第二十一話
ちまちまと肉と野菜を食べ、そして相田さんと黒川さんの二人が酒を飲み交わし、僕はジュースを間に挟みながらバーベキューを行っていると携帯の着信音が鳴った。
この着信音は…………。
「……菫か」
「え、何? もしかして椛君ってば菫ちゃんと番号交換してんの?」
「ええ、まあ。あいつ、一応独りっきりですし、何か合った時の為にお互い番号交換していた方が良いかと思いまして」
この前、掃除している際についでに交換して置いたのだ。今日まで掛かってくる事は無かったのだが…………。何か用でもあるのだろうか。
取り敢えず僕はがなり立てる携帯の着信音に応える。
「もしもし」
『…………ええと、君かい?』
「この前、椛って呼べと言っただろうが」
僕は一応、訂正させる。こちらが菫と呼称するのに、相手が君としか呼ばないのは少々おかしいと思い直させたのだ。
以来、こうして間違える度に僕は菫に呼び直させている。
『椛、君は一々面倒臭いんだよ』
「お前に言われてたくは無いな」
面倒臭さでは僕の知り合いの中で確実に三本の指に入るであろう菫に言われるのは心外極まりない。ちなみに後の二人は当然、相田さんと黒川さんだ。ここでは奈々子叔母さんは除外している。一応、まだ面と向かって会った事が無いので計るのが難しい為である。
……ただ奈々子叔母さんは会ったら会ったで面倒な人のランキングを不動の一位で掻っ攫うであろう予感を僕は切々と感じている。
『……そんな事よりも君は今、バーベンキューをしているんだよね』
「ああ、そうだ。よく知っているな」
『そりゃああれだけ叫んでいれば冬眠中のクマだって目覚めるよ。気付かない訳が無い』
叫んでいるのは主に黒川さんと相田さんの二人なんだけどな。真向いのアパートの大家さんが苦情を入れに来た時は二人に対応願う事にしよう。
『それなら少しだけおかしい事があるんだ』
「おかしい事?」
僕は携帯電話を通して聞こえてくる菫の不穏な声に対して怪訝な顔付きをする。
おかしい? 何の事だ?
『君は今、バーベンキューをする為、庭に居るんだろう?』
「……そうだな」
『智久と真紀もそこに居るのか?』
「……ああ」
『……奈々子は来ていないのかい?』
「お前は一体何が言いたいんだ?」
僕は辛抱堪らず真意を問い掛けた。声のトーンが二段階落ちている上に、どうも不透明な口調は僕で無くとも疑問の声を上げるだろう。
『いや、ちょっと不思議に思ってね。誰も居ない筈の隣、つまり君の部屋から何やら物音が聞こえるんだ。がさごそっと落ち着かないような音がね』
「…………は? ちょっと待て――――」
――――どういう事だ、と言い切る前に視界を上げた先で僕は見た。
庭から見える僕の部屋の窓、そこには誰とも知らぬ人影が映っていたのだ。
「……空き巣!?」
そう呟いた瞬間、空き巣は僕の目線に気付いたのか焦りの色を浮かべた。濁った目線が僕へと届くや否や、空き巣は一目散に僕の視界から消えた。
「糞ッ! 逃がすか!」
僕も持っていたジュースを放り投げて、走り出す。胃の中で溜まっていた肉や野菜が悲鳴を上げたが、構わなかった。
……部屋には確か今月の生活費が入った財布と通帳、印鑑まである筈。それが盗まれたとすれば、相当不味い!
