第二十話
「五月三日は空けておけよ」
五月一日の夜、僕は相田さんにさらっとそんな事を言われていた。
「何かあるんですか?」
僕は相変わらずの甚平姿をした半引き籠りの画家にそう返す。
「あ? ああ。ちょっとバーベキューがしたくなったんだよ、庭でな。だから五月三日は空けておけ」
「バーベキューですか? ええと、もしかして僕の遅めの歓迎会とかそう言う事ですか?」
嬉しそうに言う僕。相田さんはそれを聞いて、
「あ……えっと、うん……そうだな」
と引き攣った笑みを見せてくれた。
「違うなら違うってハッキリ言ってくれよ!」
少し憐れまれる方が一番、傷つくんだよ。
いや……分かっていた。分かってはいたよ? 歓迎を形にして返すよりかは迷惑を形にして示す方がよっぽど得意な連中だって僕は分かっていたよ?
でも期待しちゃうじゃん! そんな事言われたら、夢見ちゃうじゃん!
「あ。なら言うわ。全然、違う」
「ハッキリ言うな!」
「お前が言えって言ったんだろうが」
「そこは察してくれよ! 空気読めよ! お前ら引き籠りは傷つきやすいって言うけどさ! 思春期だって同じ、いやそれ以上に傷つきやすい集団だって持て囃されてんだぞ!」
「ついでに言うと買い出しなんかは全部お前に任せる」
「歓迎する気が更々無え!」
これはあれだ。新人の歓迎会とか言って置きながら雑用の全てを新人に任せる企業の恒例行事みたいな、そんな矛盾の孕んだ言葉遊びだ。
……いや。まあ違うって言ってんだけどさ。それはそれで余計に腹が立つ。
「…………じゃあ、何の為にバーベキューなんてするんですか?」
僕の質問を相田さんは冷ややかな目で見て取った。
まるで「何を言っているんだ、こいつ」という全てを否定するかのような目だ。
…………雑用を前にしてもう、心が折れそうだ。
「何の為? 勿論、俺が肉を食いたいからだよ」
「思った以上に自己中心的な理由だった!」
大人ならもうちょっと建前を言うなりしろよ、と僕が非難がましい目でたてつくと、
「俺はいつまで経っても少年の心を忘れない、ピュアな男で居たいんだよ」
と返された。もっとマシな理由付けを覚えろ。
まあ兎にも角にも五月三日。僕はバーベキューの準備に奔走する事になった。
炭は前日の夕方に購入して置き、食材は五月三日の朝方から一人で出掛けて準備した。バーベキューに必要な器具なんかは全て相田さんが持っていたようだが…………。僕だけ必要以上に手間を押しつけられたのは何ともまあ理不尽極まりない。
何はともあれ僕の苦労の甲斐あって午後にはバーベキューの準備は全て整った。
「……それで? 肉や野菜は誰が焼くんですか?」
勿論、僕の役目だと思って相田さんに尋ねたところ、彼は一言こう僕に告げた。
「バーベキューってのは実のところ、食材焼く作業が一番楽しいんだよ。食べる作業はある意味そのついでだ。だからお前はそこでボケッと突っ立ってろ」
「……………………………………………………」
……いや。結果的に手間暇を逃れられたのだから感謝すべきところなんだろうが……何だろう、この遣る瀬無い気持ちは。
美味しいところは全て持ってかれたようなこの虚無感は何なのだろう。
…………まあ良い。こうなったらバーベキューの旨い食材の美味しいところぐらいは全て僕が持って行ってくれる。僕はそう決意し、段々と焼けていく肉や野菜を殺気の籠った目で見つめていた。
「椛君、おつかれー」
相田さんが楽しそうに肉を焼いている姿を座り込んで眺めていると、隣に人影が立った。
「あ、黒川さん。締め切りはもう大丈夫なんですか?」
数日ぶりに見る黒川さんの姿がそこにはあった。相当追い込まれていたのか、いつも以上に薄い茶髪は乱れていて、隈は墨でも塗りたくったかのような酷い状態だった。スウェット姿なのは変わらず、所々糸が解れている。
黒川さんは僕の隣に腰かけながら肩をぐりぐりと回す。
「大丈夫。おおよそで百時間くらいぶっ続けで作業したから」
「…………僕ならその半分の時間で発狂する自信があります」
「本当は寝ようかとも思ったんだけど、あたし、睡眠欲より食欲の方が強いから。肉を腹一杯詰め込むまでは呑気に倒れてなんか居られないわ」
「三大欲求ってどれが上とか下とかあったんですね」
そもそも欠けてはいけないから三大欲求な訳で。それを超越している黒川さんはやっぱり命を不摂生という名の彫刻刀で削っているとしか思えない。
「そう言えば最近、菫ちゃんの様子はどう?」
おもむろに黒川さんは話を切り出した。僕は正面を向きながら答える。
「元気ですよ。最近は食べるスピードも上がってきたみたいですし、徐々にカロリーの高いものや消化に悪いものをあげても食べてくれるようになりました。時折、掃除もやっているお陰か夜中に咳込む事も無くなったみたいです」
