第十七話
四月も既に後半に差し掛かった。春の代名詞でもある桜は徐々に温かくなっていく気温に解かされるようにして姿を消していき、四月の中旬を過ぎる頃には空しさ漂う状態になっていた。
そう言えば今年も花見をしなかった。三年前まで僕は毎年例え一人であっても花見をしていたのに…………。いや、飽きた訳では無い。単純に赴く暇が無かったのだ。
今年は白峰館の住人の世話に追われ、只々自分の時間を食い潰した。
そして去年、一昨年に欠けては色々な意味でそれどころでは無かったのだ。
来年は花見をしよう、そう思った。桜の樹を見上げながら心を落ち着かせる、そんな無為な時間に沈んでみたい――――――価値ある無為な時間に。
日々が忙しなく過ぎていく中、幾つか実を結んだ事があった。
何と詩菜菫が僕の作った晩飯を食べ始めたのだ。
始めて彼女に晩飯を作ってから、口に入れて貰うまで凡そ二週間以上の月日が流れていた。そう考えると感慨深い。晩御飯を作って持っていくついでに毎日一時間程、彼女に遮光カーテン越しに話し掛けるという行為を始めた事もどうやら功を奏したらしい。
何で詩菜菫は僕の料理を食べ始めてくれたのだろうか――――その答えを僕は多分、知っている。
彼女は僕の事を安全な人間だと認めてくれたのだろう。
引き籠りは異常な迄に臆病だ。外の世界の人間が自分を傷つけないかどうか、いつも怯えて暮らしている。だから外の世界の人間の事を安全かそうでないかで推し量る。元々、人に会う機会が極端に少ない彼らは人を一人把握するのに、膨大な時間を要す。人によっては――――例えば一年前の僕ならば人を一人把握するのに半年は掛かっているだろう。
今回、二週間とちょっとで詩菜菫が僕の事を推し量る事が出来たのは、より多く彼女の世界に僕が触れた事こそが原因の一端を担っているだろう。遮光カーテン越しであっても、実際に生の声を聞くというのは重要だ。声の調子一つで瞬時に体調を見抜く事の出来る医者が居るくらいだ。声ってのはその人の人間性を推し量るのに大事な要素なのだろう。
そしてもう一つ実を結んだ事がある、これも詩菜菫関係だ。
僕は遮光カーテンの奥を覗き見る事に成功した。つまり――彼女の姿を直に見る事が叶った。
「お前の部屋、掃除してやろうか?」
ある日、僕がそう申し出た事こそが詩菜菫が遮光カーテンを開いてくれた切っ掛けに当たる。
「…………別に、要らないよ」
いつも通り詩菜菫は平坦な口調でそう返してきた。ただ僕は必要無いとは思わなかった。
「……知っているか? この部屋の空気の濁り具合を。お前、もう一年以上、部屋の空気を入れ替えて居ないだろう? こんな中に居たら数年後、泣きを見るのはお前だぜ?」
「………………別に」
「ちなみに僕は知っている。お前が夜中、酷い咳をしている事があるのを。あれ、絶対部屋の空気が悪いからだろう?」
僕は202号室に住んでいる――つまりは詩菜菫の部屋の隣に住んでいるので、壁を通して咳ぐらいは容易に聞き取れてしまうのだ。彼女は夜中、酷く咳込む事が時折あった。あれの原因はこの部屋の濁りに濁りきって淀んだ空気に違いない。
「なッ。ぼくの部屋の音を勝手に聞き取るな! 盗聴は立派な犯罪だよ!」
「別に聞き取ろうとして聞いた訳じゃない。たまたまだ。それよりも掃除、した方が良いんじゃないか? どうせその遮光カーテンの向こう側もごっちゃごちゃなんだろう?」
「べ、別にこんなものはぼく一人で片づけきれる…………」
「嘘吐くな。普段から掃除の出来る奴がこんな空気で我慢出来る訳が無い。例え出来たとしても面倒臭がっていつまで疎かにしたんだろう? どうせなら僕に頼んだ方が楽だし、上手くやってやるぜ?」
