第44話 勇者、前線の危機を知る
隊列は、魔境の奥へと進み続けていた。
道中、時折まばらに魔獣と遭遇することはあったが、数はさほど多くない。
先頭の兵士たちが道を切り開いてくれているため、隊列が足を止めることもほとんどなかった。
午後になると、先導を務めていた兵士が戻ってきた。
「報告! この先に、今夜の休息地点があります!」
団長は頷いた。
「全軍、速度を上げろ」
さらにしばらく進むと、遠くに簡素な木造の哨所が見えてきた。
そこはもともと、人間が魔境へ入った後に設けた中継拠点だった。
規模こそ小さいものの、二千人規模の遠征軍が一時的に休息するには十分な広さがある。
「明日には前線に到着できそうですな」
団長が地図を確認しながら言った。
第三王子も頷いたが、何も口にしなかった。
エリオスは、彼の表情に気づいた。
「殿下、緊張してるんですか?」
「……少しな」
第三王子は否定しなかった。
彼は遠くの森へ一度目を向けてから、口を開いた。
「前線に到着した場合、我々はどのように動くことになる?」
団長が地図を広げる。
「主力軍が到着した後、まずは先行部隊と合流します。
敵軍の位置を確認してから、
攻撃するかどうかを決めることになるでしょう」
「勇者は?」
エリオスは地図の上を指差した。
「俺はまず、敵の主力がどこにいるのかを確認する」
「西境領主と遭遇した場合は、どうするつもりだ?」
エリオスは地図へと視線を落とした。
「まずは状況を確認する」
「すぐには手を出さないのか?」
「相手がどれくらいの人数を揃えているかによるな」
エリオスの指が、地図の上を軽く叩いた。
「小規模な部隊だけなら、俺がそのまま乗り込んでもいい。
だが、相手がわざと俺たちを誘い込んで、
別の方向から包囲してきたら……」
エリオスは一度言葉を切った。
「面倒なことになる」
第三王子がエリオスを見つめる。
「彼らが我々を標的にする可能性を心配しているのか?」
「まあな」
エリオスは顔を上げた。
「最悪なのは、軍全体が閉じ込められることだ」
その声には、いつもの軽さがなかった。
「そうなったら、俺が相手を倒せたとしても、
全員をまとめて助け出せるとは限らない」
第三王子は黙り込んだ。
エリオスは、やがて小さく笑った。
「だから、まずは相手が何を企んでいるのかを確かめよう」
第三王子は頷いた。
その時だった。
遠くから、急速に近づいてくる馬蹄の音が響いた。
「報告!」
伝令兵は馬から飛び降りたが、
まだ息を整えきれていなかった。
「前線にて、鬼族の部隊を確認しました!」
その場にいた全員の視線が、伝令兵へと集まる。
「およそ三百人。現在、交戦中です!」
団長がすぐさま歩み寄った。
「戦況はどうなっている?」
「鬼族が撤退を始めました!」
伝令兵は素早く答えた。
「中隊が追撃に入っております!」
エリオスが勢いよく立ち上がった。
「追撃するなと言っただろう!」
伝令兵が一瞬、呆気に取られる。
「前線では、敵がすでに退いていると判断し、
勝機に乗じて追撃すべきだと……」
エリオスの眉間に、深い皺が刻まれた。
「違う。あれは退却じゃない」
第三王子もエリオスを見る。
「なぜ、そう思う?」
エリオスは答えず、腰に下げた通信石へと手を伸ばした。
「こんなタイミングで、
あまりにもあっさり撤退するのはおかしい」
エリオスが魔力を注ぎ込むと、通信石が淡い光を放ち始めた。
しばらくして、ようやく聞き慣れた声が返ってくる。
『エリオス?』
「魔塔のほうから、今、前線に連絡を取れるか?」
『ちょっと確認するわ』
魔導塔の主の声も、すぐに真剣なものへと変わった。
『少し待って』
短い沈黙の後、彼女が再び口を開いた。
『前線から連絡が入ったわ』
「追撃部隊は?」
『……待って』
向こう側が再び静まり返る。
しばらくして、魔導塔の主が口を開いた。
『追撃部隊が伏兵の攻撃を受けたわ』
エリオスの表情が険しくなる。
「今の状況は?」
『不明よ』
「前線に残っている部隊は?」
『まだ防衛を続けているわ。
今のところ、それ以上の報告はない』
エリオスはすぐに指示を出した。
「追撃をやめるよう伝えてくれ。
拠点を守り、主力軍が合流するまで待てと」
『分かった。すぐに伝えるわ』
「治療師は?」
通信石の向こうで、わずかな沈黙があった。
『……どうやら、足りていないようね』
「どうやらって、どういう意味だ?」
『前線の治療要員は増員中よ。
私のほうでも魔導士を動かしているわ』
魔導塔の主の声にも、焦りが滲み始めていた。
『でも、詳しい状況については、
国境要塞からの報告を待たないと分からない』
エリオスは歯を食いしばった。
次の瞬間、通信石の光が徐々に弱まっていく。
通信が途切れた。
エリオスは手の中の石を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐き出す。
そして、再び椅子に腰を下ろした。
「団長」
「はい?」
「俺たちは、朝まで待っていられない」
「今から出発するのか?
少なくとも、兵士たちを交代で休ませながら進むべきだ」
エリオスは、遠くで夜空を見上げた。
「前線は今のところ、まだ持ちこたえている。
だが、これ以上遅れたらどうなるか分からない」
団長はしばらく黙っていた。
前線の正確な状況が、まだ完全には伝わってきていないことは彼も理解していた。
二千人もの軍勢を夜通し進ませることが、必ずしも最善の選択とは限らない。
それでも、団長は頷いた。
「分かった。俺が手配する」
団長はそう言って、身を翻した。
その場に残った第三王子は、エリオスを見つめていた。
「本当に、状況は深刻だと思うのか?」
エリオスは椅子の背もたれに寄りかかり、一度目を閉じた。
「今のところは、まだ分からない」
そして、再び目を開く。
「だからこそ、早く向かわなきゃならない」
「もし、前線に何も問題がなかったら?」
「それなら、それでいい」
エリオスは立ち上がった。
「俺たちは、少し休む時間を無駄にしただけだ」
すでに出発の準備を始めている兵士たちへと目を向ける。
「だが、本当に何か起きていたら……」
エリオスは、その先を口にしなかった。
ただ、腰の剣を握る手に、再び力を込めた。




