城を抜け出す王女②
「違います! 本当に違います!」
リシェルが慌ててぶんぶんと首を振る。手には金貨を握ったまま。
屋台の主人はリシェルと金貨を交互に見て、疑わしそうに目を細める。
「じゃあ、なんでパン一個に金貨なんか出すんだ?」
「それは……」
リシェルの動きが止まる。
手の中の金貨を見る。
屋台に並んだパンを見る。
もう一度、金貨を見る。
少し考え込み、自信なさげに首を傾げる。
「……大きいお金だから?大は小を兼ねると言いますし」
「そういう問題じゃねえんだよ」
主人が額を押さえ、がっくりと頭を垂れる。
「これ一枚で、うちのパン何個買えると思ってる」
「たくさんですかね?」
「ざっくりしすぎだろ」
リシェルが眉尻を下げる。どう答えれば正解なのか、本気で分かっていない様子。
主人はそんなリシェルをしばらく見つめ、深いため息をひとつ。
「はぁ……」
呆れた表情が、少しだけ和らぐ。
「ほら、今日はいいよ」
「え?」
「パン一個くらい。持ってきな」
「でも、お代が」
「そんな大金出される方が困るんだよ」
主人が丸いパンを一つ取り、紙で手早く包む。
紙の擦れる音。「カサ、カサ」
包んだパンをリシェルへ差し出す。
リシェルは差し出されたパンと主人の顔を交互に見て、ぱちぱちと瞬きをする。
「……よろしいのですか?」
「いいってことよ」
「ありがとうございます」
リシェルが金貨をしまい、パンを両手で丁寧に受け取る。
自然と背筋を伸ばし、育ちの良さが滲むきちんとした礼をする。
主人が「ん?」とわずかに首を傾げる。
先ほどまでの世間知らずな様子とは妙にちぐはぐな上品さ。
主人は少し気になった様子を見せるものの、それ以上は尋ねず仕事へ戻る。
リシェルが市場の人波を歩いていく。
少し進んだところで、受け取ったパンを見る。
まだほんのり温かい。
一口かじる。
「サクッ」
リシェルの目がぱっと輝く。
「……おいしい」
もう一度、小さくかじる。
城で食べ慣れた白く柔らかなパンとは違い、少し素朴な焼き色。噛むたびに小麦の香ばしさが広がる。
リシェルが嬉しそうにパンを見つめる。
自分で買おうとした、初めてのパン。
一瞬だけ考え、苦笑する。
正確には買えていない。
それでも、どこか満足そうにパンを胸元へ寄せる。
「こういうのも、悪くありませんわね」
小さく笑う。
「だから、今日中に払えって言ってるだろ!」
少し離れた場所から、荒々しい怒鳴り声。
リシェルの足がぴたりと止まる。
周囲の人々も一瞬だけ声の方を見る。
しかし関わりたくない様子ですぐに顔を背け、そのまま足早に通り過ぎていく。
リシェルだけが、その場に立ち止まる。
先ほどまで浮かべていた楽しげな笑みが、すっと消える。
手にしたパンをそっと下ろし、怒鳴り声の聞こえてきた細い路地へ視線を向けた。
「……何かしら」
もう一度、声が響く。
「だから、今日中に払えって言ってるだろ!」
リシェルの眉がわずかに寄る。
周囲の人々は関わり合いになるのを避けるように通り過ぎていく。
けれど、リシェルの足は逆だった。
迷うことなく、声のする路地へ向かって歩き出す。
路地では十二、三歳ほどの少年が、大柄な男に腕を強く掴まれている。
少年は痩せており、服も擦り切れている。
男は革の上着を着た荒っぽい風貌。腰には短剣。
「離してください!」
少年が必死に腕を振りほどこうとする。
「うるせえ!」
男が掴んだ腕を乱暴に引く。
「グイッ」
少年の体が引っ張られ、よろめく。
「借りたもんは返す。それが当たり前だろうが!」
「でも、院長先生はもう払ったって!」
「証拠があるのか?」
「それは……」
少年の勢いがなくなり、俯く。
男が鼻で笑う。
「フン」
「ねえなら、払ってねえのと同じだ」
その言葉を聞いたリシェルの表情から、先ほどまでの浮かれた様子が完全に消える。
静かに眉を寄せる。
手にしたパンを大切そうに持ったまま、迷いなく路地へ入っていく。
少し離れた建物の屋根。
クロエが歩き出したリシェルを無言で見つめている。
「…………」
やがて、諦めたように静かに目を閉じる。
予想通り、とでも言いたげな反応。
