第37話 勇者、伯爵に家族の時間を作る
「今日、出発しなくてもいいですか?」
早朝。
エリオスは兵営前にすでに集まっていた一同を見渡し、開口一番そう言った。
団長、兵営長、伯爵、そして第三王子が、一斉にエリオスを見る。
伯爵はすぐさま眉をひそめた。
「他領から派遣された部隊は、すでに先行して国境要塞へ向かっている。
お前たちが主力部隊だというのに、逆に遅れるわけにはいかんだろう」
「でも、疲れてるんですよ」
エリオスは当然のことのように言った。
「もう一日休んで、英気を養ってから出発したほうがよくないですか?」
団長は一瞬、言葉を失った。
長年エリオスに付き従ってきたが、遠征の途中で本人から休みたいと言い出したのは初めてだった。
普段なら戦闘となれば、真っ先に前へ飛び出していく男だ。
そのエリオスが、今日は自分から疲れたと言っている。
兵営長でさえ、本当に一日延ばすなら、兵営であとどれだけの準備が必要になるかを頭の中で計算し始めていた。
「駄目だ」
伯爵が即座に言い切った。
「今日出発すると決めた以上、お前が疲れたというだけで予定を変えるわけにはいかん」
「でも、一日だけですよ。たった一日」
エリオスは食い下がる。
「駄目だ」
「本当に駄目?」
「駄目だ」
そんなやり取りを繰り返す二人を見て、団長は次第に妙な気分になってきた。
そんな時だった。
第三王子がふいに口を開いた。
「僕は、勇者の言っていることにも一理あると思う」
一同の視線が、再び第三王子へ集まる。
第三王子は平然としていた。
「ここまでずっと急いで来たんだ。
僕たちも、もう一日くらい休んだほうがいい」
そう言って、伯爵を見る。
「それに、せっかくエルウィン伯爵領まで来たんだ。
伯爵も勇者とゆっくり旧交を温めたほうがいいだろう」
伯爵はわずかに目を見開いた。
だが、すぐに礼儀正しく答える。
「殿下、どうか我々のことまでお気遣いなさらず」
「別に、あなたたちを気遣っているわけじゃない」
第三王子は一拍置いた。
「僕も疲れているんだ。
一日休めるのなら、そのほうがいいと思っただけだ」
エリオスは第三王子をちらりと見る。
まさか助け舟を出してくれるとは思っていなかった。
だが、味方が増えたのなら断る理由はない。
「ほら、殿下も休みたいって言ってるじゃないですか」
団長は第三王子を見、それからエリオスを見る。
最後には、諦めたように頭を下げた。
「殿下がそうお考えなら……」
伯爵はしばらく黙っていた。
「……分かった」
そして団長へ向き直る。
「国境要塞へ連絡してくれ。
主力部隊の到着は一日遅れると伝えるんだ」
「はっ」
団長が返事をすると、伯爵はそのまま踵を返して立ち去っていった。
エリオスはその背中を見送り、ほっと息を吐く。
「助かった……」
そして振り返った。
「二人とも、ありがとうございます」
団長がエリオスを見る。
「勇者様がこういうことを言い出すのは珍しいですな」
「たまには昔の場所をゆっくり見て回りたくなることもありますよ」
エリオスは何気なく答えた。
それから、第三王子を見る。
「殿下も、ありがとうございました」
「僕はただ、お前が突然そんなことを言い出したのが怪しいと思っただけだ」
「怪しい?」
「お前が何を企んでいるのか、僕には分からない」
第三王子は少し間を置く。
「ろくでもないことじゃなければいいがな」
エリオスは答えず、そのまま屋敷へ向かって歩き出した。
「じゃあ、安心してください。俺、勇者ですから」
第三王子は遠ざかっていくエリオスの背中を見つめ、それ以上は追及しなかった。
エリオスはしばらく歩いたところで、ようやく顔に浮かべていた気楽な表情を引っ込めた。
一日しか引き延ばせない。
これ以上となると、理由をつけるのが難しくなる。
足を止め、空を見上げる。
朝の空はどこまでも澄み渡っていた。
それは、エリオスの瞳と同じ色をしている。
エリオスは手を上げ、耳飾りにそっと触れた。
「……間に合ってくれよ」
午後。
エリオスは伯爵の部屋を訪れ、扉を軽く叩いた。
「入れ」
伯爵の声を聞き、エリオスは扉を開ける。
執務机に向かっていた伯爵が顔を上げ、エリオスを見る。