庭から玄関先へと回った僕は玄関先へと視線を上げる。遠くにたった今、202号室の玄関を出てきた三十代くらいの男が何やら右手に抱えていた。
――――あれは財布と通帳に印鑑が入った小物入れ。あまり難しいところに置いて無かったから発見されてしまったのか。
「でも通り道は階段を通ったここだけだ」
直ぐに階段を昇っていけば空き巣を逃がす事は無い。
僕は焦りと怒りにより冷静さを失った頭のまま、階段を昇り始める。
そして二階へ着いた途端、一階付近に衝撃音が聞こえた。
「あッ!!」
僕は直ぐに気付いた。空き巣は二階から飛び降りたのだ。結構な高さにはなるが、飛び降りられない高さでは決して無い。
「しまった…………ッ」
痛恨のミスをしてしまった。あのまま一階に居れば逃がす事は無かったのに。
「どうしたんだ、椛」
――――と。僕が懊悩としている最中、玄関先に相田さんが姿を見せた。後ろには黒川さんも続いている。
「そいつ! そいつ、空き巣です! 二人とも捕まえて下さい!」
僕は今にも白峰館の門を潜って逃げ出しそうな男を指さして叫ぶ。
「何ッ! 空き巣だと!?」
僕の叫びを聞いて、相田さんは叫び、走りだし、そして――――転んだ。
「……………………悪い、椛。俺、結構酔っているみたいだ…………オエッ」
「この役立たずがァ! く、黒川さんはッ!」
相田さんの後ろに控えていた黒川さんの方へと視線を送る。
すると相田さんは走り出していたのか既に門近くに居た。しかも結構な俊足だ。
この調子なら空き巣を捕まえられる――――そう思った矢先、黒川さんは段々と勢いを失くして立ち止まってしまった。
「ど、どうしたんですか、黒川さん!?」
「ごめん、椛君。今頃、胃が…………胃酸過多で…………すっごい痛い……」
「お前ら、どっちも普段の生活を見直しやがれ!」
不摂生な上、運動不足だからいざと言う時にどうしようも無いんだよ!
僕は罵倒する気持ちもそこそこに二階から飛び降りた。
地面に着いた途端、足に電気のように走る衝撃。僕は顔を顰めながら走り出す。
「おおおおおおおおおおおッ」
――――とは言え。僕も決して運動が出来る方では無く、焼肉によって腹が一杯であった為、思うように走れなかった。
白峰館を出た通りを逃げる空き巣に差をどんどん離される。
「ヤバい……ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!!」
埋まらないどころかどんどん離される空き巣との距離は焦燥となって僕へと襲い掛かる。
あの財布には今月の生活費が、そして通帳には来月どころか再来月の生活費が振り込まれている筈。盗まれれば洒落では済まされない。
「だ、誰か――――ッ! あ……あい……あいつを捕まえて……くれぇ……」
息が切れて思うように喋れない中、何とか声を張り上げ、遠くにいる空き巣を指差す。ひゅーひゅーと漏れる呼吸音。顔に漏れる悲壮感。だが、今日に限って通りには人がまだらにしか居なかった。通り過ぎる人も何事か、と僕へ視線を送るばかりで誰も空き巣を捕まえようとはしてくれない。
――――もう駄目だ。僕はそう思ったが、立ち止まらなかった。
いや、立ち止まれなかった。
足を止めれば後ろから絶望が襲い掛かってくるような気がして。
眼前が黒々とした不安でチカチカと曇った。それは疲労から来るものだったが、その時ばかりは僕の未来が閉じられた暗幕のように思えた。
しかし、そんな事で空き巣との距離が埋まるなんて事は無く、僕はとうとう立ち止まり膝を付いた。
……そもそも僕が鍵を掛けていなかったのが悪いのだ。バーベキューをするだけ、と楽観視していただけに鈍器で殴りつけられた絶望が襲い掛かってきた。
親にどう詫びれば良いのだろうか。もしかしたら一人暮らしを辞めるよう言われるかも知れない。そうすれば学校も通えなくなる。元の木阿弥、一年前に逆戻りだ。
――――また沼の底へと帰る事になる。
でもどうしようも無かった。僕の足はもう動かないのだから。
「………………終わった」
僕がそう呟く声は眼前を通り過ぎる風切り音によって掻き消された。
何事か、と僕は顔を上げた。――――バイクだ。原付がエンジン音を吹かせて僕の眼前を最高速度で通り過ぎたのだ。
原付は恐らくは出せる限界スピードでどんどん前へと進んだ。向かっている先は――――僕の生活費を再来月分まで盗んだ空き巣だ。
遠くで霞んでいるものの僕には分かった。振り返った空き巣の表情は恐怖に歪んでいた。
「きっさま――――――ッ!! ウチのアパートから物を盗むなんて良い度胸しているじゃない! 私の管理不届きとか言われて住民が皆、出てったらどうしてくれるのよッ!! それで金が無くなって、余裕が無くなって、私が婚期を逃したらどう落とし前つけてくれるの!! こちとら神様に年齢ガンガン奪われるのは止められなくても、晩婚化は止めてやりたいぴちぴちの三十九歳なんじゃ――――――――いッ!!」
僕の視界の隅で奇声を発しながら空き巣を原付で轢いたのは、白峰館の大家にして、顔を始めて合わせる事になる僕の叔母、奈々子叔母さんだった。




