第十六話
僕はまだ小さかった頃、視線を上に上げると心が安らぐ自分が居る事に気付いた。
細かい事は記憶から零れ落ちた所為もあり思い出せないのだが、多分幼稚園の頃。僕は夕暮れ時の空を見上げて、あの燃えるような空を見上げて、何故だかほっと息を吐いていた。小学生の時は授業中、窓際に座っていた僕はふと空を見上げて透き通るような群青色を眺めては肩の荷を軽くし、そして中学生の時分は夜の星々を仰ぎ見てはその一つ一つの煌めきに狂い咲くような心臓の鼓動をゆっくりと休めた。
その時まで僕は空を見上げる事が好きなんだと、そう思っていた。
壮大な空に、季節、時間、場所……様々な要因によってその色を変える広大なキャンパスを見て僕は浮ついた心を、猛り狂った心音を沈めているんだとばかり思っていた。
しかしながら僕は引き籠っていた頃に天井を見上げながらふと気付いた。
神秘性の欠片も無い、壮大さなんて少しでさえ見当たらない、いつ見たって何も変わらない天井の染みや独特の模様。それらを見て僕は沼の底から首だけ伸ばして息継ぎをしているような錯覚を覚えたのだ。
つまり僕は只々単純に上を見上げる事こそが好きなんだと気付いた。
見下げるよりも、見上げている方が楽な時だってある。
そんなのは多分、期待値と一緒なのだ。期待されていると辛い事だってあるし、放って置かれた方がかえって伸びる事もある。
ガキだった頃は何にだって理由があると思っていた。空が広大だから心動かされるし、地球が美しいからこそ、僕は生きる事を美しく思える。
でも違った。もっと世界は単純だったのだ。
理由も無しに、大した意味も無しに心動かされる事だってある。
だって僕と言う奴は――人間という奴は――かくも単純なものなのだから。
「洗いもん、終わった?」
「…………へ? ――――ああ。もう少しですね」
「早くしてくれよ。お前には日本酒の合うつまみを何か作って欲しいんだから」
「…………相田さん。少しは感謝をして下さい。僕は貴方の家の洗い物をして、そして貴方の為につまみを作ろうって言うんですから」
「へいへい。ありがとうよ。本当、助かってんぜ」
「……………………………………」
相田さんの部屋にて僕は言いつけられた仕事をしている最中、行き倒れる寸前の旅人みたいな溜息を吐きつつ天井を――201号室辺りを見上げる。
天井を見上げると気持ちが和らぐ――――こういう事があるのは僕だけなのだろうか。
彼女も――詩菜菫もそうなんだろうか。
先程、彼女を無駄に怒らせてしまった事を反省しつつ、僕は暗い気持ちを天井に打ち付けた。天井はどうも古くなっている所為か少し、黒ずんでいる。それは白峰館の築年数が古い為か、それとも相田さんの部屋が長年汚かったからかは定かで無い。
洗い物が終了して、僕は蛇口を絞めてから次に冷蔵庫から何かつまみになりそうなものを探す。チーズやら生ハムやらがあったので、適当な皿に盛り付けてからベランダで一人日本酒を飲んでいる相田さんのところへと持っていった。
「いやいや、どうもどうも」
相田さんは僕の持ってきた皿を嬉しそうに受け取る。にやついた顔が僕の琴線に触れたので、僕は皿から右手で一掴み、つまみをを取るとおもむろに口に運んだ。
「ああッ! 俺の大事なおつまみちゃんがァ!」
「……僕が作ったんだから、僕にも食う権利があって然りです」
「なら酒を呑めッ! 酒を呑まなければ勿体無い! 今すぐ喉に流し込めッ」
「未成年だっつうの」
僕は日本酒を頭からぶっ掛けようとする相田さんの眉間にチョップした。
「……俺なんて十二歳の頃から酒を浴びるように飲んでいたっつうのに」
「……犯人がたった今しがた、自供しました」
「証拠なんてねえんだ。捕まる訳がねえ」
…………おい。完全に犯罪者っぽい発言だぞ、それは。
僕は相田さんの顔を覗き見る。……ああ。やっぱり頬が酒の熱にやられている。
「そう言えば今日は黒川さんの姿が見えないですね」