すぐに目を開け、周囲へ視線を巡らせる。
路地にいる荒くれ者は一人。
さらに建物の影と奥の曲がり角に、人影が二つ。
クロエの表情がわずかに引き締まる。
袖の内側へ指を滑らせる。
指先に触れる、細身の投げ針。
いつでも抜ける状態で待機する。
まだ手は出さない。
視線をリシェルへ戻す。
「その手を離してください」
澄んだ声。
男が振り返る。
掴まれている少年もリシェルを見る。
「……あ?」
男が怪訝そうに眉を寄せ、リシェルを睨む。
「なんだ、嬢ちゃん」
「その子、嫌がっているでしょう」
「見りゃ分かるだろ」
「でしたら、手を離してください」
男は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「関係ねえ奴が口出しすんな。さっさと行け」
低い声で脅すように言われても、リシェルは一歩も下がらない。
それどころか、男に掴まれている少年を一度見てから、まっすぐ男の目を見返す。
「関係がなければ、困っている人を見捨ててもいいのですか?」
男の笑みが薄れる。
「なんだと?」
「借金の取り立てだと仰いましたね」
「そうだよ」
「いくらです?」
「銀貨二十枚」
「違う! 銀貨十枚だった!」
少年が即座に声を上げる。
「利子だよ、利子」
「そんなの聞いてない!」
「契約しただろうが」
男が少年の腕をさらに強く引く。
「グッ」
「いたっ……!」
少年が顔を歪める。
リシェルの眉がぴくりと動く。
「契約書は?」
「……は?」
「契約書です。借りた金額、返済額、利子が書かれたもの」
男が一瞬、言葉に詰まる。
「あるに決まってるだろ」
「では、見せてください」
「なんでお前に」
「見せられないのですか?」
「……っ」
男の眉がわずかに動く。
リシェルの視線がその変化を捉える。
「本当に正式な契約なら、見せても困らないはずです」
「てめえ……」
男が少年の腕を離す。
少年が掴まれていた場所を押さえながら数歩離れる。
代わりに男がリシェルへ近づいていく。
「さっきから偉そうに」
一歩。
さらに一歩。
大柄な男が迫っても、リシェルは下がらない。
少し顎を上げ、男を見返す。
「偉そうではありません」
「じゃあなんだ」
「当然のことを申し上げているだけです」
「気に入らねえな」
男がリシェルへ手を伸ばす。
屋根の上。
クロエの指先が投げ針を一本つまむ。
男の手が届く直前、リシェルがすっと横へ動く。
「スッ」
男の手が空を切る。
「なっ――」
リシェルがその手首を掴む。
体をひねり、男の勢いをそのまま利用する。
「えいっ」
掛け声だけは妙に可愛らしい。
男の巨体がぐらりと傾く。
「うおっ!?」
足元を崩され、そのまま地面へ。
「ドサッ!」
「ぐっ!」
リシェルはすぐに男の手首を離れ、数歩離れる。
少年がぽかんと口を開ける。
「す、すげえ……」
リシェルが少しだけ得意そうに胸を張る。
「護身術くらいは心得ています」
屋根の上。
クロエが無言でリシェルを見る。
「…………」
護身術、という言葉に何とも言えない表情。
袖の中の投げ針から指を離す。
「この……!」
男が顔を真っ赤にして起き上がる。
怒りのまま腰の短剣へ手を伸ばす。
クロエの目が鋭くなる。
再び指先に投げ針を挟む。
「やめときな」
路地の入口から、気の抜けた男の声。
全員の視線が向く。
使い古された革鎧をまとった冒険者――レインが立っている。
黒に近い灰色の髪。
腰には、特別高価には見えない剣。
レインは面倒そうに頭を掻く。
男を見る。
少年を見る。
リシェルを見る。
「なんか揉めてるみたいだから」
「関係ねえなら消えろ!」
レインが小さく眉を上げる。
「それ、今日二回目くらいに聞いたな」
「何?」
「いや、こっちの話」
レインの視線が男の腰へ。
短剣を確認すると、わずかに目が細くなる。
「で」
声から少しだけ気の抜けた調子が消える。
「女の子相手に刃物まで出すのか?」
「こいつが先に!」
「投げた?」
「そうだ!」
レインがリシェルを見る。
「本当?」
「少し転んでいただいただけです」
しれっと答えるリシェル。
