第十五話
「…………なあ。晩御飯持ってきたよ。今日の晩飯はなんと鳥つくねのみぞれスープだ。鳥挽肉をベースにして大根、長ネギを入れて各調味料で調整した、僕的には自信作のスープだ。身体の温まる優しい味のスープなんだぜ? お前もそろそろ空腹は限界だろう? 食べてみろって。ほら。本当のところ、僕が一気に掻っ込みたい衝動を抑えてるぐらいなんだぜ? それを今回は特別にお前にご提供って訳だ。洒落てんだろう? みぞれスープなんてレシピ見るまで一体何の事か分からなかったぐらいだけれどな。今はインターネットを見れば何だって作れちまう時代だ。このスープもちょちょいとレシピを調べれば、後は僕でも作れちまうくらいのもんだ。どうだ? そろそろ食べたくなってきた――――」
「うるさい。あっちへいってくれ」
…………………………………………。
僕はトレイに載った食器類を遮光カーテンの奥にぶちまけたい衝動をぎりぎりの所で抑える。こめかみがピクンと動く。視界に赤みが差している気がして、それは気の所為だと数秒経ってからようやく気付いた。
ヤバい。ヤヴァい。開始一分でTKOされるところだった。夜、201号室に作った晩御飯を持って訪れている僕の頬に冷や汗が垂れる中、一息吐く。
だが今日の僕は一味違う。何があっても怒らず話掛けるという決意を持ってここに来ているのだ。滝に打たれての精神修行(水のみのシャワーを二十分弱。春と言ってもまだ冷えているこの時期は水だけシャワーなんて拷問に近い)も一通り行ってきた。簡単に折れるような決意で詩菜菫に相対しには来ていないのだ。
「今回は簡単には屈してやんねーよ。だって僕はお前と話をしに来たんだ。こちとら毎日毎日食材と手間を無駄にしてまでお前に時間使ってやってんだ。それぐらいの権利はあるだろう」
「…………ぼくはそんなの頼んでないよ。いいから出てって、今すぐに」
遮光カーテンを超えて川底よりも冷たい声が僕へと向かってくる。相も変わらず、愛想の欠片も無い態度。どうして我慢出来るのか不思議なくらいだ。
だが僕は思い止まる。そして鋭利なナイフの如き言葉を早口で突き付けた。
「僕は奈々子叔母さんにお前の事を頼まれているんだよ。そしてお前はそれを了承した筈だ。つまりそれはお前が僕に頼んだのも同然だ。晩御飯を食べないのは許せないけど……まあ見逃すくらいはしよう。でも話まで拒否されるのは納得がいかないな」
「ぼくは君と話をする気なんて更々無い」
「お前に無くてもこっちにはあるんだよ。……良いよ。お前が返してくれなくともこっちが勝手に話続けるから」
「…………勝手にしなよ」
そう言ったきり詩菜菫は返事を返さなくなった。まあ、これくらいは想定の範囲内だ。遮光カーテンがあるのも僕にとってはそれなりに好都合だった。
だって遮光カーテンの奥にあるだろう、触れれば切れる程の視線を浴びなくても済むのだから。独り言を永遠と一人で繰り返しているようなものだ。それはそれでそこはかとない空しさを感じるが、それでも冷たい晩御飯を突き付けられるだけだった昨日よりはずっと良い。何かをやっているような、そんな気分になる。
それは幻想でしか無いのかも知れない。何の意味も無い場所に穴を掘り、そしてその穴を埋めるかのような空しい作業。
――――ただ僕は少しだけ懐かしさを覚えていた。無為に時間を使う感覚。僕はその昔、朝起きれば次やる事は夜寝る事だけという究極的に意味の無い反復作業を一年間休む事無く行っていたのだ。
言っちゃあ何だが、僕は無為に時間を使う事に慣れている。これが自分の心臓を傷つけるような真似で無いだけまだマシだ。世の中には価値が無いならまだしもそれに加えて自傷行為を行ってしまう人種がいるのだから。
それを思えば独り言を喋るくらい何の苦でも無い。
「――――――だからこの白峰館に入居してから数日間は僕にとって悪臭と腐った生ゴミと、そしてゴキブリ達との壮絶な戦いだったよ。背中にうぞうぞという感覚がした時は正直、漏らすと思ったね。そしてそれからは相田さんを呪い殺す為の文言を口にしながら、気が変になりそうながらもゴキブリ達を全身で殺していく作業に移っていった。多分、あの時の僕を見れば死神も裸足で逃げ出すくらいには殺気だっていたとそう思うよ。ほーんと人使いが荒いんだ、ここの住人は。今日だってそうだ。いきなり相田さんが画材を買ってきてくれとか言い出すし、黒川さんは小説のネタに使う為の写真を撮りに行けだので、僕のプライベートな時間は一体何処にあるんだっての。一体――――」
