城を抜け出す王女①
王城の早朝。
城下町がまだ完全には目覚めていない時間から、厨房ではかまどに火が入り、鍋から湯気が立ち始めている。使用人たちが洗濯物や食器を抱えて廊下を行き交い、夜勤を終えた騎士と朝番の騎士が持ち場を交代している。
「カン、カン」と厨房から包丁の音。「コツ、コツ」と廊下を行き交う足音。城全体が静かな朝の中で少しずつ動き出している。
第二王女リシェルの自室。
机いっぱいに報告書が広げられている。
リシェルは椅子に背筋を伸ばして座り、書類へ目を落としている。淡い金色の髪に朝日が当たり、薄青の瞳は真剣そのもの。
整った顔立ちと品のある佇まいは、どこから見ても王女らしい。
ただし、眉間にはしっかり皺が寄っている。
「…………」
一枚めくる。
パラ。
『王都南区の治安状況――良好』
さらに一枚。
パラ。
『市場周辺における商取引――おおむね順調』
もう一枚。
パラ。
『貧困層への支援状況――重大な問題なし』
紙をめくるたび、リシェルの眉間の皺が少しずつ深くなる。
「……おおむね順調ね」
その呟きを聞き、部屋の端に控えていたクロエが視線だけをリシェルへ向ける。
黒髪をきっちりとまとめ、背筋を伸ばして静かに立っている。表情にはほとんど変化がない。
「どうかなさいましたか、殿下」
「クロエ」
「はい」
リシェルは『おおむね順調』と書かれた部分を指先で示す。
「『おおむね順調』とは、どの程度順調なのです?」
クロエがわずかに間を置く。
「少なくとも、大きな問題は起きていない、という意味かと」
「では、小さな問題は起きているのですね?」
「……そうなります」
しれっと答えるクロエ。
リシェルは書類を机へ置く。
パサ。
「こちらには『重大な問題なし』とも書かれています」
「はい」
「それも、大きな問題はないという意味ですか?」
「その認識でよろしいかと」
リシェルは少し考えてから、クロエを見る。
「では、大きくない問題は?」
「当然、あるでしょうね」
「困っている人も?」
「……いるでしょうね」
「では、その人たちは誰が助けているのです?」
「…………」
クロエの返事が止まる。
リシェルは机に並んだ報告書へ視線を落とした。
「『大きな問題ではない』というのは、お城から見た話でしょう?」
静かだが、はっきりとした声だった。
「その人自身にとっても、小さな問題だとは限りませんわ」
リシェルはじっとクロエを見る。
クロエもリシェルを見返すが、答えは出てこない。
短い沈黙。
机の上には、王都の各機関から届いた報告書が積み上がっている。
役人、騎士団、教会、冒険者ギルド。
困窮者を支える仕組みについて記された書類は確かに存在している。
リシェルは椅子の背もたれから体を起こし、机の書類を見渡す。
「報告書には、数字しかありません」
「報告書ですので」
「顔が見えないのです」
クロエがわずかに首を傾げる。
「顔、ですか」
「ええ」
リシェルが一枚の書類を持ち上げる。
「貧困世帯、百二十七」
机へ置く。
パサ。
別の紙を取る。
「支援対象、八十六」
さらに次の紙。
「未成年の孤児、四十三」
数字の並んだ紙を見つめるリシェル。
先ほどまでの不満げな表情ではなく、少し寂しそうな顔になる。
「けれど、この四十三人が、どんな顔をして、何を食べて、何に困っているのか。ここには何も書かれていません」
クロエは口を挟まず、静かに聞いている。
リシェルは書類から目を離し、窓の外へ視線を向ける。
窓の向こうには、朝日に照らされた王都が広がっている。
石造りの建物。尖塔。市場に張られた色とりどりの天幕。
通りには小さく人々の姿も見える。
美しく整った街並み。
けれど、城からではそこにいる一人一人の表情までは分からない。
「お父様も、お兄様も、国を良くしようとなさっています」
「はい」
「役人たちも、全員が怠けているわけではありません」
「もちろんです」
