第三十話
「…………………………疲れた」
僕は自室の布団の中に倒れ込んで晩秋に拭き荒む木枯らしみたいな息を吐いた。
布団は梅雨の所為で日干ししていない所為かじとっと湿った感触がした。匂いもどこか青臭い。とても心地良い感触とは思えなかったが、無いよりかマシだ。
うつ伏せに倒れ込んでいる内、僕は一年前の事を思いだす。
引き籠りの時――よくこうして意味も無く布団に倒れ込んでは見えない未来に打ちのめされそうになっていたっけか。そしてそんな中で打開策も見当たらず、だからと言って積極的に動く気にもなれず、ずーっと無気力だったあの頃。
――――僕は。
――――僕はどうやってあの頃から抜け出したんだっけか?
……時間か? 一年という時間が僕の無気力を少しずつ溶かしていったのだろうか。
「……違うか」
僕は呟く。そんなものじゃない。もっと決定的な何かがあった筈だ。
そうでなければ僕は今もこうして学校に通う事も叶わず、沼の底に沈んでいただろう。
それは一体何だったのだろうか――――それを思い出そうとしている内、玄関を叩く音が聞こえた。音は次第に大きくなりやがて扉を開く音へと変わった。
「へーい! 部屋の電気も点けないで何をやっているんだい、ジャリボーイ! お姉さんが遊びに来てやったよ! さあ、もてなせ! 貴様の全てを持って、全身全霊で私をもてなしなさーい!」
「……本当に唐突な訪問、ご苦労様です。奈々子叔母さん」
玄関先にちらりと目線をやるとそこに立っていたのはスーツに身を包んだ奈々子叔母さんの姿だった。
「……いや、そんな恰好しても僕は貴方が社長秘書なんて信じないから」
「あれ? あれあれあれ? ばれちゃったの? 私が社長のパシリやっている事」
「何故一々酷い言い方をする!?」
「だってー。あんなの社長の愚痴聞いたり、御茶汲みしたり、スケジュール管理するぐらいで大した仕事じゃないもーん。誰だって出来るわよ、あんなの。私の華麗な腕が勿体無いわ」
「……あんたの腕が華麗か加齢かはさて置き。酷い物言いですね」
「社長秘書なんてつまらない経歴よりかは地球防衛軍の総司令官、みたいな夢のある職業に就きたいわ。椛たん紹介してぇ」
「……ゲーム機とそれっぽいゲームタイトル買って来れば出来るんじゃないですかね?」
「それ名案」
早速買ってくるわ、等と抜かしながらタップダンスを踊る様はどちらかと言えばインチキ宗教の教祖様と言った風だ。
「……それで?」
「それでって?」
「いや……何しに来たかと聞いているんですよ、僕は」
「ん……別に。それとも椛きゅんは恋人が彼氏の家に理由も無く遊びに来たら駄目だって言うの? あ、違うな。恋人同士はちょめちょめする為に会っているんだもんねー。理由有ったわ、ごめん」
「………………………………」
叔母さんの言っている事は完全に十八禁なのでお断り。
こちとらまだ十七歳の身の上なのである。
「ま、本当は真紀ちゃん介抱したついでに寄ってみただけなんだけどねー」
「黒川さんを?」
「ええ。いきなり真紀ちゃんに酒呑もーって呼び出されて、二人してガバガバ呑んだ挙句、真紀ちゃんが酔い潰れて仕方無く送ってあげたわけ。金額見てたまげたわー。椛たんだったらあの金額で一生暮らせるような金額だったもの」
「…………どんぐらい?」
「五万くらい」
「僕の価値が恐ろしいまでに暴落している!?」
何だろう…………ツッコミどころが多過ぎて追い付かない。
……もういいや、放置しよう。結局は叔母さん相手に普通に立ち向かっても馬鹿をみるのだ。賢く生きるのが正解だろう。
「……じゃあ用が無いなら帰って下さい。僕は疲れたんでもう眠いんです」
「……………………………………」
「……どうしたんですか? 早く――」
「……菫の事、頼んだわよ」
「……貴方もそう言うんですね」
――――どうしてだろう。
どうして皆、僕みたいなつまらない奴に期待してしまうのだろうか。
僕は元引き籠りで、本当に使えない屑みたいな人間なのに。
「椛たんが今、一番菫に近い存在だからよ」
「……それを言ったら奈々子叔母さんの方が――――」
そうだ。奈々子叔母さんの方が長い付き合いだし、菫からの信頼も厚い筈だ。
――――どうして僕に託すんだ?
「違うの。立場が近いからよ」
「……立場が近い?」
「私と菫ではどうしても越えられない壁がある。……と、と、ととととと歳とか……」
「…………そんなに言うの嫌だったら言わなきゃいいのに」
と言うかそろそろ自分の歳と精神年齢が噛み合ってない事に気付いて欲しい。
「それに状況も似てるわよ。昔、君が引き籠りだった事とか特に」
「…………それは褒められている気がしませんね」
「褒めてるのよ。すっごくね。それに椛ちゃんは他人を落ち着かせる何かがある気がするのよ。きっとね」
「……それは前にも聞きました」
「大事な事だから何度でも言うのよ」
「…………分からないんですよ、そう言うの」
「だから何度でも言うんでしょう?」
じゃあね、とそう言い残し奈々子叔母さんは僕の部屋から出て行った。
「どいつもこいつも本当に……」
――――本当につまらない期待を残していきやがる。
無力な僕に一体どうしろって言うんだよ。
つまらない僕に一体何を為し得ろって言うんだ。
分からないんだよ、僕は…………。それよりも寝かしてくれ…………。
……僕の中で期待と不安と遣る瀬無さがくだを巻く。ごちゃごちゃのシェイク状になって血液に混ざり込み、ずーっと僕の中でぐるぐるとまわり続ける。
どうすれば良い………………どうすれば…………。
どうすれば僕の言葉は気持ちは菫に――――届くのだろうか?
どうすれば菫を――――――救えるんだ?
「………………ちょっと待て」
――――頭を過った。
僕が引き籠りだった時分、そして引き籠りを辞めようと決意した時、僕が一体何をしたのか思い出したのだ。
下らない事だった。覚えても無いくらい、記憶に残らないくらい――――ほんの些細な事。でも大きな意味を持つ事だ。
「……そうだ。そうだよ、そうすれば良いんだよ」
――――――簡単な事だった。
こんな事を教えるくらい簡単な事だ。小学生に数字の数え方を教える方がよっぽど難しい。それぐらいの難易度だ。
問題は手段――――――だ。
陳腐なつまらない言葉はもう菫には届かない。問題なのは手段――――なのだ。
僕は立ち上がり、そして駆けだした。急いで部屋を出て、階段を駆け下りる。
僕は階段を駆け下りて、白峰館の一室――103号室の扉へと拳を強引に叩きつけた。
拳に鈍い痛みが走る。でも構わなかった。
一刻も一秒でも早く行動を起こしたかった。
僕はもう――――引き籠りじゃないから。行動を起こす事を躊躇わない。人に教えを乞う事に怖れを感じない。
外に出る事を――――――躊躇しない。
「……おいおい。うるさいな……久しぶりに顔を見せたと思ったらこれかよ。どうしたんだ? 火事でもあったのか?」
「そう……じゃ、ありません!」
僕は息を整えて、言う。精一杯の熱意を込めて。
「お願いです、相田さん! 僕に――僕に絵の描き方を…………教えて下さい!」