僕は102号室の辺りに視線を彷徨わせながら、言う。
相田さんと黒川さんはしょっちゅう二人で酒を呑んでいる。それも昼夜問わず、気が向いた時に呑んでいると言った風だ。
「多分、また仕事が溜まってんだろう、ありゃあまた暫く引き籠って馬鹿みたいに不摂生な生活しながら書くんだろうな。絶対、あいつは早死にするね」
「そう言えば」
僕は最近になって気にし出した事を尋ねてみる事にした。
「相田さんと黒川さんってもしかしてお付き合いなさっているんですか?」
僕がそう訊いた瞬間、相田さんはまるで理解出来ない、とでも言いたげな顔をした。
「…………そう見えるのか?」
「……ええ、まあ」
僕がそう返した瞬間、相田さんは声を上げて笑い出した。
ひーひー、唸って床を叩き出したところで隣の壁から鈍い音が響いた。続いて「うるさいわよ、智久ァ!」とドスの効いた声。どうやら黒川さんは酷く神経質になっているらしい。まあ作家という職業上、追い込まれる事も多いのだろう。
「……ははははは。ひぃ……怒られちまった……腹がいてぇ…………」
「そこまで笑う事ですか…………」
まるで僕が馬鹿な質問でもしたかのようだった。
「いやあ…………あまりに馬鹿らしい質問をされたんでな、つい」
「あ、本当に馬鹿だと思ってたんだ」
ちょっとだけ傷ついた僕がいた。
ナイーブなのだ、僕は。これでも。
「でもその感覚は思春期独特のもんだろうなぁ…………。ああ、俺にもあったっけか、そんな時代が。男と女が一緒に居れば大抵、付き合ってるに決まっているだろう、とか何だったら突き合ってると思っていたそんな時が」
「あんまり直接的な下ネタは辞めてくれませんかね」
「冗句だよ、冗句。お前、思春期の男の癖してこういう話題苦手だよな。もっと学べってんだ。お前くらいの時分だったら火遊び幾らしたって正直、取り返せるもんだよ」
「………………………………」
酔っているなぁ……。
僕は頭に手を当てながらも、こいつが吐いて倒れたら絶対介抱してやんねーと誓った。
「椛。お前、何で俺と真紀がよく一緒に居るか本当に分からないのか?」
「…………気が合うからでしょう?」
「……うーん、まあ当たらずとも遠からず、だな。でもそれが一番の理由じゃない」
「どういう事ですか?」
「一番の理由はお互いに都合が良いからだよ。それ以外に理由なんてねえ」
「……すっげえ端的な物言いですね」
僕は冷めたような言い草に、相田さんは尚もにやにやと笑い続けている。そして煙草に火を点けて吸った。部屋に雲が広がる。だが、直ぐにベランダから外に飛び出し夜闇に吸い込まれていった。
その時に空が目に入る。曇りだ。月明かりも星の煌めきも見えない、只々真っ暗な空。
だが、それでも僕の視線は惹きこまれた。そして何故だか落ち着いていく。
「俺と真紀ってさ、半引き籠りじゃん?」
「僕がいる所為で更に加速したみたいですけれどね」
相田さんと黒川さんは基本的な買い出しは全て僕に任せるので、ここ最近外に出る機会がめっきり減ったらしい。
本当に大人として些か以上の疑問が残る方々だ。反面教師には丁度良い。
「だからすっげえコミュニティが狭いんだよ。外に出ないとさ、どんどんどんどん自分の世界が狭まっていくの。次第に友達なんかも減ってくる。だから俺は真紀ぐらいしか一緒に酒を呑む奴がいねえし、真紀も俺ぐらいしか酒を呑む奴がいない」
「何、その悲しい事実」
胸が張り裂けそうである。
「それで酒を一緒に呑んだら呑んだで愚痴ばっか言い合ってさ。俺だったら絵の悪評がどうのとか、あいつだったら担当の見る目が無いとか、いっつもそんな感じ。お前の言うようなピロートークなんて想像すら出来ないよ。それに喧嘩ばっかりだ」
「喧嘩する程仲が良いって奴じゃあ……」
「ばーか。ありゃ嘘だ。喧嘩は仲が悪いからすんだよ」
「さいですか」
