第40話 勇者、魔境の手前で野営する
翌朝、遠征軍は国境要塞を出発した。
巨大な城壁はすぐに後方へと遠ざかり、一行は西部領へと続く街道を進んでいく。
道の序盤では、まだ人類が整備した道路や見張り台が見えていた。
しかし、要塞から離れるにつれて、周囲の景色も少しずつ変化していった。
道幅は狭くなり、両側の草木は次第に生い茂っていく。
時折、すでに廃棄された石碑や、古びた道標が目に入った。
エリオスは馬上から前方を見上げた。
隣を進んでいた第三王子は、彼が何も話さないことに気づき、声をかける。
「緊張しているのか?」
「まあ、そうでもないですけど」
「普段はよく喋るのに、今は静かだな」
エリオスは答える代わりに、道端の森へ視線を向けた。
「魔獣です! 迎撃準備!」
声が響いた直後、前方の茂みから突然、物音が聞こえてきた。
先頭の兵士たちが、すぐさま武器を構える。
数体の小型魔獣が、森の中から飛び出してきた。
だが、森を抜けた直後には、前方の騎士たちが素早く行く手を阻んでいた。
短い交戦の後、魔獣たちはあっけなく地面に倒れ伏した。
隊列は、それによって長く足を止めることもなかった。
エリオスに至っては、剣すら抜いていない。
第三王子は、兵士たちが戦場の後始末をしている様子を眺めた。
「この程度の魔獣なら、さほど苦労せずに倒せるようだな」
「そうですね」
「さっき黙っていたのは、警戒していたからか?」
エリオスは頷いた。
そこへ、報告のために一人の兵士がやって来た。
兵士が離れていくと、何人かの兵士たちが小声で話し始める。
「今回はこれだけの人数がいるんだ。あんな魔獣、何の脅威にもならないな」
「それに勇者様まで同行しているんだ。問題になるわけがない」
隊列は再び進み始めた。
その後も、道中では何度か小規模な魔獣の襲撃に遭遇したが、いずれもすぐに処理された。
やがて空は、少しずつ夕暮れの色に染まり始めた。
前方の地形も、次第に複雑になっていく。
森はさらに深くなり、道の両側には丘陵や峡谷が姿を見せ始めていた。
団長は地図を確認し、それから空を見上げた。
「今日はこの辺りで野営するぞ。
明日の朝一番に出発し、正式に魔境へ入る」
前方には、古い見張り台が一つ残されていた。
すでに一部は荒廃していたが、その周囲には軍が野営するのに十分な空間が残っている。
兵士たちはすぐに、野営地の準備を始めた。
エリオスは馬から降りると、境界を示す石碑へ目を向けた。
明日からは、魔境の中に身を置くことになる。
彼は耳元の耳飾に触れた。
「……」
ヴィラたちは、今頃どうしているだろうか。
エリオスは振り返り、兵士たちに向かって声を上げた。
「奇襲に備えて、警戒を怠るな!」
兵士たちは返事をすると、すぐにその命令を各所へ伝えていった。
第三王子がエリオスの隣まで歩いてくる。
「ようやく本気になったようだな」
エリオスは心外そうな顔をした。
「俺が本気じゃなかったことなんてありましたっけ?」
第三王子は笑った。
だが、エリオスはもう笑っていなかった。
「この先は、もっと慎重に進んだほうがいいです」
「魔獣が増えるのか?」
「魔獣だけじゃありません。
魔境の奥へ進むと、単独で行動するトロールに遭遇することもあります」
「トロール?」
エリオスは、次第に暗くなっていく前方の森へ目を向けた。
「はぐれた一体だけなら、俺たちにとって大したことはありません。
でも、これだけの人数で魔境に入れば、ほかの魔物を刺激しないとも限らない」
第三王子は何も言わなかった。
遠くの森を見つめ、それから隣にいるエリオスへと視線を戻す。
「エリオス」
「はい?」
「もし、本当に西境領主と遭遇したら――」
第三王子の声が、少し低くなった。
「撃破できる自信があるのか?」
エリオスはしばらく黙った。
そして、笑みを浮かべる。
「殿下、ご安心ください。
ちゃんとトドメは残しておきますから」
第三王子は眉をひそめた。
「僕が心配しているのは、そこではない」
エリオスは振り返る。
「じゃあ、何です?」
第三王子は彼を見た。
だが、答えなかった。