僕の報告を黒川さんは嬉しそうに聞いていた。
「本当、椛君に菫ちゃんの世話を頼んだのは正解だったみたいね。感謝しているわ」
「いえいえ、そんな……」
「謙遜しないで良いわ。本当の事なんだから」
僕はかぶりを振ろうとして、部長の言葉を思いだし、止めた。
御礼は素直に受け取った方が良いらしいから。
「ありがとうございます」
「それで良いのよ。謙遜は日本人にとって必須だけれども、あたし達に一々そんな事する必要は無いわ。あたし達はどちらかと言えば好き勝手やっている人間の方だもの」
「……引き籠りだから、ですか?」
「担当との打ち合わせさえ無ければ完璧な引き籠りになれたんだけどね」
黒川さんはそう言ってはにかんだ。黒川さんは病的な顔をしているが笑うと結構美人だ。
「あと一つ、言いたい事があるわ」
少しだけ含みのある言い方を黒川さんはした。
「……何ですか?」
「智久からちょっとだけ聞いたでしょう。あたし達の役目を貴方に押し付けて、ごめんね」
彼女の顔はぺろっと舌を出して笑っていたが、どうしようも無いくらい寂しそうだった。
温かさを求めて、そして手に入れられなかった。そんな笑顔。
僕は口を開く。
「201号室に行ってあげてくれませんか? 菫も喜びます」
「…………智久は何て?」
「…………無理、と」
それを聞いて黒川さんは息を吐く。春にしては冷たい吐息を。
「ならあたしだけが抜け駆けしてあの娘に会いに行くわけにはいかないわ」
「…………何故ですか? たったアパート一階分。距離にしても三十秒掛からないくらいの場所でしょう? それを何で――――」
「……失敗したからよ」
…………またこの言葉かよ。端的で冷たい二文字の否定語。
その言葉はそんなにも優秀なのかよ。そんな冷たい二文字の言葉で会いたいって欲を全て掻き消せるぐらいの、そんな万能な意味なのか?
僕の切なさと怒りと悲しみをない混ぜにした表情を察したのか黒川さんは言った。
「…………ごめんね。こんなつまらない理由で。でもこれが全てだから」
「……一体何を失敗したんですか?」
「聞かない方が良いし、言いたくないわ。言葉は酷く、つまらないもの」
――――――その言葉に。そんな言葉のつまらなさにあんたら二人はひれ伏すってのか。
僕はその先にある、つまらない理由に触れたかった。知りたかった。
でも言葉は余計なものまで掴み取ってしまう。それを分かっていながら尚、僕は悔しかった。人の想いがこんなものに阻まれているなんて…………。
まるで沼の底にいるような酷い悲しさだ――――そう思った。
「――――さて。こんな暗い話は止め止め! 今はバーベキューを思い切り楽しみましょう。智久! そろそろ良いかしら?」
「おう! ジャンジャン焼けてきたぞ! お前らのそんなところに座ってないでこっち来て食材の処理を始めろ! 直ぐに第二、第三の肉が襲い掛かって来るぞ」
額から汗を垂らしながら、次々と肉を焼いていく相田さん。よく見てみると手際がとても良いように思える。妙に手が慣れているように見えると言うか…………。
「黒川さん。相田さんってこういうの意外と慣れていたりするんですか?」
「智久? うん、慣れている――というか得意分野。あいつっていつもは全く外に出たがらないけれど、二年間に一回ぐらい一ヶ月色んなところを回ってくる時があるのよ。ねえ、智久。一年くらい前って何処行ってきたんだっけ?」
「は? 一年前っていや…………確か中南米辺りをぶらついてきた気がするな」
こっちをちらりとも見ずに相田さんは答えを返す。
「中南米!? 物凄いアクティブじゃないですか! ……もしかして相田さんって実は外国語堪能だったりします?」
「ううん。あいつ、海外行く前にその国の現地語なんかを調べて、それで憶えちゃえるらしいのよね。それで帰ってきて一ヶ月後には綺麗さっぱり忘れている……」
「何その怪奇現象」
「おい、アホ二人。俺の事は後で良いだろうが。だからはよ肉食えや」
相田さんにそう急かされた僕達は既に山となっている肉を皿に載せ、タレをたっぷりと付けてから口に含む。
「熱ッ……うめぇ!」
口の中に入った肉から柔らかい歯応えと共に肉汁が飛び出す。焼き方はよく焼いており、だが焦がさないくらいの丁度良い頃合いだ。
「つうかこのタレ美味しいですね。一体何処のですか?」
「何処のでもねえよ。俺が作った」
「作った!? 相田さんが!?」
淡々と返す相田さんに僕は驚愕する。
…………いやいや。何をするにしてもまず僕に片付けさせる相田さんがタレを作った!?