レインが男へ視線を戻す。
「だそうだ」
「てめえら……!」
男が短剣を抜く。
「チャキッ」
少年が息を呑み、一歩下がる。
リシェルも表情を引き締める。
屋根の上では、クロエが投げ針を指に挟んだまま静止。
今度は男ではなく、レインへ視線を向ける。
レインは短剣を見ても慌てない。
「一応聞くけど」
「なんだ!」
「それ、本当に使う?」
「当たり前だ!」
男が短剣を振り上げ、勢いよく踏み込む。
次の瞬間。
「シュッ」
レインが素早く動く。
「え?」
リシェルの目がわずかに見開く。
レインはすでに男のそばへ入り込み、短剣を持つ手首を押さえている。
男の勢いを崩し、そのまま体勢をひっくり返す。
「うわっ――!」
「ドンッ!」
男が背中から地面へ落ちる。
手を離れた短剣が地面を滑る。
「カラン……」
レインが足先で短剣を遠くへ弾く。
「だから、やめとけって言ったのに」
「ぐ……」
男が身を起こそうとする。
レインが一歩近づく。
それだけで男の動きが止まる。
レインの表情は相変わらず気だるげ。
しかし男の額には汗が浮かぶ。
「……チッ」
男がゆっくり立ち上がる。
「覚えてろよ」
「それもよく聞くな」
「チッ!」
男が逃げるように路地から立ち去る。
それに合わせ、建物の影に潜んでいた二人もそっと離れ始める。
屋根の上のクロエがすぐに気づく。
二人へ視線を移し、投げ針を構える。
そのとき。
レインが何気ない様子で顔を上げる。
クロエのいる屋根へ視線を向ける。
クロエの指が止まる。
「…………」
ほんの一瞬。
互いの視線が重なったような間。
レインは何事もなかったように視線を戻す。
クロエの眉がわずかに動く。
投げ針を握ったまま、レインをじっと見つめる。
「大丈夫か?」
レインが少年へ声をかける。
「う、うん」
「腕、痛む?」
「ちょっとだけ」
リシェルが少年のそばへ寄り、身を低くする。
「見せてください」
「え?」
「腕です」
少年がおずおずと腕を差し出す。
掴まれていたところに赤い跡が残っている。
リシェルが傷の具合を確かめ、ほっと息を吐く。
「よかった。ひどい怪我ではありません」
「ありがとう、姉ちゃん」
「どういたしまして」
リシェルが柔らかく微笑む。
少し離れた場所で、レインが地面に落ちている紙に気づく。
男が落としていったもの。
拾い上げ、紙面を見る。
「……これ」
紙には『ガルド商会』の文字。
借金額。
返済期日。
そして――
『孤児院敷地担保』
レインの気の抜けた表情が、ほんの少しだけ変わる。
「孤児院?」
少年の肩がびくっと揺れる。
リシェルもレインのそばへ行き、紙を覗き込む。
「あなた、孤児院の子なのですか?」
「うん」
少年が小さく頷く。
「南区の、古い教会の横にあるところ」
「この借金は?」
少年が悔しそうに唇を噛む。
「院長先生が、もう全部返したって言ってる」
リシェルが紙へ視線を戻す。
「でも、ここには未払いと」
「嘘だよ!」
少年が強く言い返す。
「ちゃんと返した! 俺も見たんだ!」
レインが少年を見る。
「何を?」
「院長先生が、お金渡してるところ」
「誰に?」
「ガルド商会の人」
リシェルの表情が引き締まる。
「返済証明は?」
少年が俯く。
「……なくしたって」
「誰が?」
「院長先生」
「本当に?」
「分かんない……」
少年が自分の服をぎゅっと握る。
「でも、最近ずっと変なんだ」
「変?」
レインが尋ねる。
少年は路地の外を気にするように見回し、声を落とす。
「商会の人たちが、何回も来てる」
「何をしに?」
「土地を渡せって」
リシェルとレインが同時に紙へ目を落とす。
『孤児院敷地担保』
一瞬、誰も口を開かない。
「三日後までに払えなかったら、孤児院を出ていけって」
リシェルが勢いよく顔を上げる。
「三日後?」
「うん」
「そんな……」
リシェルの手がぎゅっと拳を作る。
レインは紙を見たまま。
表情は大きく変わらない。
ただ、目だけが静かに鋭くなる。
「ガルド商会、ね」
「そういえば」
リシェルがレインを見る。
「あなた、どなたです?」
レインも顔を上げる。
「それ、今聞く?」
「今聞きます」
