第十八話
最早習慣化している相田さんの晩酌のおつまみ作りだが、それを作っている間、僕はふと始めて菫の姿を見た事を報告した。
すると、
「え、は、あ!? 菫? す、菫の姿を見たのか!?」
「……えーと、すいませんが、その暑苦しい顔が驚くほど鬱陶しいです。うっかり間違えて包丁を眉間にさくっと刺してしまいそうです」
僕は相田さんの予想以上の反応に面喰らいつつ、注意を促す。
「それはもう間違えているんじゃなく、故意的な殺意だと思うんだがな…………。そんな事より本当に菫の姿を見たんだな!?」
「…………まあ」
「げ、元気だったか!? 痩せ細ってなかったか!? 隈とか出来てなかったか!?」
「………………………………」
相田さんに詰め寄られた僕は彼のそのあまりの剣幕に若干引きながらも菫の様子を事細かく説明してやる。
僕の話を終始無言で聞いていた相田さんは様子が分かった途端、長い溜息を吐いた。
…………そんなに気になるのなら様子を見に行ってやれば良いのに。
そう口から出掛けた言葉を僕は飲み込んだ。
多分、何かしらの事情があるんだと思ったからだ。
そうでなければ相田さんのこの態度は明らかにおかしい。ついでに黒川さんも。二人は菫に対してあまりにも消極的過ぎるのだ。
……多分、その事情を尋ねるには僕も相当な覚悟をしないといけないのだろう。手を火鉢に突っ込むような、そんな覚悟を。
――――少なくとも今はその時では無い。そう思った。切羽詰まった時で無い限りは一々、危険な道を進むような真似を僕はしたくない。
引き籠りを克服したと言っても僕はその臆病な性格全てを克服出来た訳では無い。
物事には順序があるし、慎重に進む事こそが僕の流儀だ。だから僕は好奇心で崩れ落ちそうな硝子の破片に素手で触れるような事は止めておく。
そんな風に僕は何気ない、しかし忙しない日々を過ごしていた。
そして四月が終わる頃、奈々子叔母さんからの電話を僕は受け取った。
『息災か、我が息子よ』
「……キャラが間違ってますよ」
あんた、何処まで自分のキャラ幅広げたいんだよ。
そうやって意味の無い広げ方は自爆の原因になるんだよ。覚えとけ。
そもそもアラフォーで独身なんて人生大幅に間違ってんだからキャラ作りまで間違えんじゃねーよ。せめて芯のぶれない人間性を持ちやがれ。
『椛たん、お姉さんはね、可能性の翼を何処までも何処までも思い切り広げたいのよ。それにキャラ幅は沢山広げていた方が、なーんか、ミステリアスチックな人間性を演出出来て良いんじゃないかって私、この前、ネットで見たのよ。それに四十までに結婚しないと老後の暮らしが心配でしょう? だからモテモテになれるよう参考にしてみたわ』
「…………四十手前で可能性の話をされてもさあ」
いやさ、こっちとしては反応に困るよね。
あんたと会って半年も経っていない――いやまだ姿すらも見た事が無いのに、僕は叔母さんに対して一体幾つ恨み言をぶつければ良いんですかね。
それに可能性とかそういう話をする以前にネットの情報を鵜呑みにするその要領の悪い頭をどうにかしろよ。
結婚なんて夢のまた夢だぞ、それ。
『…………ん? 椛ちゃんから不穏な空気を察知したわ。もしかしてお姉さんが結婚出来ないとかそういうNGワードを考えてる?』
「…………………………………………」
『黙っても無駄よ。お姉さんの能力、〈結婚願望〉を前にして隠し事をするなんて愚の骨頂ね!』
「…………だからあんたは一体何キャラなんだよ」
電話越しに心を読むとか。
一人だけ厨二な能力名(笑)持ってみたりとか。
何であんただけ日常から飛躍したキャラ設定になってんだよ。もう少し地に足のついた人であってくれないかな。
そうじゃなければ、いつかあんたと対面する時、僕が正気を保っていられる自信が無い。
『何キャラ? しいて言えばボスキャラでもありヒロインでもあると言っておこうかしら』
「属性に難があり過ぎる!」
『これがもしも小説だったりなんかしたら椛ちゃんは私との子作りエンドで決定ね』
「それ、僕にとって世界終末エンドに等しいんですけれど」
『良いじゃない? 世界が終わる中、お姉さんと励むドキドキの初エッチ。これはエロいわね。多分、椛たんはアブノーマルな性欲の持ち主だから成人誌ですら掲載出来ないようなギリギリのプレイを求めてくる。ああッ! ちょっとお姉さん、興奮してきたんだけど。試しにテレフォンなんちゃらとかやってみない?』