リシェルは窓の外を見つめたまま、小さく息を吐く。
「それでも……」
一拍。
「ここに座っているだけでは、見えないものが多すぎます」
クロエの目が、すっと細くなる。
リシェルへ向ける視線が、先ほどまでとは微妙に変わる。
「殿下」
「はい?」
クロエはすぐさま口を開く。
「本日のご予定ですが」
「午前は歴史学の講義。昼食後は王妃殿下との茶会。その後、隣国使節団への挨拶がございます」
「そうでしたわね」
「夕刻からは宮廷舞踏の練習も」
「ええ」
クロエが念を押すように続ける。
「つまり、本日は大変お忙しい一日です」
「ええ、そうですわね」
リシェルがにこりと微笑む。
妙に綺麗な笑顔。
クロエは無表情のまま、その笑顔をじっと見る。
「殿下」
「なんでしょう」
「今、とても良い笑顔をなさいましたね」
「王女ですもの。笑顔くらい作れます」
「そういう意味ではございません」
リシェルは何食わぬ顔で机の書類を集め始める。
サッ、サッ。
「では、朝食にしましょう」
「承知いたしました」
クロエが一礼する。
そのまま顔を上げ、リシェルを無言で観察する。
リシェルは平然と書類を揃えている。
クロエの視線が窓へ。
続いて、部屋の扉。
衣装部屋へ続く扉。
再びリシェル。
逃げ道になりそうな場所を確認するように視線だけが動いていく。
「クロエ」
「はい」
「今日は、午後から休んで構いません」
ピタッ。
クロエの動きが完全に止まる。
「……はい?」
「いつも働きすぎですもの。たまにはゆっくりしてくださいな」
「お気遣い、痛み入ります」
クロエの表情は変わらない。
ただし、リシェルを見る目だけが鋭くなっている。
「では、そういうことで」
「殿下」
「なんでしょう?」
「本日は何をなさるおつもりで?」
「何も?」
即座に返すリシェル。
「そうですか」
「ええ」
「何も」
「何もです」
二人とも動かない。
リシェルは完璧な微笑。
クロエは完璧な無表情。
「…………」
しーん……。
数秒の睨み合い。
やがてリシェルの目が、すっと横へ逃げる。
「……朝食が冷めますわ」
「左様でございますね」
クロエは丁寧に一礼する。
リシェルはそそくさと机から離れる。
その背中を、クロエがじっと見送っている。
その日の午後。
王城の使用人通路を、小柄な少女が洗濯籠を抱えて歩いている。
年齢は十六、七ほど。
栗色の髪。そばかす。少し丸みのある頬。目立たない茶色の瞳。
城内に何人いても不思議ではない、下働きの少女の姿。
ただし、抱えている洗濯籠は妙に軽そうだ。
向こうから兵士が歩いてくる。
少女とすれ違いざま、兵士が軽く声をかける。
「ご苦労さん」
「お疲れさまです」
少女はぺこりと頭を下げ、そのまま何食わぬ顔で通り過ぎる。
兵士は特に気にせず通り過ぎていく。
少女はそのまま角を曲がる。
左右を確認。
誰もいない。
「ふふっ」
口元を押さえ、小さく笑う。
その少女――姿を変えたリシェルが、満足そうに自分の栗色の髪へ触れる。
固有能力。
普段の淡い金髪も、薄青の瞳も、王女らしい顔立ちも消えている。
髪色、瞳、顔立ち、背丈、体格まで別人のものになっている。
リシェルは自分の頬や髪を軽く確かめる。
「今回はかなり自然ですわね」
少し得意げ。
以前試した姿を思い出す。
鮮やかすぎる赤髪。
不自然なくらい大きな目。
小さくなりすぎた体。
思い出すたび、リシェルの表情が少し気まずそうになる。
それらを振り払うように首を振る。
今の自分をもう一度確認。
地味な髪。
地味な目。
地味な服。
「これなら絶対に気づかれませんわ」
うん、と満足そうに頷く。
十メートルほど後方。
リシェルが曲がった角の陰から、クロエが静かに顔を出す。
「…………」
無言。
遠ざかっていくリシェルを見る。
次に、その手にある籠を見る。
中身は空っぽ。
クロエが目を細める。
「殿下」
誰にも届かないほど小さな声。
