第十九話
五月の二日。明日から連休に入ろうかという有翅学園の放課後。
僕は文芸部の部室という有翅学園の極地に居ながらもふわふわとした雰囲気を感じ取っていた。部室に来る前、教室での雰囲気も何処か気もそぞろな連中が多く、「何処かしらに遊びに行く」だの「何処かしらに部活動の合宿を行う」だの言っている連中の譫言を右から左に流しながら僕は今日一日過ごしていた。
僕は椅子に腰かけながら部長を眺める。どうやら文芸部もゴールデンウィークの例外では無いらしく、僕は部長の上機嫌な笑顔の相手をする事になった。
「あんなー、櫻井君。ゴールデンウィークって何か予定とかあるん?」
「…………予定、ですか?」
僕は部長の普段の凛とした態度とは違う、その緩みに緩みきった眼鏡の奥の瞳を凝視しつつ、怒涛に押し寄せる違和感を無視しながら部長へと向かい合った。
「ウチはもう仰山予定が目白押しなんやでー……。うふふ、何やと思う?」
「…………ご家族と出掛けたりでもするんですか?」
「ちゃうちゃう、そうやないねん。四月の後半にウチの好きな作家の新刊が山ほど発売されたから、ゴールデンウィークはその本をひたすら読むつもりやねん。黒沼 和静先生の最新作とかな……ああ、想像しただけで涎が垂れてくるようやわ…………。めっちゃ楽しみやなー……」
「……部長、ちょっと良いですか?」
「何や、櫻井君。聞きたい事が合ったら何でも聞いてくれてええんやでー」
「…………では。部長って関西圏の出身なんですか?」
「……関西圏? 櫻井君、何ゆーとんの? ウチは生まれも育ちのここらへんから出た事はあらへんで」
「…………いや、でも」
「どうしたん、櫻井君。何かよー分からん、へんてこな顔になって。悩み事かいな」
「……だって部長、めっちゃ言葉が訛ってますよ」
「へ? いきなり何言うて――――――あ」
瞬間、部長の笑顔が崩れ、目をカッと見開いたかと思えば、まるで暖炉に砂糖菓子でも放り込んだかのように顔が赤く燃え上がる。
「い、いや……その、これは間違うてな……じゃなくて間違って……。えと、あの、そのッ……あ、ああああああ!」
「えっと、あの……落ち着いて下さい」
部長は両手をぶんぶん振った後、本で真っ赤に染まった顔を隠した。だがその手ですら赤く染まっており、部長が何やら恥ずかしがっている事だけは見て取れた。
「…………取り乱してしまい申し訳ありません」
「……いや、大丈夫ですよ。僕は気にしませんから」
僕は取り敢えず、自分が人畜無害な人間である事をアピールする。
こういう時はまず無害さを相手に知らせた方が良いとディスカバリーチャンネルで見た。
…………別に部長は傷ついた野生動物でも何でも無いんだけどね。
「……そうですね、実はうちの母が関西圏の出身でして。家ではよく訛り言葉を使うんです。私は関西に行った事は未だ無いんですけれど、少し油断すると微妙に訛った表現で喋ってしまうんですよ」
「それでさっきは……」
「…………はい。油断してしまいました」
僕はそれを聞き、辛抱堪らず笑ってしまった。
三分程笑い転げた後に、部長が癇癪を起して僕に右ストレートを浴びせかけたところで、僕はどうにか自身を抑え込む。
「…………はははは、部長……それ、超面白いです。油断したら言葉が訛るって…………すげー可愛いですね」
「――――か、可愛ッ!?」
部長は僕が思わず漏らしてしまった本音を聞いて更に顔を赤くした。
…………しまった。笑ってしまった件も合わせて後で精一杯謝罪しないと。
「…………えーと。可愛いって言ってくれたので、櫻井君は許してあげます。それに油断して言葉が訛ったのは当然、私に責任がありますし」
「………………本当にすいません」
僕は取り敢えず一度、頭を下げる。もう一度癇癪を起され右ストレートを鳩尾に叩きこまれては、僕はもう耐えきれる自信が無い。
「そこは謝罪するのでは無く、感謝して欲しいところですよ、櫻井君」
「…………あ、えーと…………すいません」
「駄目ですね、櫻井君は」
部長は僕を見て肩を竦めた。
ヤバい…………どうやら相当、怒らせてしまったのかも知れない。
僕は部長を真っ直ぐに見る事が出来なくなり、視線を逸らした。