「――――――元気?」
空しい独り言を始めて一時間にもなるだろうか、唐突に遮光カーテンの向こう側から言葉が返ってきた。
「…………は?」
僕はいきなり話が遮られたので脳内処理が追い付かずにフリーズする。
詩菜菫は暫く無言だったがやがて言葉を発した。
「――――――二人は、その……元気かい?」
「二人? ああ、相田さんと黒川さんの事か。そうだな…………僕の事を顎で使うくらいには二人共元気だ。もう少し程度ってもんを知れって思うけどな」
「――――そうかい」
詩菜菫の息遣いが聞こえてきた。埃っぽい部屋の空気が少しだけ弛緩する。
僕は何となく分かった。詩菜菫はずっと長い間、二人の事を気に掛けていたのだ。
でも近況を知らせてくれるものは何も無かった。……いや違う。僕が来るまで時折、奈々子叔母さんが詩菜菫の様子を見に来ていたらしい。もしかしたら叔母さんが話してくれて――――いや、多分違う。
詩菜菫は訊けなかったのだ。今までずっと。二人の事を訊きたくても訊きたくても我慢してきた。何故我慢したのか。そんな事は訊かずとも分かる。
それくらいは僕にだって分かる。僕だって伊達に引き籠りであった訳じゃないから。
彼女はそれを訊く事すら迷惑に当たるんじゃないか、そう恐れたんだ。だって「そんなに心配なら自分で外に出て確かめれば良い」って言われればそれまでだから。そんな風に自分を否定されるのが怖かったんだ。
引き籠りってのは追い詰められた獣みたいに傷ついていて、傷つき易くて、攻撃的で、そして簡単に死んでしまいそうなぐらい弱った目をしている。訊けばそれで解決する事を躊躇ってしまうぐらいには臆病なんだ。
だから彼女は僕に訊いた。これ以上無いタイミングで。本当は返事なんて一言さえ返したくなかった状況で僕に訊いてしまった。
その行動は彼女のプライドを傷つけ、元々あった傷を更に抉ってしまったのかも知れないけれど、それを分かっていて尚、彼女は自分を止められなかったのだ。
――――――――――まあ。
そこまで手に取るように分かって尚、僕は大変性格が宜しくない方向に捻じ曲がっている最底辺足る人間なので、ここで得た彼女の弱みをつけ込まずには居られなかった。
僕はこの201号室で始めて心からの笑顔を浮かべた。
その笑顔はとても人様に見せられるような表情では無かっただろう。
ハイエナが死にかけの獲物を見つけた時みたいな意地の悪い笑顔。
そんな笑顔を遮光カーテンの奥にいるだろう詩菜菫に向かって思い切りぶつけてみた。
弱った獲物の血の匂いを感じ取った――――――――気がした。
「なあ、詩菜菫」
「………………………………」
「そんなに二人の事が心配?」
「――――――――――――ッ!!」
生唾を飲み込む音がこちらにも届く。僕は確かな手応えを感じつつ、尚続けた。
「相田さんと黒川さんの事が心配? 様子をもっと聞きたい? 二人の話、もっと聞かせて欲しいのかい? 僕が知る限りに置いて五年、下手すりゃもっと多くの時間を一緒のアパートで過ごしてるんだもんな。それにこの白峰館は僕が言うのも何だけど、少し特殊だし、二人とは少なからず交流を持っているんだろう? 今はそう多くは会ってないみたいだけど。なんなら下に行けばいつでも会えるのになー。その辺は引き籠りだけあって出来ないかー。勿体無いなー。あ、そうだ。詩菜菫、僕があの二人にここに来るよう頼んでやろうか? 多分、普段の僕の行いを交渉材料にすれば容易に来てくれると思うぜ?」
「そ、そんなの要らないよッ!」
僕は普段の何倍もトーンが外れた詩菜菫の焦った声を聞いて更に意地の悪い笑みを見せた。これはあれだ。素直じゃない子供が照れ隠しに見せる一種の防衛反応。ここでようやく引き籠り歴五年の醜態を現したようである。人間関係に慣れてないド素人めッ。僕も人間関係に置いては素人甚だしいが、少なくともお前よりは慣れているぞ、詩菜菫。
くくく…………、僕は嬉しくてつい喉を鳴らしてしまった。ようやく十日間溜まりに溜まったこいつへの鬱憤を返す時が来た。この僅かな隙、されど大きなドデカい穴にしこたま弾丸を詰め込んでやる………………ッ!
