第39話 勇者、作戦を聞く
二日後、遠征軍はようやく国境要塞へと到着した。
荒野の彼方からそびえ立つ巨大な城壁。
灰白色の石壁はどこまでも続き、魔境へと通じる道を固く塞いでいる。
この要塞は、単なる軍事拠点ではない。
王国と魔境の間に築かれたこの施設は、長年にわたって国境を支配するため、少しずつ整備してきた重要拠点だ。
駐屯軍のほか、補給倉庫や厩舎、医療所、さらには行き交う商隊のための休憩所まで設けられている。
ここを越えれば、その先は魔境だ。
城門がゆっくりと開いていく。
遠征軍が要塞の中へ入ると、すぐに何人かの人影がこちらへ歩み寄ってきた。
「皆様、国境要塞へようこそお越しくださいました」
先頭に立っていたのは、気品のある女性だった。
簡素ながらも格式のある領主家の衣装を身にまとい、落ち着いた表情を浮かべている。
その立ち居振る舞いからは、明らかな貴族としての教養が感じられた。
エリオスは彼女の姿を目にした瞬間、それまでどこか気の抜けていた表情を、わずかに引き締めた。
「……」
第三王子は、そんな彼の変化に気づいた。
「どうした?」
「なんでもありません」
エリオスは声を落とした。
「ただ、面倒な人を見かけただけです」
「聞こえているわよ」
女性はこちらを見た。
エリオスは即座に背筋を伸ばす。
「伯爵夫人様 」
伯爵夫人は彼の表情など気に留める様子もなく、第三王子に向かって一礼した。
「第三王子殿下。
国境要塞へようこそお越しくださいました」
「伯爵夫人、そうかしこまらなくてもよい」
第三王子も礼を返す。
「このところの要塞での采配については、すでに聞き及んでいる。
ご苦労だったな」
「これが私の務めです」
伯爵夫人は身を起こした。
「長旅で、皆様もお疲れのことでしょう。
しかし、残念ながら今はまだ休んでいる時間はなさそうです」
その言葉を聞き、エリオスの眉がわずかに動いた。
やはりな。
「まずは皆様、会議室へお越しください」
全員がほどなくして、要塞の内部へと移動した。
会議室には、すでに地図と軍事情報の資料が用意されていた。
伯爵夫人は机の横に立つと、そのうちの一枚を広げた。
「先行部隊は、数日前にすでに出発しております」
彼女は地図を指差した。
「現在は魔境へ向けて進軍し、戦線の展開を開始しています」
団長が眉をひそめる。
「俺たちより数日も早くか?」
「はい」
伯爵夫人は頷いた。
「ですから、主軍はこれ以上ここに留まることはできません」
彼女の指が、地図の上をさらに先へと移動する。
「一刻も早く出発し、先行部隊と合流する必要があります。
さもなければ、先行部隊がまだ配置を終えていないうちに鬼族から奇襲を受けた場合、どのような事態になるか予測できません」
エリオスは地図を見つめたまま、何も言わなかった。
自分が一日出発を遅らせたことで、少なくともヴィラたちの側に、少しでも時間を稼げたと思っていた。
だが、どうやら状況は止まってくれなかったらしい。
先行部隊は、すでに出発している。
しかも、西部領へと近づきつつある。
エリオスは、そっと耳飾に触れた。
「……」
このままでは、あとどれだけ時間を稼げる?
