プロローグ
夜の路地裏。人通りはなく、表通りの喧騒も遠い。古い建物の壁際に、冒険者ギルドの受付嬢ミーナが追い詰められている。
普段の明るい受付姿とは違い、ミーナの顔は青ざめている。背中を壁につけ、逃げ場を探すように周囲へ目を走らせるが、すぐ目の前には中年の男。仕立てのいい上着を着ているが、商人というより金貸しを思わせる嫌な雰囲気がある。
男は余裕のある薄笑いを浮かべ、一枚の書類を指先でひらひら揺らす。
「その顔、忘れたわけじゃないだろうな?」
紙の擦れる音。
「ヒラ…」
「お前の親父が昔やったこと。これがギルドに知られたら、どうなると思う?」
ミーナは紙に書かれた父親の名前を見つめ、唇を噛む。握った手に力が入る。
「……父は、もう償いました」
「世間ってのは、そんなに優しくないんだよ」
男はミーナの怯えた様子を楽しむように笑う。
「明日までに、例の討伐隊の編成表を持ってこい。誰が参加するのか、何時に出るのか、全部だ」
「そんなものを渡したら……」
「嫌なら断ってもいいぜ?」
男が書類をゆっくり折りたたむ。
「パタン」
「その代わり、これは王都中にばら撒く」
ミーナの肩が小さく震える。
「……卑怯です」
「よく言われる」
男が悪びれもせず笑う。
そのとき、少し離れたところから男でもミーナでもない声。
「じゃあ、返してもらえばいいんじゃないか?」
男の笑みが消え、勢いよく振り返る。
「誰だ!」
路地の入口に、一人の冒険者が立っている。
黒に近い灰色の髪。使い古された革鎧。腰には安物に見える剣。目立つ装備も威圧感もない、ごく普通の冒険者――レイン。
ミーナが驚いて目を見開く。
「レインさん……?」
「よう」
レインはいつもと変わらない気の抜けた表情で、片手を軽く上げる。
「こんな時間にどうした?」
「どうしたって……!」
「夜のお散歩か?」
「違います!」
思わず大声を出したミーナが、直後にはっとして両手で口元を押さえる。
男が二人を見比べ、眉をひそめる。
「知り合いか?」
「まあ、一応」
「なら失せろ。部外者が首を突っ込む話じゃない」
「そうか」
レインはあっさりうなずく。
「じゃあ帰るな、あばよ」
「えっ」
ミーナが固まる。
男は拍子抜けしたあと、鼻で笑う。
「賢いじゃねえか」
「だろ?」
レインは本当に帰るように背を向け、そのまま歩き出す。
足音。「コツ、コツ、コツ……」
三歩、四歩。
ミーナは信じられないものを見るような顔でその背中を見送っている。
レインがふと足を止める。
何かを思い出したように振り返る。
「ところでさ」
「なんだ?」
「その紙、なんだい?本物?」
男の表情がわずかに強張る。
「……何?」
「だから、それ。本当に脅しに使えるのかなって」
「当たり前だ!」
苛立った男が折りたたんだ書類を勢いよく開く。「バッ」
「ここに全部書いて――」
男の言葉が途中で止まる。
「……は?」
書類には何も書かれていない。
名前も、日付も、印章もない。
完全な白紙。
男の顔から余裕が消える。
「な……」
紙をひっくり返す。「バサッ」
裏も白い。
もう一度表に戻す。
やはり何もない。
「なんだこれは!?」
「さあ?俺は知らないなぁ」
レインは何も知らないという顔で首を傾げる。
「最初から白紙だったんじゃないか?」
「そんなわけあるか!」
男の顔が怒りで赤くなる。
「俺は確かに――!」
慌てて懐を探り、予備の書類を一枚取り出す。
「ガサッ」
急いで広げる。
白紙。
男の手が止まる。
「……っ」
さらに別の一枚を引っ張り出す。
広げる。
これも白紙。
紙を持つ指が震え始める。「カタ…」
「どういうことだ……」
「困っているみたいですねぇ」
レインはまるで困っていない顔。
「大事な証拠だったんだろ?」
男がレインを睨みつける。
「お前……何をした」
「何も」
「嘘をつけ!」
激昂した男がレインの胸元へ掴みかかる。
その手が届くより先に、レインの姿が男のすぐそばへ移る。
男は一瞬、レインを見失ったように目を見開く。
「乱暴は良くないですよ」
レインが小さく呟く。
直後、男の体が浮き上がる。
「ぐえっ!」
「ドンッ!」
男が背中から地面へ叩きつけられる。その衝撃音は大きめ。
男は何をされたのか理解できず、目を白黒させている。
レインは倒れた男の腕を取り、無造作に軽く捻る。
「いたたたたた!」
「声がでかい」
「は、離せ!」
レインの表情は穏やかなまま。
「じゃあ確認」
男の腕を押さえたまま、ミーナへちらりと目を向ける。
「この人には、もう近づかないな」
「誰が――」
レインの手にほんの少し力が入る。
「ギリッ」
「いだだだだ!」
「近づかない」
「分かった! 分かったから!」
「脅さないな」
「脅さない!」
「これからも変な報復もしないな」
「しない!」
「よし」
レインがぱっと手を離す。
解放された男は腕を押さえながら慌てて立ち上がり、何度かつまずきそうになりながら逃げていく。