「洗濯物の籠が空でございます」
さらにリシェルの歩き方を見る。
下働きの少女にしては背筋が伸び、足運びまで妙に上品。
籠を持つ手にも慣れがない。
先ほど兵士へした会釈も、王宮の礼法そのもの。
クロエがこめかみに指を添える。
小さく息を吐く。
「はぁ……」
それでも呼び止めることはせず、一定の距離を空けて後を追う。
裏門。
若い兵士が一人、門番として立っている。
洗濯籠を抱えたリシェルが近づいていく。
門番がリシェルと籠を交互に見る。
「外へ?」
「はい」
「何しに?」
ピタッ。
リシェルの足が止まる。
「…………」
目だけがわずかに泳ぐ。
自分の服を見る。
籠を見る。
門を見る。
もう一度、籠。
「洗濯です」
門番が籠を見る。
「城の外で?」
「…………」
リシェルの額に、じわっと汗が浮かぶ。
「今日は、その……」
視線がさらに泳ぐ。
「外で洗う日なのです」
「そんな日あったか?」
「あります」
少し強めに即答。
「いつから?」
「今日からです」
「今日から?」
「はい」
門番の眉が上がる。
リシェルは笑顔を保っているが、額には汗。
少し離れた物陰。
クロエが片手で額を押さえる。
「…………」
そこへ別の兵士が慌ただしく駆けてくる。
「おい! 東門の荷車が詰まってる! ちょっと来てくれ!」
「またかよ」
門番が面倒そうに舌打ち。
リシェルへ向き直る。
「悪い。すぐ戻るから、そこで待ってろ」
「はい」
兵士二人が駆けていく。
タタタタッ。
リシェルはその背中を見送る。
ぱちぱちと瞬き。
誰もいなくなった門を見る。
口元がゆるむ。
「……運がいいですわ」
いそいそと裏門を抜けていく。
少し離れた場所。
クロエが東門の方向を確認してから、静かに息を吐く。
手には、東門へ知らせを送るために使った小さな合図用の道具。
それを何食わぬ顔でしまい、再びリシェルの後を追う。
城門を抜け、城下町へ。
リシェルの足が止まる。
目の前には、城内とはまるで違う活気が広がっている。
人々が行き交い、荷車がゴトゴトと石畳を進む。
店先には野菜や果物が積まれ、焼きたてのパンから湯気が立つ。
子供たちが笑いながら走り抜けていく。
「わあ……」
リシェルの目が輝く。
自然と口元にも笑みが浮かぶ。
「……やっぱり違いますわね」
パンの香りに気づき、鼻を小さく動かす。
焼きたての匂い。
人々の話し声。
商人の呼び込み。
荷車の車輪が石畳を転がる音。
ガラガラ、ガヤガヤ。
「安いよ安いよ! 朝採れの野菜だ!」
「串焼き一本、銅貨三枚!」
「北区行きの乗合馬車、あと二人だ!」
次々と飛び込んでくる声を追うように、リシェルの視線があちこちへ動く。
「なるほど……」
立ち止まり、人々の生活を興味深そうに眺める。
「これが、普通の市場……」
「お嬢ちゃん、パン買ってくかい?」
「え?」
リシェルが声のした方を見る。
屋台には、焼き色のついた丸いパンがずらりと並んでいる。
まだ温かく、ふわっと湯気が立っている。
リシェルの目がパンに釘付けになる。
「一ついただきます」
「銅貨二枚ね」
「はい」
リシェルは迷いなく懐へ手を入れる。
ごそごそ。
取り出したものを主人へ差し出す。
キラッ。
金貨一枚。
「これで」
「…………」
屋台の主人の動きが止まる。
差し出された金貨を見る。
リシェルを見る。
もう一度、金貨を見る。
「…………?」
リシェルも首を傾げる。
自分の手の金貨を見る。
主人を見る。
妙な沈黙。
主人が少し身を寄せ、声を落とす。
「お嬢ちゃん」
「はい」
「家出?」
「違います!」
食い気味の即答。
少し離れた場所。
クロエがその様子を見届け、静かに目を閉じる。
「…………」
深いため息をこらえるように、眉間を指で押さえる。
城を出て早々、すでに問題だらけ。
そんなクロエをよそに、リシェルは金貨を握ったまま屋台の主人へ必死に弁明している。