それよりも重要なのは――
自分が本当に鬼族と戦うことになるのかどうか、いまだに分からないということだった。
「勇者様?」
伯爵夫人の声に、エリオスは我に返った。
「何か気にかかることでも?」
エリオスは彼女へ視線を向けた。
「鬼族の規模が、少し気になっただけです」
そう言って、地図上の西部領を指差す。
「俺たちが今把握しているのは、西境領主側の状況だけですよね。
もし、ほかの場所からも魔軍の援軍が駆けつけてくるとしたら?」
「だからこそ、先行部隊を先に送り出したのです」
伯爵夫人は地図上のいくつかの地点を指した。
「彼らの主な任務は、すぐに鬼族と交戦することではありません。
まずは偵察を行い、敵軍の位置と規模を確認することです」
「主軍が到着した後は、彼らから送られてくる情報をもとに配置を調整できます。
状況が整っていれば、そのまま攻撃に移ることになります」
エリオスは、黙って地図を見下ろした。
「……そこまで急ぐ必要があるんですか?」
声は小さかった。
伯爵夫人には、よく聞こえなかったらしい。
だが、隣に座っていた第三王子は顔を上げ、改めて机の上の地図へと視線を向けた。
「魔境の奥へ進むことになるのなら、兵站はどうなっている?」
伯爵夫人は、すぐに答えた。
「現在、最低限の補給はすでに手配済みです」
「最低限?」
第三王子の眉がわずかに寄る。
「戦闘が長引いた場合は?」
会議室の中に、一瞬だけ沈黙が落ちた。
伯爵夫人は地図へ視線を落とした。
「現時点で用意されている補給では、序盤の作戦を支えることしかできません。
要塞側からも継続的に補充する予定ですが、
戦線が魔境の奥深くまで進んだ場合、
その後は各領地で改めて物資を融通し合う必要があるでしょう」
第三王子は黙り込んだ。
エリオスも何も言わなかった。
机の上に置かれた補給計画へ目を向ける。
確かに多くはない。
少なくとも、長期戦を想定して準備された規模には見えなかった。
第三王子が再び口を開く。
「もし西境領主が正面から迎え撃たず、撤退を選んだ場合は?」
「そうなると、厄介なことになります」
伯爵夫人は、平静な口調で答えた。
「追撃戦に持ち込まれれば、こちらの補給が問題になります。
特に、彼が奥へ向かって撤退し続けた場合、
我々が追いつく前に、ほかの魔軍と合流する可能性が高いでしょう。
だからこそ、彼らが集結を終える前に攻撃する必要があるのです」
彼女は地図上の西部領を指差した。
「今回の作戦は、もともと迅速な奇襲を前提としています。
西境領主が援軍を得る前に撃破できれば、
この戦いを国境付近で終わらせることができます」
第三王子は地図を見つめ、わずかに眉をひそめた。
「つまり、あまり遠くまで逃がしてはならないということか」
「その通りです」
エリオスの視線が、地図の上へ落ちた。
迅速な奇襲。
一刻も早い戦闘の終結。
先行部隊が偵察を行い、主軍が到着次第、即座に攻撃を仕掛ける。
確かに、理にかなった作戦ではある。
ただ――
エリオスは、再び耳元の耳飾に触れた。
なぜ、そこまで急ぐ必要がある?
第三王子も、同じ疑問を抱いたようだった。
彼は顔を上げ、伯爵夫人へ視線を向ける。
「今回の目的が西境領主の討伐だけだというのなら、
ほかの魔軍が援軍に来ないと確認してから攻撃を仕掛けてもよいのではないか?」
伯爵夫人は、すぐには答えなかった。
「時間の問題です」
「時間?」
「西境領主は、人間の大軍が迫っていると察知すれば、
ほかの魔族勢力に援軍を求める可能性があります。
ですから、情報が広まる前に動かなければなりません」
第三王子は地図を見つめ、それ以上は何も尋ねなかった。
だが、エリオスはゆっくりと目を伏せた。
今回の遠征は、どうやら最初から、相手に考えたり対応したりする時間をほとんど与えるつもりがないらしい。
すべてが順調に進めば、それは見事な勝利となるだろう。
もし、うまくいかなければ――
戦争が本当に厄介なものになる前に、終わってくれることを願うしかない。
エリオスは顔を上げ、第三王子を見た。
彼もまた地図を見つめていた。
その表情は、珍しく険しい。
やがて、第三王子は頷いた。
「分かった」
伯爵夫人も、それ以上は何も言わなかった。
「では、予定どおり、明日の早朝に出発することにしましょう」