「タタタタッ……」
男の足音が遠ざかり、路地に静けさが戻る。
ミーナは呆然としたまま、しばらく何も言えない。
「……レインさん」
「ん?」
「今の、何ですか?」
「何が?」
「紙です!」
「紙って?」
「とぼけないでください!」
ミーナが地面に落ちている書類を拾う。
何度確かめても、そこには一文字も残っていない。
「さっきまで、ここには確かに父の名前が……」
「見間違いじゃないか?」
「そんなわけないでしょう!」
「ミーナさんは疲れてるんだよ」
「レインさん!」
ミーナが白紙を握ったまま詰め寄る。
レインは困ったように苦笑する。
「まあ、何にしても」
「……?」
「もう脅される理由はないだろ」
ミーナの勢いが止まる。
手元の白紙へ視線を落とす。
「でも……」
「でも?」
「他にも写しがあったら……」
「ああ」
レインは特に気にする様子もなく答える。
「それもたぶん大丈夫なんじゃないか、詳しくは知らんけど」
ミーナがゆっくり顔を上げる。
「……どうして、そんなことが分かるんです?」
「さあな。運がよかったんじゃないか?」
「誰の運ですか」
レインは少しだけ笑った。
「君のだよ」
ミーナは疑いの目でじっとレインを見る。
しばし無言。
「…………」
「レインさん」
「はい」
「昨日、ギルドの資料室に忍び込んでませんよね?」
今度はレインが黙る。
「…………」
すっとミーナから目を逸らす。
「目を逸らさないでください」
「月が綺麗だな」
ミーナが空を見る。
雲に覆われ、月など見えない。
「曇ってます」
「そうだった」
ミーナは深くため息をつく。
「はぁ……」
呆れた顔のまま、それでも口元に小さな笑みが浮かぶ。
それを見たレインも、わずかに表情を緩める。
「じゃあ、帰れ」
「はい」
ミーナが歩き出す。
数歩進んだところで足を止め、振り返る。
「レインさん」
「ん?」
ミーナは先ほどまでより穏やかな顔で、まっすぐレインを見る。
「……ありがとうございました」
レインは一瞬だけ返事に詰まる。
それから、いつもの調子で片手を上げる。
「何の話か分からないな」
「はいはい」
ミーナが今度こそ路地を出ていく。
足音が少しずつ遠ざかる。
レインはその姿が完全に見えなくなるまで、その場から動かない。
静寂。
「…………」
誰もいなくなったところで、小さく息を吐く。
「ふぅ……」
力を抜いたレインの右手。
その指先が、かすかに震えている。
レインは震える指を見下ろす。
「……紙三枚と、記録石ひとつ」
淡々と数える。
脳裏には、男が持っていたものとは別の「消した記録」が浮かぶ。
男が人目につかない場所へ隠していた帳簿。
役所へ提出される予定だった控え。
商会の保管庫に置かれていた写し。
そこに記されていた文字や印が、次々と白く消えていく。
すべて消した。
レインは自分の右手を握り、開く。
昔の記憶。
まだ若いレインが、鑑定結果を告げられている。
鑑定結果には、役に立たない能力であるかのような短い説明。
『文字を消すだけの、役に立たないスキル』
当時のレインも、それを聞いて特に反論することなく受け入れている。
現在。
レインは自分の手を見つめる。
「……記録は消せる」
路地には誰もいない。
返事もない。
「じゃあ、次は何だ?」
レインの表情から、いつもの気の抜けた雰囲気が消える。
頭の中に浮かぶ言葉。
『記録』
続いて、
『記憶』
『契約』
『呪い』
『スキル』
それぞれの文字が浮かび、最後の『スキル』だけが残る。
その文字にも、端からじわりと欠けていくような異変。
レインの指先が再びわずかに震える。
どこまで消せるのか。
そして、何を消してはいけないのか。
レイン自身にも分からない。
しばらく自分の手を見つめていたレインが、ふっと力を抜く。
「まあ」
頭をガシガシと掻く。
「考えるのは明日でいいか」
張りつめていた雰囲気が消え、いつもの冴えない冒険者らしい表情に戻る。
翌朝。
いつもの冒険者ギルド。
レインの周囲では、冒険者たちが好き勝手に彼を評している。
「逃げ足だけは速いよな」
「地味なんだよ」
「ぱっとしねえ」
「ずっと中堅じゃねえか?」
レインは気にした様子もなく、いつもの席で飲み物を口にする。
周囲から見れば、どこにでもいる万年中堅の冒険者。
それでいい、とでもいうようにレインは静かに目を伏せる。
自分が何をできるのか。
何を消したのか。
誰にも知られないままでいい。
そんなレインの日常が続いていく――はずだった。
やがて彼の前に現れる、一人の少女。
上等な服を身につけながら、城下で困っている人間を放っておけず、自分から厄介事へ飛び込んでいく王女。
レインの秘密など知るはずもない彼女が、屈託なくレインへ笑いかける。
そしてレインはまだ知らない。
そのとんでもなくお節介な王女によって、自分が隠してきた秘密を、一つずつ暴かれていくことを。
こちらの作品はカクヨムにも投稿しております。