「覚えとけよ、椛。友達や恋人なんて全部がぜーんぶ、ただの言葉だ。社会に出ると友達や恋人ってのは総じてビジネスライクな関係か、それともお互いに都合が良いだけのギブ&テイクになる。お前らの言うような綺麗な友情や愛情なんて絶対にありえねーのよ」
「…………あんたらは僕の夢や理想を悉くへし折っていきますよね」
僕はピーターパン症候群への道に線路を作って特急電車を走らせているらしい。
「でもな、椛。それは案外、悪い事じゃあねえのよ。大人になったら、そういうもんは所詮そんなもんだと分かる。その上で友情やら愛情やらを築いていく。お互いに差し出せるもんが無くなったら離れていく。それで良いじゃないか。正直、その方がお前らの言う友達関係やら恋人関係よりもよっぽど楽だぜ?」
「……そういうもんですかね」
「そういうもんなのよ。……あ、椛。お前が酒を呑んでくれるなら、俺は一々真紀となんざ呑んでやる必要はねえんだよ。だから椛、今すぐこの日本酒を一気飲みしろ」
「殺す気かよ」
一気コール、駄目、ゼッタイ。
「お前なんて特にその傾向が強えよ。内向的な性格である奴ほど、そういう関係性を望むようになる。引き籠りって奴は臆病だからな。得が無ければ自分を曝け出せないのよ」
「折角、引き籠りを克服した奴に何言いやがる」
「…………椛。引き籠りは人種じゃないぜ、人格だ。その辺を間違えていると、後で後悔する事になるぞ」
「相田さんみたいな大人になる事こそが僕にとっての後悔です」
「酷え事言いやがるな!」
相田さんは「畜生!」と叫びつつ、瓶から直接日本酒を喉に流し込む。
すげーな、あんた。黒川さんよりもあんたの方こそ僕は早死にすると思うよ。
大酒喰らいにヘビースモーカー。肝臓と腎臓、肺と身体に負担を掛ける要素てんこもりの不健康ちゃんぽん状態だ。椅子の上の剣に全く気付かない様は途轍もなくシュールである。
「講釈ついでにもう一つ、訊いても良いですか?」
「おう。何でもお兄さんに聞きたまえ」
「相田さんと黒川さんと奈々子叔母さん、そして詩菜菫との関係性についてです」
途端、相田さんの顔が真水でもぶっ掛けられたように濁る。
酒で火照った熱が夜の空気に溶け込んでいくようだった。
「…………そりゃあ、まあ、そうだな……」
「言い辛いんでしたら……」
「……いや。お前はある程度、知っても悪い事は無いだろう」
相田さんの口がゆっくりと開いた。僕はそれを黙って待っていた。
「とは言え……そこまで大した事でも無いんだけどな。まず菫、あいつは奈々子のその……養子、って奴だ」
「…………養子、ですか?」
僕は言葉を噛みしめるようにして反芻する。
そんな話、奈々子叔母さんどころか母親からも聞いた事が無かった。
それは話題にすら上がらない程、周知の事実かも知れない。
ただ、僕にはそれが話題にすら上げられない程、傷の深い話に思えた。
そんな想像をしてしまうぐらいには相田さんの顔には陰りが差していたのだ。
「……どういう経緯で養子になったか、ってのは訊かない方が良いんですかね?」
「んー……まあ色々だ。一々、知る必要は無いかも知れないな。少なくとも俺が軽い気持ちで話して良いようなものでは無いと思う」
「そうですか」
僕は端的な口調で答えた。
知る必要が無いと言うからにはそうなのだろう。好奇心を満たす為に藪蛇へと突っ込むのは愚か者のする事だ。そうなるくらいなら僕は無知でいたいと、そう思う。
「そんで五年くらい前かな……。菫が奈々子叔母さんに連れられて、このアパートにやって来た。それからはずーっとあの部屋から出ていない、筋金入りの引き籠りさ。そんで今でこそ、飯の用意はお前がやっているけれど、最初の一年間くらいは俺と真紀の交代制でやっていた。二年以降は奈々子叔母さんが仕事の合間にやって来ては世話をしていた。そんで今はお前の仕事になった。そんだけの事だな」
「……………………………………」
――――――だから。
だから菫はあんなにも相田さんと黒川さんに会いたがっていたのか。