しかも――――こんな旨い奴を!?
「気持ちは分かるわよ、椛君。普段のあいつを見る限りに置いて、こんな旨いモノを作れるとはこれっぽっちも思わないわよね。……でも本当なのよ」
「俺は色々とやらないだけで出来ないわけじゃねえんだよ」
…………いや。その方が性質悪いよ。僕の非難がましい目付きを相田さんは堂々と無視しながら焼いた肉を食べつつ、ソーセージを焼き始めていた。
「こいつ、本当に心底駄目人間なんだけど実のところ、何でも出来ちゃうから腹が立つのよね。椛君、普段こいつがどんな絵を描いていると思う?」
「………………どうって」
「智久って何でも描くけど、一応風景画が一番、評価されているらしいわよ。この引き籠りがよ? 信じられる?」
「風景画…………? 全然、外に出ない癖して?」
「外出ないは余計だ。椛、前にも言っただろう? 絵を描くだけなら方法は幾らでもあるって」
「写真でも見ながら描くんですか?」
「アホか。写真見ながら描いて実物よりも味のある絵が描ける訳がねえだろう。俺達画家が描くものは実物よりも綺麗なものでなければ意味が無いんだよ。実物と一緒のものを描くだけならそれこそ写真を撮れば事足りるじゃねえか」
「……じゃあどうやって」
「その為に二年に一回ぐらい色々な場所に出掛けてんだよ」
「……え、それじゃあ二年前の風景を思い出しながら…………いや、でもそんなのどうやって…………」
混乱する僕の肩を黒川さんがポン、と叩く。
「椛君、こいつの言う事を一々考えてたら頭壊れるわよ。だって、こいつ八年も前に見た風景とかをその時に描いたっていうラフ絵を見ながら描けるらしいから」
「あの……つまり……どういう事なんですか?」
僕の言葉を相田さんは肉を食いつつ、答えた。
「だから真紀の言う通りだよ。俺は何年か前にその風景をラフ絵でも何でも描いておけば、それを見るだけで大体の風景は思い出せる。その場所に置ける景色の綺麗さ、臨場感、壮大さ、音、薫る匂いなんかを思い出して、より綺麗に絵に起こす。そこまで難しい事じゃあねえよ」
「…………人間業じゃない」
僕は相田さんの話をとんと理解出来なかった。
昔、描いた絵を見ただけで感覚を思い出せる? それも細かく描いた絵でも何でもないラフ絵だけで? ………………こんな駄目人間が。
「まあ人間なんて一長一短だ。何かが出来れば反面、何か出来ない。だから椛、これかも俺の生活のサポートを宜しく頼むぜ」
「サポートって……。相田さん、実は料理なんかも僕の何倍より上手く出来るんでしょう?」
「ああ。大抵の事はお前よりも上手に出来ると思う」
少しは謙遜してくれ、と言いたい衝動もそこそこに僕は話を続ける。
「……じゃあ、相田さん。自分でやった方が良いんじゃないですか? 僕が色々世話するよりもよっぽどマシかと思うんですが」
「そう悲観的になるなよ、椛。確かに俺は絵も描けるし、大抵の事は何でも出来るけど」
「智久、すっごい嫌な奴みたいよね」
ぼそっと黒川さんが口を挟む。まあ実際、その通りだから僕は苦い顔をしながらそれを否定しない。
「……兎も角。俺は続けるのが苦手なんだよ。それも自分の為だけに本気を出し続けるのは苦手なんだ。だから辛抱堪らず生活が荒んでいく。最低限度の生活しか送らなくなる。それに引き替え椛、お前は誰かの為に本気を出し続けられるんだろう? それは何でも出来る俺よりも何倍も美徳なんじゃねえかって少なからず俺はそう思うよ」
「隣の芝生は青く見える…………って奴じゃないですか?」
「そうかも知れないな。でも、俺にはそう見えるから仕方無い。自分だけで無く、他人を十二分に世話出来る奴なんてそれこそ人間としては合格点以上だぜ。俺達みたいな人間失格よりはよっぽど素敵だ」
「ちょっと智久。それってあたしも入っているの?」
「お前はヒット作出してからそういう事、言いやがれ」
「…………そこを突かれるとあたしも弱いわね」
くっそー、やけ食いしてやる――――ッ! と叫びながら黒川さんは肉を口の中に一気に放り込んだ。……五日間、何も食べないであんなに肉を食べて大丈夫なのだろうか。彼女の胃もそれはそれで常人離れしていると思う。
