第38話 勇者、国境へ進む
翌日の早朝、遠征軍は再び城門の外に集まっていた。
馬の準備はすでに整い、兵士たちも隊列を組み直している。
一晩ゆっくり休んだことで、皆の顔色は昨日よりもずっと良くなっていた。
ただし、エリオスは馬上で、大きなあくびをした。
第三王子が隣から顔を向ける。
「昨日はちゃんと休んだんじゃなかったのか?」
「休みましたよ」
エリオスはもう一度あくびをする。
「ただ、伯爵様に捕まって、
一晩中話し相手をさせられたんです」
第三王子が目を瞬かせた。
「……一晩中?」
「ええ」
エリオスは少し考える。
「正確に言うと、伯爵様がずっと喋っていて、
俺はずっと眠たがっていたって感じですけど」
「それで?」
「眠りかけるたびに、起こされました」
エリオスは突然、目を見開いた。
「もしかして、これが拷問ってやつですか?」
第三王子は、とうとう吹き出した。
「そんな拷問があってたまるか」
二人が話していると、伯爵も屋敷から出てきた。
隊列の前まで歩いてくると、まず第三王子へ向かって一礼する。
「第三王子殿下。この先も長い旅路となります。
どうか道中、お身体には十分お気をつけください。
殿下の武運長久と、無事のご帰還をお祈り申し上げます」
第三王子はわずかに頷いた。
「ありがとう、伯爵」
エリオスは隣でしばらく待っていた。
「……俺は?」
伯爵がエリオスを見る。
「お前には聖女の加護があるから必要ない」
エリオスはたちまち頬を膨らませた。
「ひいきだ」
だが、これ以上伯爵と言い争う気にもなれず、
第三王子と団長へ顔を向ける。
「行きましょう」
「はっ」
隊列が出発の準備に入る。
エリオスが馬を進めようとした、その時だった。
背後から、再び伯爵の声が届いた。
「エリオス」
エリオスが振り返る。
伯爵の表情は、先ほどまでの厳しいものとは違っていた。
「聖女の祝福があるのなら……」
伯爵は一度、言葉を切る。
「必ず無事に帰ってこい」
エリオスは伯爵を見つめた。
返事はしなかった。
ただ、静かに頷く。
そして、馬の腹を軽く蹴った。
馬が前へ駆け出す。
第三王子と団長も、すぐに後へ続いた。
遠征軍はゆっくりと、エルウィン伯爵領を離れていく。
騎士たちが先頭で道を切り開き、歩兵と騎兵がその両側に並ぶ。
後方には補給用の荷車が続いていた。
城門の両脇に立つ兵士たちは、遠ざかっていく隊列を見送っている。
街中の人々も、次々と足を止めていた。
やがて、街の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
エリオスは一度だけ、後ろを振り返った。
もう伯爵の姿は見えない。
エリオスは前へ向き直り、そのまま馬を進めた。
しばらく進んだところで、第三王子が口を開いた。
「何かしたのか?
伯爵がずいぶん機嫌よく見えたが」
「どうしてそう思うんです?」
「そうでなければ、どうしてわざわざ一日長く滞在した?」
エリオスは第三王子をちらりと見る。
「そんなことないですよ」
「本当に?」
「本当です」
エリオスは何食わぬ顔で前方を見つめた。
「ついでですよ、ついで」
第三王子はエリオスを見たが、それ以上は追及しなかった。
前方には、国境へと続く道がどこまでも伸びている。
現在の行程どおりに進めば、国境要塞まではあと二日ほどの道のりだった。
――◇――
魔王城。
ヴィラは、相変わらず机の上に積まれた書類を処理していた。
その時、部屋の扉が開き、半人馬の青年が早足で入ってくる。
彼は机の前で足を止めた。
「陛下」
ヴィラは顔を上げない。
「人間側から新しい報告は?」
「はい」
半人馬の青年は頷いた。
「現在、国境要塞にはおよそ二千人の兵士が集結しています。
先行部隊はすでに出発し、西境領主の領地へ向けて進軍中です」
「現在の速度で進めば、早ければ五日以内に鬼族と接触する見込みです」
ヴィラの手にしていたペンが止まった。
「西境領主のほうは?」
「まだ報告はありません」
半人馬の青年は一拍置く。
「すでに複数の鬼族が自ら西部へ向かい、
領主を説得しようとしていますが、
今のところ返答はないとのことです」
ヴィラはわずかに眉を寄せた。
「……まだ態度を決めるつもりはないのか」
「はい」
半人馬の青年は手元の書類をめくる。
「それと、もう一つ報告があります。
人間側の主力部隊は、まだ国境要塞に到着していないようです」
ヴィラが顔を上げた。
「まだ着いていない?」
「本来の行軍速度であれば、
すでに要塞の近くまで到達しているはずなのですが……」
ヴィラは一瞬沈黙した。
そして、何かに気づいたように呟く。
「……エリオス」
半人馬の青年がヴィラを見る。
ヴィラは、それ以上何も言わなかった。
ただ、机の上に広げられた地図へ目を落とす。
彼は、本当に彼女の言ったとおりに動いてくれたのだ。
「ほかの地域は?」
「現在、各部族が準備を始めています。
北部の兵力は西側へ移動中。
城内でも、第一回目の物資確認が完了しています」
半人馬の青年は次々と報告を続ける。
「もし人間の先行部隊が本当に五日以内に西部へ到着するのであれば、
おそらく……」
「分かっている」
ヴィラは立ち上がった。
机の上の書類を整え、最後にもう一度、地図へ目を向ける。
「出発する」
半人馬の青年は驚いて目を見開いた。
「今からですか?」
ヴィラはすでに部屋の隅へ向かい、壁に掛けられたマントを手に取っていた。
「ええ」
「陛下自ら、西部へ向かわれるのですか?」
「これ以上遅れれば、間に合わなくなるかもしれない」
ヴィラはマントを羽織り、首元の留め具を締める。
半人馬の青年も慌てて後を追った。
「では、私も――」
「あなたは城に残りなさい」
「ですが……」
ヴィラが振り返る。
「魔王城を誰も守らないわけにはいかないでしょう」
半人馬の青年は足を止めた。
ヴィラは再び前を向き、扉の外へ歩き出す。
「今回は、私一人で行くわ」