「助けたあとで?」
「助けていただいたことと、正体が分からないことは別問題です」
「面倒だな」
「何ですって?」
少年が二人をきょろきょろと見比べる。
屋根の上のクロエも、レインから視線を外さない。
レインが頭を掻く。
「レイン」
「レイン?」
「冒険者」
リシェルがレインを上から下までじっと見る。
使い込まれた革鎧。
安物に見える剣。
気の抜けた態度。
そして、先ほど一瞬で男を制圧した動き。
「……普通の?」
「普通の」
即答。
リシェルの目が疑わしそうに細くなる。
「そうは見えませんけれど」
「よく言われる」
「本当です?」
「たぶん」
「たぶん?」
「細かいこと気にすると疲れるぞ」
「あなたが雑すぎるのです」
レインが肩をすくめる。
「で」
今度はレインがリシェルを見る。
「そっちは?」
「わたくしは――」
リシェルの口が止まる。
「…………」
目がわずかに泳ぐ。
屋根の上。
クロエの表情が固まる。
嫌な予感を覚えた様子。
リシェルが少し考えてから、堂々と言う。
「リシェです」
クロエが静かに目を閉じる。
「…………」
本名リシェル。
偽名リシェ。
あまりにも近い。
レインが首を傾げる。
「リシェ?」
「はい」
「本名?」
「もちろんです」
「一瞬考えたよな」
「考えてません」
「目、泳いでたけど」
「泳いでません!」
少年が思わず「くすっ」と笑う。
リシェルが少し赤くなり、誤魔化すように咳払い。
「コホン」
「と、とにかく!」
リシェルがレインの持つ紙を指さす。
「孤児院へ行きます」
「今から?」
「当然です」
レインが露骨に面倒そうな顔をする。
「関わる気満々だな」
「困っている人がいるのでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「でしたら行きます」
「俺が行くとは言ってない」
リシェルの動きがぴたりと止まる。
レインを見る。
「行かないのですか?」
「俺?」
「はい」
「なんで?」
「なんでって……」
リシェルが一瞬、本気で言葉を失う。
頬を少し膨らませ、不満そうな顔。
「目の前で困っている子がいるではありませんか」
レインが少年を見る。
少年は不安そうに二人を見ている。
短い沈黙。
「……はあ」
レインが諦めたようにため息をつき、頭を掻く。
「分かったよ」
リシェルの顔がぱっと明るくなる。
「では!」
「ただし」
「?」
「勝手なことするなよ」
リシェルが目を丸くする。
すぐにむっとした表情。
「それはこちらの台詞です」
「いや、どう見てもお前の方が危なっかしい」
「先ほど転がされたのは、わたくしではありません」
「でも刃物出されたろ」
「対処できました」
「俺が来たけどな」
「来なくても平気でした!」
「へえ」
「来なくても平気でした!」
「へえ」
「なんです、その反応は」
「いや、無事だったなら何よりだ」
「まるで信じていませんわね?」
「信じてる信じてる」
「では、こちらを見て言ってください!」
レインはそっと目を逸らした。
「今日は本当いい天気だな」
「誤魔化さないでください!」
少年がとうとう声を出して笑う。
「ははっ」
先ほどまで強張っていた少年の表情に、ようやく年相応の明るさが戻る。
その笑い声を聞き、レインの口元もほんの少し緩む。
「案内してくれるか?」
少年へ声をかける。
「うん!」
少年が力強く頷く。
少年を先頭に、リシェルとレインも路地を出ていく。
リシェルの手には、先ほどもらったパンがまだ大事そうに残っている。
少し遅れて、屋根の上のクロエも動き出す。
「スッ……」
足音を立てず、三人から一定の距離を保って追う。
だが、クロエが見つめているのはリシェルではない。
レインの背中。
先ほど自分のいた場所へ向けられた、ほんの一瞬の視線を思い返すように目を細める。
「……レイン」
小さく呟く。
「普通の冒険者の動き、、、ですか」
レインの背中を見つめるクロエの表情から、いつもの冷静さは消えていない。
ただ、その目には明確な警戒が宿っている。
三人を追い、クロエも静かにその場を離れていく。