焦点が文芸部の古びた天井辺りを彷徨い始める。そこはかとない空しさを感じた。
「…………昔。確か中学二年生の頃ですけれども、油断して言葉が訛ってしまった事があるんですよ」
部長がぽつり、と郷愁の帯びた声で言った。部長は不思議そうに眺めた僕に構わず、続ける。
「それでちょっとばかし馬鹿にされた時期があったんですよ。『変な喋り方だな』って。それから誰に対しても溜口で喋るのが怖くなって、敬語でしか喋れないようになってしまいました。それと合わせて皆から何処か距離を取られているように感じてしまって、いや、実際敬語を話す同級生なんておかしいですから本当に距離を取られていたんでしょう。それから私は他人と距離を詰めるのが難しくなって、次第に本の世界へと引き籠るようになりました。それまでも本を読むのが好きな方だったんですけれど、より一層って感じですね。何処か病的だったのかも知れません」
「……………………………………」
堰を切ったように喋り出す部長を僕は只々見つめていた。
口を挟むべきか否か考えたものの、僕は何も言わなかった。
多分、部長が今、話しているのは僕では無く、昔の自分だからだ。
僕はただ黙って彼女の言に耳を傾けた。
「だから私にとってこの訛った言葉は足枷でしか無かったんですよ。そしてついさっき、誤って訛り言葉で喋ってしまった時、本当は凄い怖かったんです。櫻井君にもまた昔みたいに馬鹿にされるんじゃないかって。でも櫻井君は馬鹿になんかせず、いや笑いはしましたけど……。でも、それでも……えと、か、可愛いって肯定してくれました。ちょっとだけ吹っ切れたような気がします。ありがとう、櫻井君」
「…………いや。僕は何も……」
僕は言葉を濁した。本当に何もしていなかったからだ。
可愛かった仕草を可愛かったって言っただけ。他に何もしていない。
そう思っていた矢先、部長はこんな事を言った。
「櫻井君。私、何気ないって大切だと思うんです」
「…………何気ない?」
僕は分からない言葉を赤子のように反芻した。部長はふっと破顔する。
「そうです。当人は何もしていないつもりかも知れない。けど他人にとって、それは重要な事であるのかも知れない。自分が何気なく見ている景色が他人にとって何よりも美しい景色である事…………そういう事ってよくあるんですよ?」
「…………そういうものですかね」
「そういうものなんです。だから櫻井君、御礼をされたら素直に受け取った方が良いんですよ。そんなに辛い顔をされてはこっちが逆に悪い事をしたと思ってしまいます」
「…………僕、そんなにひどい顔をしていましたかね?」
「とっても」
部長の端的な言葉に僕は頬が熱を帯びるのを感じた。
御礼をしてくれたのに僕はその御礼を無下な態度で返してしまったのだ。
それが分かった途端、僕は申し訳ない気持ちで一杯になった。
「その顔ですよ、櫻井君。別にいつでもニコニコしてろとは言いませんけど、笑っていた方が人生って楽しいものです。深く考えすぎると美しいものを美しく思えなくなりますよ」
「……………………あ」
「それに私、笑っている櫻井君、結構好みですから」
部長は朗らかな笑顔を見せてくれた。
女性にここまでの笑顔をさせて置いて、自分は酷い顔をするなんて事、僕には出来ない。
僕は彼女の精一杯の笑顔を返した。
「酷い作り笑顔ですね」
「…………すいません」
一蹴されてしまった。僕は下唇を噛みしめる。
「…………これは笑顔の練習が必要かも知れませんね。櫻井君、明日って空いてます? 宜しかったら一緒に遊びに行きませんか?」
「……え? 部長って連休中は新刊を読むんじゃないんですか?」
僕の疑問の声に部長は開いて持っていた本をぱたんと閉じた。
空気を叩く音が僕の耳をノックした。
「だって一人で居るより、二人で居た方が楽しいでしょう?」
彼女の顔は春の木洩れ日よりも温かそうに思えた。
そしてその提案はとても魅力的に思えた。しかし…………。
「…………すいません。実は明日は予定があるんです」
僕の言葉に部長の晴れ渡った表情はにわか雨が降ったように曇っていった。
この時ばかりは僕の胃をチクリと刺す背徳感が正しい感情だと思った。