「嘘を吐かないでも良い。詩菜菫。お前の喜ぶ顔が遮光カーテンを透けて見えているぞ!」
「透けている!? そんな馬鹿な! これは太陽光ですら殆ど通さない遮断性一級のカーテンだぞ! ぼくのにやけ顔なんてそっちに見える筈が…………ハッ!」
「そうだ、僕にはお前の顔なんて少しも見えていない……。だが馬脚を現したな。僕からはお前の言葉を通して間抜け面が筒抜けだ」
詩菜菫の間抜け面どころか普段の表情すら知らない、という突っ込みはさて置き、僕はちょっとずつちょっとずつ獲物をなぶる。
ここで簡単に止めを刺してしまえば、それだけ面白味が減ってしまうのだ。だからゆっくりと舌の上で転がすが如く獲物の味を堪能する。
それが通(?)ってもんだろう!
「なあ、詩菜菫。僕はお前の出来ない事が出来てしまう。二人をこの場に呼び寄せるなんて事は朝飯前だ」
「…………ほ、本当に二人を呼んでくれるのかい?」
殺った! ここまで言葉を引き出せれば十分だ。僕は舌なめずりをした。
「問題無い。でも詩菜菫、その前にお前はやらなくてはいけない事があるんじゃないか?」
「……やらなくてはいけない事?」
「誠意を見せろ、詩菜菫。作った晩飯を蔑ろにされ、オマケに僕が受けた精神的苦痛は最早謝ったくらいでは癒されない。本当のところなら裸で土下座、ついでに足を舐めるくらいの事をしても罰は当たらないと思うが…………さりとて、僕は鬼じゃない。誠心誠意を込めた土下座を見せてくれれば許してやろう。そして言うんだ。『今まで迷惑掛けてごめんなさい、櫻井椛様。ぼくは貴方様にとんでもない事をしてしまいました。本当なら土下座くらいで赦して貰えるとは到底思えませんが、椛様のその海よりも深い寛大な御心で以てぼくの数々の失礼をお赦し下さい』――――とな。それで僕はお前の喜ぶ事をしてやろう」
「――ふ」
「……ふ? 聞こえないなァ? もっと大きな声で僕に聞こえるようゆっくりと言ってくれよ。あとカーテンを開けて、その醜態も醜く晒せよ? なあに、カメラに取るなんて野暮な真似は一切しない。僕の心に留めておくだけだからさ」
「――ふざけるなよ、死に腐れ! この屑野郎!」
カーテンを開けて僕に届けられたのは謝罪の言葉などでは勿論無く、目覚まし時計やお菓子の空箱、辞書などだった。カーテンの隙間から手だけを見せて放り投げるそれらを僕は見事、顔面にてキャッチして醜くも意地の悪い笑顔をそれはそれで醜い泣き顔へと変貌させた。
手負いの獣を追いつめすぎると碌な事にはならない――――僕は今日この日、顔にめり込んだ辞書による痛みと共にそんな教訓を覚えたのだった。




