……ッ!」

 僕は短い悲鳴を上げると、菫の小さな身体に全身で触れた。温かい身体の熱を感じて、僕ははっと息を呑む。


 僕は菫がこの衝撃で起きてしまってないか、目線を合わせた。彼女はと言うと、


「…………………………へ?」

 バッチリ起きてしまったらしい。静寂が耳に痛い。


「ち、違うんだ、菫! こ、これは単なる事故で…………」

 我ながら酷い言い訳だと思った。……いや、実際真実には相違無いのだが、それにしても言い方というものがある。そんな慌てた様子で言えば誰しも誤解するに違いない。



 当の菫も目に怯えた光を灯して――――そして、叫んだ。


「きゃ、きゃあああああああああああああああああああああ!!」

 菫は狂った獣の如く、僕の身体を押し退け、そして突き飛ばした。僕はベッドから叩き落とされると、痛みに呻いた。


「だ、だから菫…………誤解、誤解なんだって……。僕は何にも――――」

 そこで僕は漸く菫の様子がおかしい事に気付いた。

 あまりにも取り乱し過ぎているのだ。


 ベッドの上で暴れる菫は僕の目には常軌を逸しているように見えた。

 顔面蒼白で叫び声を上げ続ける彼女は僕の痴漢行為(?)に抵抗するにしてはオーバーリアクション過ぎた。四肢を死にかけの猛獣のように上下左右に振り乱し、首は何度も何度も左右に振り続けている。果ては髪の毛に両手を伸ばして掻き乱し始めた。



「ああああああああああああああああああああああああ!!」

「お、おい…………菫…………?」

「や、止め……来ないでくれ……お願い……だから……痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃいいいいいい!! 止めて! 我慢するから……もう泣かないから……叫ばないから……おとなしくする……から…………お願い、もう痛くしないで…………ああああああああああああああああああああ!!」

「おい、菫!」

 僕はベッドの上で激しく悶える菫を落ち着かせようと両手をそれぞれ掴む。


 すると彼女は恐ろしい力で僕の手を振り払った。

 …………あれ? こいつ、割箸も自分で割るのに苦労するような非力じゃ……。



 それなのにどうしてこんなにも強いんだよ…………。


 僕は菫の藍色の瞳を見る。彼女の目は焦点があっておらず、何よりも焼かれんばかりの怯えの色を覗かせていた。



  ――――人間はこんなにも普段と違う目の色を覗かせるのか。


 僕は何とか暴れるのを止める為に必死で彼女を押さえつけた。このままだと彼女は自分で自分の喉を引き裂かんばかりの取り乱しようだったのだ。


 だが彼女はその恐ろしい力で抵抗した。二回りも体格に差がある、なんて事は関係無かった。押さえつける事なんて無理で僕は遂にベッドの上から蹴りだされ、腹部に入った蹴りの衝撃で呻き苦しんだ。


「菫…………菫……しっかり……しっかりしろ……」

 僕は掠れる声で彼女の名前を呼んだ。


 届いるのかどうかも分からない。彼女は尚も見ていられないくらいにベッドの上で狂気的に踊り続けた。



 ――――暫くした後に、菫は正気を取り戻した。


「…………あ、あれ…………ぼくは…………」

 ぼんやりと呟く声は喉が潰れたのか、いつもの透き通った音では無く、棘が突き刺さったような酷い掠れ声だった。でもはっきりとした菫の意志が声に表れていた。


「…………大丈夫か、菫?」

 対して僕は満身創痍の力無い言葉で声を掛けた。


 傷だらけだった。皮膚は爪によって何本も引っ掻き傷が出来ていて、場所によっては肉ごと皮膚が剥がされたりしていた。恐ろしい力で握られた腕は幾つかが痣になっている。数ヶ所殴打された箇所も鈍い痛みを発していた。


 ――いや、僕だけじゃない。今や部屋全体が傷だらけだった。シーツがズタズタになっていて、布団の中に詰まっていた羽毛は飛び散って部屋全体を真っ白に染め上げていた。菫が手近にあるものを片っ端から投げるから壁は陥没してしまった箇所が痛々しく視界に映る。壊れた時計が空しくも腸をぶちまけていて、中の機械類を物悲しく露出させていた。



「…………あ…………ああ………あああああ」

 菫は荒れた惨状を見渡して状況を察したようだった。瞳が罪悪感で焼け尽くされて、灰色に染まっているかのように見えた。藍色の綺麗な瞳が濁っている。


「ぼ、ぼくは……またやってしまったのかい? ……また癇癪を…………また……」

「――――落ち着け、菫」

「……そんなッ……治ったと思ったのに、もう大丈夫だと思ったのに……また昔のような、また無意識に人を傷つけるような真似は絶対にしないと……そ、そう思ったのに……」

「――――落ち着くんだ、菫」

 僕は少しでも菫が落ち着くならと手を握ろうとした。


 そしてそれは直ぐに逆効果だった事に気付く。



「う、うわあああああああああああああああああああああ!!」

 菫は僕の手をまるで高熱で赤らんだ鉄にでも触れたが如く、反射的に払いのけた。


「………………………………ええと、その」

「あ…………」

 どう言って良いか分からないで困惑している僕を見て、菫は吐息を漏らした。


「…………ごめん、椛。一人にしてくれないか……」

「でも、お前……」

「お願いだから」

 菫は今や罪悪感で顔が黒く曇っていた。僕は菫の有無を言わさぬ物言いに結局は何も出来ずに201号室を後にした。


 幼い頃、火鉢に手を突っ込んで泣いてしまった事を思いだした。赤らんだ手を見てわんわん泣いたあの頃。痛みに呻いて許されるなら僕もそうしたかった。

 けれど今回ばかりは泣いてもどうしようも無いようだった。



 僕は乱雑に触れてはいけない真実にうっかり手を振れてしまったのだ。火傷ならば薬を塗ればどうにかなるが、今回ばかりは火傷では無い。薬なんてものは無い。



 ――――――言葉なんてものは薬には決して、ならない。



 僕こそ罪悪感で胸が押し潰されそうだった。

 菫はその日から例年よりも早い梅雨明けまでの十日間、一言でさえ僕の言葉に返事を返さなくなった。




 遮光カーテンが黒くずんぐりとした姿で僕を拒絶し続けた。


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