「…………ううう」
詩菜菫はこれと言った反論が思いつかないのか声がくぐもった。これはチャンスとばかりに僕は畳みかける。
「ほらお前が飯食っている間にぱぱっとやってやるから。良いからここ、開けるぞ」
「で、でも…………。この中を見られるのはちょっと……その、恥ずかしい」
「お前の生活の何処に恥ずかしくない要素があるんだよ。もう恥ずかしさは上限一杯まで溜まってこれ以上、恥ずかしい要素を追加する余地は無いよ。観念しろ、そうすれば楽になるぜ?」
「引き籠りである内は楽になる必要なんて無いさ……。それこそが引き籠りである事の一つの矜持なんだから」
「…………ほーんと、お前って何から何まで面倒な奴だな」
僕はもう問答するだけでは埒が明かないと判断して、遮光カーテンを思い切り開けた。
「――――なッ! ぶ、無礼な! ノックぐらいしたまえよ」
「遮光カーテンの何処にノックするような硬い場所があるんだよ……」
そう言いつつ、僕は遮光カーテンの向こう側に広がった部屋の明かりに思わず目を細めた。今まで部屋の光の殆どは遮光カーテンで遮られた為、あまりの眩しさに焦点が定まるまでに結構、時間が掛かった。
遮光カーテンの奥は至ってシンプルな間取りだった。中央に置かれたダブルベッドが部屋を圧迫しており、その近くに箪笥、本棚、テレビ、パソコンなんかの家具やらが寄り添いあうようにして置かれている。ベッドの周囲にはお菓子の空き箱やらが散乱していて、成程、こいつが二週間以上、僕の作った晩御飯を食べないでも生存出来た理由はこの辺にどうやらあるらしい。これ以上無い程に乱れた食生活の片鱗が垣間見れた。
そしてダブルベッドの中央に縮こまるようにして一人の少女が座っていた。
少女の周囲は黒かった。最初は黒い海にでも少女が沈んでいるように思えた。でも違う。黒っぽく見えたのは少女の異常に長い髪の毛だ。その黒髪は異常に長い癖して、異様な迄に綺麗で艶やかだった。黒っぽい中に灯台の如き光が見える。藍色のサファイアを模したような瞳の色だ。形はちょっとだけ垂れ目だった。
背丈は小ぢんまりとしていて、凄く小さく思えた。また背丈を鑑みても少女は全体的に華奢だった。肌の色は病的に白く、四肢はこの一瞬だけ見えた手と同様に枯れ枝でもぶら下がっているのかと思った。簡単に折れてしまいそうな、そんな頼りない手足。
頬が赤く染まっていて、唇は薄い。ダボダボのセーターを羽織っており、何故だかズボンは穿いていなかった。セーターが短めのワンピースみたいだ。でも、セーターには違いないので丈から太腿が見えていた。それが少しだけ色っぽく思えた。
何度も何度も201号室に通って僕は始めて彼女の姿を見た。
この少女が――この存在が儚げに見える少女こそが――詩菜菫か。
「…………ふん。君が奈々子の言っていた世話係の櫻井椛か。何度と無く声は聞いていたが……、お目通りするのは始めてになるか」
「そうだな……」
僕は心を宙に放り投げたように覚束無い口調を返した。
眼前に居る少女の奇妙過ぎる姿を認識するのに時間が掛かっていたのだ。
「声と同じく予想通りの阿呆面だね」
「……お前だって、およそ常識人とは思えない恰好をしているぞ」
「…………うん? ぼくの何処が常識的じゃないと言うんだい? 格好こそ寝間着に近いが、おおよそ変という訳では無いだろう」
「………………………………」
どうやら自分の恰好が輪をかけて変である事に気付いてないらしい。多分、五年も外に出ていないから感性が著しく世間ズレしているのだろう。
セーター一枚で居る事を変だと教えた方が良いのか、僕はちょっとばかし逡巡したが、結果黙っている事に決めた。