馬の蹄が、街道の上で規則正しく響き続けている。
遠くの森の奥からは、時折、正体の分からない魔獣の唸り声が聞こえてきた。
しばらくして、第三王子がふいに口を開く。
「……なんでもない」
彼は前方へ視線を向けた。
「僕にトドメを残す自信があるというのなら、
少なくとも自分の実力には自信があるということだろう」
エリオスは否定しなかった。
ただ、手を上げて耳元の耳飾に触れる。
「……まあ、なるようになるでしょう」
やがて夜の帳が、ゆっくりと下り始めた。
野営地にはすでに篝火が焚かれ、兵士たちは交代で食事を取っている。
騎士たちは夜間の巡回について打ち合わせを始めていた。
エリオスは野営地の外周へ目を向けると、立ち上がった。
「ちょっと周囲を見てきます」
第三王子も、つられるように立ち上がった。
「僕も行こう」
エリオスは振り返る。
「殿下は西境領主を倒しに来たんじゃなくて、俺の監視をしに来たんですか?」
「もちろん違う」
第三王子は袖口を整えた。
「魔境に近づくほど、お前と一緒にいたほうが安全だろう?」
エリオスは一瞬、言葉を失った。
「……そういう問題じゃないんですけど」
「どこが間違っている?」
「俺が本気で突っ込んだ場合、
隣に気を配らなきゃいけない相手がいるほうが、
かえって危険なんですよ」
第三王子は彼を見つめた。
「では、なぜさっき僕にトドメを残すと言った?」
「殿下、いちいち言葉尻を捕まえないでくださいよ」
「自分で言ったことだろう」
エリオスは呆れたように第三王子を見た。
「……もういいです」
そう言って、野営地の外へ歩き出す。
「近くを見回って、何かが近づいていないか確認するだけですから」
第三王子も、その後に続いた。
「なら、一緒に行こう」
二人が野営地からしばらく離れると、周囲の音は次第に静かになっていった。
篝火の明かりも遠ざかり、林の中から時折、虫の鳴き声が聞こえてくるだけになる。
エリオスは足を止めると、その場にしゃがみ込んだ。
そして、手のひらを地面に押し当てる。
指先から魔力が滲み出し、地面を伝って周囲へと広がっていった。
やがて、足元に浮かんでいた淡い光がゆっくりと消えていく。
第三王子はそれを見下ろした。
「結界か?」
「ええ」
エリオスは立ち上がった。
「範囲はそれほど広くありません。
近くに何かが接近していないか確認するだけです。
ないよりは安心でしょう?」
第三王子は周囲を見回した。
「こういった魔法は、魔塔で学んだのか?」
エリオスは少し考える。
「そうですね。
魔塔ではいろいろと学びました。
戦闘用の魔法もあれば、日常生活で使うようなものもあります」
「王国の魔導士たちは、攻撃魔法を重視しているようだが」
「そっちのほうが、見せびらかすには向いているからじゃないですか?」
第三王子は、じろりとエリオスを見た。
「その言葉は、魔導士たちの前では言わないほうがいいな」
「だから殿下にしか言っていないんですよ」
第三王子は、それ以上何も言わなかった。
しかし、エリオスはふと足を止め、
森の向こう――さらに奥へと視線を向けた。
第三王子が、彼の異変に気づく。
「どうした?」
エリオスは視線を戻した。
「何かいるみたいです」
次の瞬間、遠くの木の梢を、小さな黒い影が横切った。
エリオスの視線が、即座にその影を追う。
「殿下、先に戻っていてください」
「僕も……」
「いえ、必要ありません」
エリオスは野営地の方へ振り返ると、手を振った。
ほどなくして、一人の騎士が駆けつけてくる。
「殿下を頼みます」
第三王子は眉をひそめた。
「騎士を連れていくべきだ」
エリオスは彼を見た。
「ちょっと確認するだけです。
一人のほうが早いし、すぐに戻ってきますよ」
隣にいた騎士も、第三王子へ声をかける。
「殿下、ここはすでに魔境に近い場所です。
どうか野営地にお戻りください」
第三王子はしばらく黙っていた。
そして最後には、頷くしかなかった。
「……気をつけろ」
「分かっています」
エリオスは振り返り、林の中へと歩いていく。
そして、あの小さな黒い影もまた、ひっそりと彼の後を追っていった。