僕は暫く無言で肉を食べ続けた。……凄い上手い。肉を焼くぐらいなら僕とてこれぐらいの事は容易に出来るだろうけれど、あれだけ手際良くやるのは難しいだろう。そもそもこのタレは僕が逆立ちしたって出来そうにない代物だ。
美徳って一体何だろう、と僕は思う。
相田さんみたいに何でも出来た方が良いんじゃないのだろうか。
じゃあ――――――――――と僕はそれを考えずには居られない。
逆に何も出来ない奴は屑なのだろうか。
一年前の僕みたいに。あるいは。
今の――――菫みたいに。何にも出来ない奴はどうだろうか。
生きる資格は兎も角として、生きる価値は無いのだろうか。
そもそも何でも出来る癖して何もしない相田さんはどうなのだろうか。
黒川さんみたく自分をとことんまで酷使し続ける生活は何なのか。
分からない――――――僕は埃が舞い立つゴミ捨て場みたいな頭のまま、焼肉と野菜を交互に食べ続けた。頭が不幸せと幸せでごっちゃにされて、意味が分からなくなった。
気が付けば相田さんと黒川さんは二人して酒を持ちだして呑みだしていた。段々と呂律が回らなくなり、意味の分からない事で笑い始めている。
結局、僕は楽しければいいやという考えを放り投げる結論に至った。
取り敢えず今はバーベキューを楽しもう。
「――――――だからさぁ。次の作品は何を書こうかって編集と話しあっている時に言われたのよ。『黒沼先生は本当に多彩なジャンル書けますけれど、器用貧乏ですよね』って。そんな事くらいこちとら耳が痛くなるくらい知っとるんじゃいっての! それをどうにか引き出すのはあんたらの仕事だろうが! あー、もう!」
「いや……真紀。編集はお前の作品を上手く纏めるのが仕事であって、お前の魅力を引き出すのはお前自身だろう」
「そんな事! そんな事、分かっているわよ! でもどうにもなんないから困ってんじゃない! くー…………これが呑まずに居られるかっての!」
「ええと、黒川さん。その黒沼先生ってのは……」
僕は異常なスピードで酒を呑み進める黒川さんに尋ねる。彼女は少しばかり血走った眼を見せながら言った。
「ああ、椛君には言ってなかったかしらぁ……。それがあたしのペンネームなの。黒沼和静って言うんだけどね。……知らないかしら?」
「……残念ながら」
最近何処かで耳にした事があった気がしないでも無いが思い出せず、僕は渋面を作った。
「ま、まああたしの作品ってば……こ、高校生向けじゃないもの……ね……」
「……単純に知名度が無いだけだろ」
「うるさい、智久! あんたの絵だってどうせ椛君、知らないでしょうが!」
「俺は別に構わねえよ。そもそも高校生で絵の事知っている奴なんてそれこそ美術学校の生徒ぐらいのもんだろ。椛、お前の通っている学校って美術学校じゃねえよな?」
「普通の進学校ですね」
「なら問題無いな」
「チクショー! あんたのそういう達観した態度があたしは気に入らないのよ――ッ!」
黒川さんは更に酒をあおり、肉を食らった。……凄い絵面だ。
「……そもそも黒川さんって何で作家になったんですか?」
「別に。大して思う所は無かったわよ。あたし二十くらいまでは普通の会社員だったんだけど、急に会社が潰れちゃってね。それで途方に暮れいてた時に趣味でやっていた小説を仕事にしようと思い立って今に至るって感じよ。運も良かったしね」
「……それでも零細作家だけどな」
「あんた、喧嘩売ってんの!?」
「月並みだって言いたいだけだ」
「そりゃあ智久に比べればそう波乱万丈な人生送ってないけどさぁ……」
「……ええと。相田さんはどうなんですか?」
僕の言葉に相田さんは少しばかり逡巡した後に、言う。
「俺って大学出るまではホント、親の言われた通りの事をやるような、典型的な真面目君だったんだよ。まあある意味では品行方正な人間だったと言っても過言じゃないけどな」
「相田さんが、ですか? ……悪いけれど想像出来ませんね」
「椛君、椛君。こいつが出た大学聞いたらもっと想像出来なくなるわよ」
「……え? 何処の大学を出たんですか?」
「東大」
「………………………………は?」
「東大だ。理科三類」
「……………………………………」