教える義理も無いし、彼女の奇妙な格好はそれはそれで彼女に合っているような気がしたからだ。
それに面白いし。
多分、後半の理由が割合の半分を占めている。面白い事は面白いままの方が良いに決まっている。見ていて飽きないし。
「……まあ何でもいいや。掃除するからお前は僕の作った晩飯でもありがたく食ってろ」
そう詩菜菫に告げつつ、僕はまず濁りきった空気をどうにかする為に窓を開け放った。
途端、詩菜菫は縮こまり、顔を顰めた。
「…………寒い」
一言、そう発するとシーツを被って横になった。
「寒い? もう随分、温かくなっている頃合いだぞ」
「……外気なんて最近はとんと触れていなかったから」
ああ、成程。僕は納得した。
中の空気は濁りきっていたが、棘が取れて丸みを帯びている下流の石みたいな温かさがあった。外気に比べれば丁度、肌に纏わりつく泥のようである。
そんな部屋の空気に比べれば外気は肌を刺すような冷たさがあるのだろう。僕はそこまで過敏に変化を感じ取れないのだけれども、五年もこの空気に慣れ親しんだ詩菜菫ならば気付く事も出来るだろう。すっげー無駄スキルだ。
「あんまり物は動かさずに要らないものだけ掃除してくれたまえ」
「掃除してやってんのにその言い草はあんまりだが、こちとらこの一ヶ月でその辺はみっちりと鍛えられてんだ。ご要望にはきっちりお答えしよう」
詩菜菫の部屋は相当散らかっていたけれども、それでも相田さんの部屋に比べれば天国にも等しい。僕は難なく掃除を進めていった。
三十分もしない内に大体の掃除は終わる。元々、物が少ない所為もあってか、手間もそこまで掛からなかった。
掃除している間、詩菜菫はずーっとシーツに包まっていたようだった。
僕は彼女の適応性の低さに愕然としつつ、晩御飯の載ったトレイを持ってきて詩菜菫に渡した。
「ほら。今日作ったかに玉うどんも自信作なんだ。胃に優しいし、見栄えも悪くない。ちゃーんと味わって食ってくれよ? 前みたいに残したらぶっ飛ばすからな」
「…………うるさいよ」
詩菜菫は何か言いたげな表情を見せた。僕は何か嫌味を言われるかと思ったが、そんな事は無く、詩菜菫は無言で晩御飯を食べ始めた。
僕の作ったカツ丼に難癖をつけていた頃とは違って、普通に食べてくれる。
それを僕はとても嬉しく思った。
「僕はもう行くよ。その様子だとそれを食べ終わるのに一時間はかかりそうだしな。僕はお前だけじゃなく、この白峰館皆の世話をしているんだ。とてもそんな暇は無い。それじゃあな、詩菜菫。良かったら後で感想を聞かせてくれよ」
僕はそう言って遮光カーテンを閉めてから出て行こうとする。
淀んでいた空気はあらかた無くなっていた。舌がざらつくような感覚はもうしない。
「……ちょっと」
僕が部屋を出ようとドアノブに手を掛けた最中、背中に声が突き刺さった。
「何だ?」
「――――――菫だ」
「…………ん?」
僕は遮光カーテン越しにぶつかる声をよく聞き取れずに疑問の声を返す。
「ぼくの名前は詩菜菫だが、菫って呼んでくれ。君も一々フルネームで呼んでいては面倒だろう。慣れ慣れしいのは嫌いだが、それくらいは許してやる」
「…………お前は一々自己表現が面倒臭いな」
「き、君はぼくの精一杯の感謝の意に対して何て失礼なんだ! 恥を知れ!」
……いやいや。引き籠りに恥を知れとか言われてもさあ。
――――――まあ。
「分かったよ。…………じゃあな、菫」
僕は彼女の感謝の意は素直に受け取った。
だって自分の働きに応じた熱を帯びた感謝の言葉を貰える事は生きる価値そのものだから。
僕はその日、意気揚揚と201号室を後にした。




