第55話 和泉の世界・友人
気がつくと、俺は暗い空間の中に立っていた。
「ここは、どこだ?」
確か夢幻界に俺はいたはずだ。
だが、ここは夢幻界特有の薄紅色の空じゃない。
もっと黒く、どろどろした世界だ。
何かねっとりとした情念が渦巻いているような。
アメーバのようなグニャリとした物体が空間を流れていく。
あれに触れたらまずいと感覚が伝わってくる。
どす黒い感情のかたまりか、と俺は本能で理解した。
迂闊に触れたら、そのまま感情に飲み込まれて自我を失う。
俺はあわてて避けた。
黒い粘液が俺のそばを通り過ぎる。
(欲しい、欲しい、欲しい)
飛沫が触れるだけで、俺の心の中が欲求に満たされた。
「ちょっとこれはヤバい」
俺はあわてて雫を振り払った。
「これって欲望の液体か。触ったら大変だ」
飲み込まれたらそのまま虜になってしまいそうだ。
俺は周りを見回した。
暗い世界の先に光が見えた。
あれってひょっとしたら、意志の光か?
俺は粘液を避けながら、光を目指した。
俺が近づくにつれ、光は大きくなった。
まぶしさに手で目を覆いながら、一歩一歩近寄る。
ついに光の源にたどり着いた俺は、そこに手を伸ばした。
その瞬間、俺の体は中に吸い込まれていった。
光が収まると、そこには球形の空間が広がっていた。
世界から鼓動が伝わってくる。
暖かい。
さっきまでの世界と違って、ここには周りを包み込むような感覚が伝わってくる。
まるで誰かに抱かれているような。
「そうか、ここが和泉の心の中か」
俺は直感でそれがわかった。
そう思ったうえで改めて周りを見ると、ここには無数の光が瞬いていた。
その一つに俺は手を伸ばした。
光の点に触れると、大きく広がって中が見えた。
そこにはまだ小学生ぐらいの和泉が、迷子になって泣いていた。
別な光に触れてみる。
そこには中学生の制服を着た和泉が、桜の木の下で写真撮影に応じていた。
「光の一つ一つが和泉の思い出の欠片なのか・・・・・・」
中には消えかけているものもあった。
あまりにも古い思い出はそのまま光を失い消えていくのだろう。
最近のものと思われる明るい光もあった。
俺は思わず手を伸ばした。
中には和泉がカプリース号で俺や日向と話をしている光景が映った。
メグを抱き上げているそばで、都リーダーや信濃の姿もあった。
その中の和泉は笑っていた。
今となってはもう二度と戻ることのない過去の思い出だった。
これは感傷を振り払うと、思い出を閉じた。
この無数の思い出の中で、和泉を救うことのできるきっかけになるものはどれになるのだろう?
俺は光を観察した。
この光が過去の記憶だとすれば、古くても強い光を放っているものは、未だにより深い影響を与えていると予想される。
それこそが過去のトラウマであり、和泉の心に影響を与えているかもしれない。
そう考えた俺は、その条件に当てはまる記憶を調べた。
その中で特に目立ったのが二つあった。
一つは高校生の時のものだ。
もう一つには家が写っていた。
「どうやら高校生の時の方が光が穏やかだな」
取りあえず最初はこっちを先に見てみる方がいいだろう。
俺は光に触れた。光が大きく広がり俺を飲み込んでいった。
気がつくと、俺は高校の正門前に立っていた。
「ここが和泉の行っていた高校か」
生徒たちが俺の側を通り過ぎていく。
女子の鞄が俺の左腕に当たったが、相手の子は俺に気付かなかった。
俺の方も鞄が当たった感覚がない。
「ここでは俺は透明人間か」
どうやら意識しないことには、相手には俺の存在が分からないらしい。
俺は取りあえず安心して和泉を探した。
教室を見て回る。
だが、すべてのクラスに生徒がいるわけではなかった。
ほとんどのクラスには生徒はいなかった。
正確に言えば、和泉が知っている人しか、はっきりとイメージできていなかった。
だから、ほとんどのクラスには顔のはっきりしない生徒たちが授業を受けている光景しか見えなかったのだ。
「どうやら自分のいたクラスぐらいしか認識してないようだな」
まあ、そうだろう。
俺も他のクラスの生徒は顔を知っている人ぐらいしかイメージできないし。
その中でも1-Cクラスが全員はっきりと顔が写っている。
「どうやら、ここか」
俺はクラス内に潜入した。
中を見るが、和泉はいない。
詳しく覗いてみたが、どこにも和泉の姿は見えなかった。
「どっか外に行っているのかな?」
俺はクラスの窓から外を見た。
校庭と体育館が見えた。その隣に別館があり、そこに通じる渡り廊下がある。
「あっちかな?」
俺はクラスを出て別館の方へ向かった。
渡り廊下を通ると、視聴覚室、音楽室、家庭科室などがあり、その中に保健室があった。
俺はなにげなく保健室のドアを開けてみた。
「いた!」
ベッドに和泉が赤い顔で横になっていた。