絶句した。
「……こういう事、さらっと言う辺り本当嫌な奴よね、こいつ」
黒川さんの言葉に僕は壊れた人形みたく首をぶんぶん縦に振る。
「別に凄い事じゃあ、ねえよ。実際、親に言われた通りに勉強しただけだしな。それでいざ大学を出ようって時に思ったんだよ。俺って一体何がしたいんだってね」
「東大なんて出ればそれこそ何でも出来るでしょう?」
そう言った僕に対して相田さんは苦い顔をした。
「何でも出来るかも知れんかったが結局、何も思いつかなかったんだよ。それぐらい人の言う事に流されて生きていたって事だ。そんな人間が社会に出て何か出来る訳も無く、一応企業には入ったが入社一年で辞めちまった。急に冷めちまったんだよな」
「……次元の違う話をされている気がしますけれどね」
「次元は違うかも知れないが、高い次元で低レベルな事してたって話だ。やっている事はガキのお使いレベルと何にも変わらない。そういうもんだ」
「それで……どうしたんですか?」
「ああ。やる事無くて暇だったから日本一周してきた」
「…………またそれはそれで次元の違う話ですね」
「……と言うよりも完璧人間の凋落する話を聞いているようでちょっとワクワクするわね」
「黒川さんの言う分に今回ばかりは僕も全面的に同意します」
「…………と言うより背中がぞくぞくと疼いてきたわ。人間を灰にする瞬間に思う事ってこんな感じなのかしら」
「…………さっき全面的に同意するって言った言葉を取り消します」
何でよ、と叫ぶ黒川さんを僕は無視する。
……いや貴方の感性はちょっとばかりおかしいと思う。
「まあ日本一周してきて俺は気付いたのよ。『ああ、俺は実のところ、何にも知らなかったんだな』って。自分の欲望も感性も何もかも閉じ込めて大学まで生きていたんだ。そんなのどんだけ褒められたところで引き籠りと何ら変わらなかった。そして次に気付いたんだよ。『世界はこんなにも美しい』ってな。だから俺は画家をやる事にしたんだよ」
「……だからの次に何で画家が来るのかよく分からないんですけれど」
「その辺はフィーリングだよ、フィーリング」
「何て大雑把な進路変更なんだ…………」
僕は呆れと尊敬が攪拌された言葉を呟いた。
そんな生き方もあるのか、と。
その昔、つまらない理由で引き籠りへと甘んじた僕は痛み入るばかりだった。
「別に大した理由でも無かったな。波乱万丈って言えばそうかも知れないが、それだけの事だ。ぶっちゃけた話をすれば人間、どう他人に好かれるかって話の方が大事かと思うし」
「その辺、智久は落第よね。大学までの友達、皆連絡すらしてくれないんでしょう?」
「それどころかある意味人生ドロップアウトしたようなもんだからな。仲の良かった奴も落ちこぼれと連絡取り合おうなんて思わない筈だし両親とすら碌に連絡取り合ってねえよ」
相田さんはそう言って笑った。……雰囲気的には二人共、大笑いしているが言葉面だけ見ればかなり笑えない話だろう、それは。
「椛君、こればかりはあたしも智久に賛成よ。人間って結局は自分が凄い事よりも他人にどれだけ尊敬されているか、もしくは周囲にどれだけ仁徳があるかの方が重要だと思うわよ」
「引き籠りって実のところ、自分にアクセスしてくれる人間が居なければ死んでるのと然程変わらないしな」
「その意味で言えばあたしも全く以て人に自慢出来ないわ。連絡取り合っている知人は五本の指で事足りるし」
その内一人は編集だしね、と黒川さんは破顔した。
「だからよ、椛。お前の方が実のところ、凄い奴なんじゃねえかって俺は思うんだよ」
「…………はあ?」
僕は相田さんの物言いに全く以て同意出来ないという疑問の表情を作った。まるでサンタが実在するとでも言われたかのような、そんな有り得ないと言いたげな顔を。
「お前は実に人徳って奴を備えてやがると思う。菫をあれだけの短期間で仲良くなるにはそれぐらいの力が必要だろうしな。だから俺はお前を尊敬するぜ?」
「そんな…………ッ。有り得ないですよ」
僕の訴えを二人は否定こそしなかったが、肯定もしなかった。
只々――――静かに微笑んでいた。
僕はこれ以上無いくらいに、益体無い表情を浮かべた。




