第9話 勇者、ゴブリンを逃がす
ヴェラは、エリオスの口元に浮かんだ薄い笑みを見つめ、目を細めた。
「その顔……まさか、もう何が起きてるのか分かってるの?」
エリオスは笑いながら首を横に振る。
「俺は預言者じゃないって。
ただ、獣人の集落からここまで歩いてきて、ますます確信したことが一つある」
「何?」
「この件、どこかに何かしらの行き違いがある」
ゴブリンの族長と若いゴブリンたちは、互いに顔を見合わせた。
何を言われているのか、よく分からないらしい。
エリオスは食料を盗んだ件をすぐに問い詰めることはせず、笑いながら尋ねた。
「ところで、君たちは普段何を食べてるんだ?」
ゴブリンの族長が少し驚いた顔をする。
「キノコです。
それと、山菜や木の実ですね」
すると、隣にいた若いゴブリンが我慢できないように口を挟んだ。
「最近はキノコがたくさん採れるんです!」
「なのに、あの獣人たちは僕たちのキノコを盗んだだけじゃなくて、
この前なんて畑を丸ごと踏み荒らしたんですよ!」
「あれは、みんなで頑張って育てたのに!」
別のゴブリンも、慌てて頷く。
「そうです!」
「それなのに、あいつらは僕たちが先に食料を盗んだって言うんです!」
「先に嫌がらせしてきたのは、あっちなのに!」
話しているうちに、ゴブリンたちの声はどんどん大きくなっていった。
先ほどまで怯えていた表情も、いつの間にか不満と悔しさに変わっている。
エリオスは、そんな彼らの話を黙って聞いていた。
誰の言葉も遮らない。
全員が言いたいことを言い終えるまで、ただ静かに耳を傾けていた。
やがて、エリオスは小さく笑う。
「じゃあ、そのキノコを育ててる場所を見せてもらえるか?」
「は、はい!」
ゴブリンの族長がすぐに答えた。
だが、歩き始めてからが長かった。
ゴブリンの族長は、木の杖をつきながら、一歩。また一歩と進んでいく。
木の杖をつきながら、一歩。
また一歩。
あまりにも遅い。
後ろを歩く若いゴブリンたちが、思わず何度も族長の様子を窺っている。
ヴェラもしばらく無言で眺めていたが、とうとう口を開いた。
「……いつも、あんなに遅いの?」
ゴブリンの一人が、気まずそうに頭を掻いた。
「族長は今年で百三十歳なんです。
その……あれでも、かなり速いほうです」
エリオスは思わず吹き出した。
「じゃあ、ゆっくり行こうか」
一行は集落を出ると、森の中に続く細い道を歩いていった。
森の奥へ進むにつれ、木々は次第に高くなっていく。
湿った空気には、土とキノコ特有の匂いが混じっていた。
倒木や木の根のあちこちに、大小様々なキノコが群生している。
ゴブリンの族長は歩きながら、誇らしげに説明した。
「この辺りは、全部我々が管理しているキノコ畑です。
春になると、少しずつ生えてきましてな。
もう少し先に行けば、一番大きな畑があります」
エリオスは話を聞きながら、周囲を観察していた。
集落からはかなり離れている。
森に慣れていなければ、木々の奥に隠された小さな作業小屋を見つけることすら難しいだろう。
その時だった。
エリオスが突然、足を止めた。
「……誰かいる」
声を潜める。
「隠れよう」
全員が慌てて茂みの陰へ身を隠した。
しばらくすると――
二人の若い人影が、森の中へ入ってきた。
一人は十五歳くらいの少年。
腰には長剣を下げている。
まだどこか幼さの残る顔立ちだが、身につけているのは見習い剣士の装備だった。
もう一人は少女。
杖を抱え、時折手にした地図を確認している。
どうやら見習い魔法使いらしい。
「この辺りのはずなんだけど……」
少女が辺りを見回す。
すると、少年が突然目を輝かせた。
「あった!」
前方を指差す。
「ギルドが言ってたの、ここだ!」
「本当だ!」
少女も嬉しそうに笑う。
「すごい、いっぱいある!」
「これだけ採れたら、かなりの金になるぞ!」
ヴェラが眉をひそめた。
「人間……?」
エリオスが頷く。
「たぶん新人冒険者だな。
王国が取り戻した土地には、新しい開拓村もできてる。
たぶん、うっかり奥まで入り込んだんだろう」
二人が話している間に――
一人の若いゴブリンが、木の槍を強く握り締めた。
「そ、それ……」
別のゴブリンも、悔しそうに呟く。
「僕たちの食料だ……」
その言葉が終わるより早く。
数人の若いゴブリンが、茂みから飛び出していった。
「待て!」
エリオスが手を伸ばす。
だが、一歩遅かった。
「ゴ、ゴブリン!?」
少女の顔から血の気が引く。
少年は咄嗟に長剣を抜き、少女の前へ立った。
「落ち着け! 早く詠唱を!」
「う、うん!」
少女が慌てて杖を構える。
「炎よ――」
ヴェラが眉をひそめた。
「私が出る」
だが、エリオスがすぐに彼女の腕を掴んだ。
「待って。
今出ていったら、本当に取り返しがつかなくなる」
「でも――」
「俺に任せて」
少女の杖の先に、すでに火球が生まれ始めていた。
その瞬間。
――ヒュッ。
森の奥から、ほとんど気づかないほど細い風の刃が飛んできた。
パチン。
完成したばかりの火球が、まるで風に吹き消された蝋燭の火のように、あっけなく消滅する。
「え……?」
少女は呆然と自分の杖を見つめた。
「ど、どうして……?」
茂みの向こう。
エリオスが小さく呟く。
「悪いな」
次の瞬間。
彼は長剣を手に、ゴブリンたちとは反対側の茂みから飛び出した。
「やっと見つけたぞ!」
少年と少女が同時に振り返る。
エリオスは、そのまま両者の間へ割って入った。
そして、ゴブリンたちへ向かって叫ぶ。
「こいつらは俺がずっと追ってきた獲物だ!
俺の獲物を横取りするなよ!」
そう言いながら、少年と少女から見えない角度で、こっそりゴブリンたちへ手を振る。
――早く逃げろ。
ゴブリンたちは、ぽかんとエリオスを見つめている。
どうやら、意味が伝わっていない。
エリオスの口元が僅かに引きつった。
もう一度。
今度は、少し大げさに手を振る。
――逃げろ!
その時。
一人のゴブリンが、ようやく気づいた。
「あっ!」
「に、逃げろ――!」
わざとらしいほど大きな声を上げ、踵を返して走り出す。
「待って!」
「押すなよ!」
「誰だ、今俺の足を踏んだの!」
「族長ー! 助けてくれー!」
他のゴブリンたちも、ようやく意味を理解した。
我先にと森の奥へ逃げていく。
一人など、慌てすぎて足をもつれさせ、そのまま前方へ転倒した。
地面を一回転するように転がってから、何事もなかったかのように立ち上がり、また走っていく。
あっという間だった。
ゴブリンたちは、一人残らず森の中へ消えていった。
その場に残されたのは――
呆然と立ち尽くす少年と少女。
「…………」
「…………」
少年は、遠ざかっていくゴブリンたちを見つめる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……今のゴブリンたち」
隣の少女を見る。
「逃げて……たのか?」