一年も世話を、しかも今の僕みたいにでは無く、もっと和気藹々とした仲だったのだろう。相田さんの郷愁の帯びた瞳は綺麗な色合いをしていたから何となく察しがつく。
……でも、もしもそうだとすれば僕は俄然、疑問を持たずには居られなかった。
何故、黒川さんも相田さんも詩菜菫に会いに行かないのだろうか。
お互いがお互いにまるで腫物にでも触るようにして、触れる事を拒んでいるように感じられた。それはお互いが嫌っているからでは勿論、無い。
お互いを気に掛けているからこそ――――相田さんも黒川さんも詩菜菫の世界へと足を踏み入れないように思えた。
「……会いに行って、あげないんですか?」
僕はとうとう口にしてしまった。藪蛇だと分かっていたいても、尚。
触れたら壊れて、熱を膿む。そんな火にくべられたガラス細工以上に繊細な話題だと知っていた。でも訊かずには居られなかった。
だって菫の声は寂寞を覚えたカンガルーの赤ちゃんの鳴き声にみたいに、あの十畳一間の空間を埋め尽くしていたから。
だからそれに触れた僕は、この話題に触れられずには居られなかったのだ。
「……会いに、なァ」
相田さんはそんな選択肢なんて元々、存在しないとばかりに力無い表情を見せた。
「……悪いが、それは無理だ。出来ない」
「どうしてですか? 詩菜菫も二人の事を気にしていたみたいでしたよ。それに相田さんだって黒川さんだって本当は――――」
「――――無理なんだ」
それははっきりとした拒絶の言葉だった。
何物も寄せ付けない、鋼によって固められた意志の強い、拒絶の言葉。
「真紀と俺の二人はな、椛。最初の一年間で失敗したんだ」
「失敗?」
僕の声はふわふわと空気中に浮かんだ後、空中で消えてしまったように思えた。
この言葉が相田さんに届いたのかどうか、僕には分からなかった。
でも相田さんは言葉を続ける。
「俺達は失敗した。下手に踏み込んで、お互いに傷つけ合って、そしてもう触れ合えるような距離には近づかない方が良いと分かった。俺達は互いに自分の世界だけを守っていた方が良いと分かったんだ。それから俺と真紀の二人は半引き籠りみたいになって、自身の世界を傷つけないようにして、菫はもう完全な引き籠りになって自分の世界を十畳一間へと小さく変えてしまった。それがきっと一番良いと信じてな」
「…………そんな事、ある筈が無いじゃないですか」
僕は思わず反論した。そんな希望だけを先行させた妄言を素直に信じるなんて馬鹿げている。
触れ合う事が出来ない? そんな事は無い。
自分の世界は意志一つで広げられるじゃないか。
僕は元、重度の引き籠りだ。でもあの阿呆みたいな重苦しくて狭い世界を抜け出して、今ここに居る。だから出来ないなんて事は無いのだ。
「椛。引き籠りにとってな、自分の部屋ってのはそれが全てなんだ。外の世界に触れる方法は一つだけ。その世界に他人が触れるしか無い。俺も真紀も、そして菫も自分の世界を守りきるだけで精一杯なんだ。だから他人の世界に触れる事は出来ない」
「そんなのは…………詭弁ですよ」
「そうだ詭弁だ。そしてそれが全てなんだ。俺達引き籠りは自分で作り上げた妄想の中で生きているんだから」
相田さんの目は先程までとは打って変わった光彩の無い瞳をしていた。
希望を沼の底深くに仕舞ってしまったような、そんな瞳。
「だから椛、お前が俺達の代わりに届けてやってくれよ。菫に――外の世界に触れさせてやってくれ。あいつが寂しくないように、指先だけでもあの十畳一間から出してやってくれ。お前は失敗しないよ、多分な」
僕は――――頷かなかった。
頷いて、受け入れてしまえば――認めた事になる。
希望だけを先行させた妄言――――体の良い言い訳をその通りだと認めたくなかった僕は決して頷かなかった。
あんた達は間違っている――――そう吐き捨てたかった。
でも言わなかった。言ってしまえば何か取り返しのつかない事になるんじゃないかと、そう思えたから。
何も言わない僕を相田さんは只々見つめていた。その目には虚空が泳いでいた。