その傍らに一人の女の子が見守っている。
「瑞穂ちゃん、どう、大丈夫?」
「うん、ありがとう、まさみん」
『瑞穂』って、確か和泉の下の名前だったっけな。
俺は初めての自己紹介の時、そう言ってたことを思い出した。
和泉の側にいる子、どこかで見たことがあったような。
俺は首をひねった。
何か聞いたことある名前なんだよな。
どこだったっけな。
俺はしばらく記憶をほじくり返してようやく思い出した。
「あっ、愛ちゃんを連れて行って、和泉と会った病院か!」
確か、俺が介護を手伝った子だった。
あのときの部屋のネームプレートには『近藤昌美』ってあったような。
「じゃあ、あの子はナイトメアハザードに巻き込まれて・・・・・・」
昏睡状態にあるこの子の状態が頭の中に浮かび上がった。
「そうか。和泉の友人だったのか」
道理であの病院で和泉に出会ったわけだ。
あれは偶然じゃなかったんだ。
俺は改めてまじまじと近藤さんを見つめた。
顔は生気にあふれ、病院で眠っているときの姿とは全く違っていた。そばかすがなければ、同一人物だとは思えないほどだ。
「びっくりしたわよ。いつもぽわ~としてる瑞穂が顔を真っ赤にして泣いてるんだもの」
「う、うん」
和泉は少し落ち着いたのか。赤い顔を向けた。
「もう、気が済んだ?」
「・・・わからない」
和泉は鼻をすすりながら、顔を上げた。
「あの、訳聞いた方がいいかな? もし、言いたくないなら言わなくてもいいけど・・・・・・」
近藤さんが控えめに聞いた。
和泉はしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと話し出した。
「私、本当の子じゃないって」
「そうか」
近藤さんは静かにそう言った。
「で、瑞穂はどうなの?」
「え?」
「瑞穂はどうして欲しいの?」
「わ、私は・・・、急に言われても・・・・・・」
「あたしにとっては瑞穂は瑞穂だよ」
「あっ、う、うん」
和泉は黙っていたが、急に笑い出した。
「そ、そうだよね。私は私だよね」
近藤さんはしばらく笑っている和泉を見つめていたが、その体をゆっくりと抱きしめた。
「あたしは瑞穂のこと知っているから、誰かなんて関係ない。瑞穂は瑞穂、それでいいじゃない」
「そうだよね、そうなんだよね」
和泉はそう言ってぽろぽろと涙を流した。
「以前からおかしいとは思ってたんだ。私だけ両親にも兄様にも姉様にも似てなかったし」
「そうか」
そう言って、ただ黙って近藤さんは和泉の背中を軽く叩いていた。
その時だった。
いきなり外が暗くなった。
窓に駆け寄ると、そこは星のない暗闇だった。
周りで火災が起きている。サイレンの音が響き、不気味な地響きが伝わってくる。
俺はこの日のことを知っていた。
ナイトメアハザードの夜だ。
和泉は倒れている近藤さんの手を引いていた。
「起きて、早く」
和泉は近藤さんを揺さぶったが、近藤さんは首を振った。
「ゴメンね。あたし動けないんだ。体が固まったみたいになってる」
「そんな!」
「瑞穂は動けるんだよね。なら、あたしのことはいいから逃げて」
「いや! まさみんも一緒に」
和泉は近藤さんを連れていこうとしたが、動けなかった。
「瑞穂まで巻き込まれちゃうよ。まだ、瑞穂だけなら動けるんでしょ。なら行って」
「そんな! 置いてないんか行けないよ」
「あたしも行きたいんだけどね。なんか、気がうすれて来ちゃったんだ」
そう言うと、近藤さんの体が半透明になっていた。
「なぜなのかわからないけど、瑞穂はあんまり影響ないみたい。きっと何かがあるんだよ。だからお願い」
和泉は黙っていたが、覚悟を決めたのか、立ち上がった。
「ごめんね。いつか必ず助けに来るから」
「うん、待ってるからね」
和泉はそう言うと一目散に走り出していった。
俺は残された近藤さんを見た。
近藤さんも同時に俺の方を向いた。
気づいているのか?
俺は驚いて、うつ伏せになっている近藤さんに聞いた。
「俺のことが見えているのか?」
「今気づいたの。瑞穂がいなくなったからだね」
「これって、和泉の記憶だよな?」
「そうだよ。だから、瑞穂が武蔵君に知ってほしかったのだと思う」
「名前、何で知っているんだ?」
「このあたしは瑞穂が見てたイメージとしてのあたしだから。だから、あたしも瑞穂の一部なの。だけど本当の瑞穂はここにはいない」
「どこにいるのかわかるか?」
「他のイメージの中だと思うよ。きっとかなり強い意識の中に閉じこもって出てこなくなってるんじゃないかな」
「そうか」
「瑞穂のことお願いね。このまま心を閉ざしてたら大変なことになる。だから、助けてあげて」
「ああ、もちろんだ」
俺は親指を上げた。
「よかった」
そう言うと、和泉の中の近藤さんは微笑んだ。
やがて、その姿がどんどん薄れていき、何も見えなくなった。