「勘弁して下さい……」
この人こそ出てきただけで規制されるようなアブノーマルな人だろう。
電話越しにでも生気をグイグイと吸い込まれている感じがして、鬱になってくる。
『まあ物語の方向性を定めたところで』
「……定まってませんから」
『椛たんってば菫の姿を見たそうね』
「……ああ、誰から聞いたんですか?」
『え? そりゃあ隠しカメラで――』
「誰か、こいつを逮捕してくれ!」
『冗談よ』
「……フリーダムにも限度がありますよ」
ようやく本題に入ったかと思えば、直ぐに話を脱線させる叔母さんに僕は嘆息しつつ、通話をどうにか諦めない。この精神力を誰か褒めて欲しい。
『まあ誰だって良いじゃない。別に悪い事、している訳じゃあ無いんでしょう?』
「そりゃあ、そうですけれど…………」
『実際、私は椛ちゃんに礼を言う為に電話したのよ。よくもまあ、あの娘相手にこんなにも早く打ち解けたわね。ありがとう、椛ちゃん。この一ヶ月の間、めげずにあの娘の世話をしてくれて』
「…………えーと、まあ、はい」
僕はちょっとばかし言葉を濁した。別に照れ隠しをしたかった訳じゃない。
確かに僕は菫と打ち解ける為に色々と工夫した。けれども結果的に受け入れてくれたのは菫の努力に違いないのだ。
だから菫に礼を言われこそすれ、叔母さんにまで礼を言われると少しむず痒い。
『御礼に私が椛ちゃんの童貞を貰ってあげるわ』
「それは御礼になっていない」
『……え? まさか……もう童貞じゃない!? さすがは椛ちゃん、この短期間の内に菫で初めてを済ませるなんて…………。お姉さん、感服したわ』
「びっくりするぐらい酷い勘違いに僕はもう戦々恐々です」
『兎も角。椛ちゃん、私が貴方に感謝しているのは本当なのよ。正直な話、菫の世話をするなんて難しいと思っていた。菫は本当に難しい娘だし、出来たとしてももっと多くの……それこそ一年以上の時間が掛かると、そう思っていたわ。凄い子ね、椛ちゃんは』
「…………ちょっとばかり買い被り過ぎな気もしますね、それは」
僕はむず痒い感覚を通り越して、少しばかり居心地の悪さを感じた。
本来、僕は褒められるような人間では無い。少なくとも一年間、社会的に最底辺の地位へ落ちながらも何とか這い上がってきたような、そんな凡人以下の人間でしか無い。
そんな僕が褒められるような人間である筈が無い。だから僕はこんなにも居心地の悪さを感じているのだろう。過剰な評価はそれこそ、あまり良い事では無いのだから。
『買い被りじゃないわよ。確かに私は菫のもとい白峰館の住民、皆の世話役として貴方は適任だと、そう思った。嘗て同じ立場であった貴方なら皆の気持ちを汲んでやれるだろうと。その為の方法もこちらに来る前に学んで貰った。……でもね、貴方はそれ以上の成果を出してくれた。こっちが予想し得なかった成果をね。それは貴方の元々あった能力によるものよ。それを誇らずとしてどうすると言うのかしら』
「………………………………………………」
僕は押し黙った。急に怖くなったからだ。
まるで薄氷の上を歩いているような、何も知らずに地雷原をひた走っているような、そんな感覚が僕を襲った。
こんな事…………僕以外の人間でも出来ただろう。いや、僕以外の人間だったらもっと上手くやれたかも知れない。僕で無くても良かった。そう思うと僕は怖くて怖くて仕方無かった。
いつか大きな失敗をしてしまった時、道を踏み外してしまった時――――僕は皆に見捨てられて、蔑まれた結果、また臆病になってしまうんじゃないかと、そう危惧した。
あの頃に戻ってしまうんじゃないか、と。
そう――――――――思えてならなかった。
『ありがとう、椛ちゃん。これからも宜しくね』
僕はゴールの無い迷路に閉じ込められているかのような、感覚を覚えた。
これは……いつか行き詰まる。
そうなった時、僕はどうなるのだろうか。また、未来なんて何も見えない沼の中、底をがりがりと削る作業に没頭するのだろうか。
あの荒唐無稽で居て自傷行為的な自分探しを始めてしまうのだろうか。
僕は分からなかった。分からなくて分からなくて、いつまでも黙り続けた。
部屋があったら籠りたい――――そう思えてならなかった。