「まさか、本当に俺と旧交を温めに来たわけじゃないだろうな?」
「伯爵様が嫌でなければ?」
伯爵はエリオスを見て、ひとつ笑った。
「お前は相変わらずだな。
何も気にしていないような顔をしている」
そう言って、椅子の背もたれに身体を預ける。
「魔族をあっさり退け、失地まであっさり取り戻し、
そのうえ魔王城にまで乗り込む」
エリオスは部屋の隅にある長椅子へ腰を下ろした。
「伯爵様から見て俺がそんな人間なら、
それはそれでいいんじゃないですか?」
すぐに侍従が茶を運んできた。
伯爵も立ち上がり、エリオスの向かいにある長椅子へ腰を下ろす。
エリオスはすぐには茶に手をつけず、通信石を取り出し、掌に乗せた。
「実は今日、伯爵様に一つチャンスをあげようと思って」
「チャンス?」
「姉さんと話すチャンスです」
伯爵が目を見開く。
エリオスは通信石に魔力を注ぎ込んだ。
石が次第に淡い光を放ち始める。
しばらくして、向こう側から応答があった。
『エリオス?』
ソフィアの声には、いくらか戸惑いが混じっている。
『連絡が来たって聞いたけど。何かあったの?』
伯爵が勢いよく顔を上げた。
「ソフィア?」
『……お父様?』
ソフィアの声が明らかに変わった。
だが、次の瞬間には再び落ち着きを取り戻す。
『そう。もうエルウィン伯爵領に着いたのね』
エリオスは通信石を見下ろした。
「本当は、父娘でゆっくり話してもらおうと思ったんですけどね。
でも、これってずっと魔力を流し続けないといけないんで、できれば手短にお願いします」
伯爵は、しばらく何も言わなかった。
ただ通信石を見つめている。
まるで、娘の声が本当に目の前から聞こえているという事実を、まだ受け止めきれていないようだった。
やがて、ソフィアが先に口を開く。
『エリオス、どうしてこんなことに魔力を使っているの?』
「仕方ないでしょう」
エリオスはもう片方の手で茶を持ち上げる。
「ここに着いた途端、伯爵様が姉さんのことばっかり聞いてきたんですよ。
だったら、いちいち聞くより直接話してもらったほうが早いかなって」
『お父様です』
「今そこ重要ですか?」
伯爵が小さく咳払いをする。
「お前たち、もういい」
しばらく沈黙したあと、伯爵は低い声で尋ねた。
「ソフィア、元気か?」
向こう側も、一瞬だけ静かになった。
『……はい、お父様』
ソフィアの声が柔らかくなる。
『元気です。
ただ、最近は色々と忙しくて、
なかなか戻ってお父様たちに顔を見せることもできなくて……
ごめんなさい』
伯爵は首を横に振った。
向こうからは見えていないと分かっているのに、それでもそうした。
「聖女としての務めのほうが大事だ。
俺たちのことは心配しなくていい」
「昨日はそんなこと言ってなかったですよ」
エリオスがすかさず口を挟む。
「エリオス」
伯爵の声が低くなる。
だが、ソフィアは笑った。
ほんの小さな笑い声だった。
エリオスは一瞬、目を見開く。
姉がこんなふうに笑うのを聞くのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
『ありがとう、エリオス』
ソフィアの声が、再び優しくなる。
『お父様の声が聞けただけで、私はもう十分嬉しいわ。
みんなが無事だと分かったから、それだけで安心した』
一度、言葉を切る。
『だから、もう魔力を無駄に使わないで』
「待て」
伯爵が突然口を挟んだ。
「もう一つ聞きたいことがある」
『何でしょう、お父様?』
伯爵は姿勢を正した。
「……好きな人はいるのか?」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
エリオスは手にした茶杯を運びかけたまま、動きを止めた。
向こう側もしばらく沈黙していた。
『……どうして今、それを聞くの?』
「お前も、もういい歳だ」
伯爵の口調はいたって真剣だった。
「そろそろ自分のことも考えたほうがいい。
このまま先延ばしにしていたら、そのうち誰にも相手にされなくなるぞ」
エリオスはゆっくりと茶杯を卓上へ戻した。
ソフィアも、しばらく言葉を失っているようだった。
やがて、静かに口を開く。
『私は今、ただ一心に、勇者様が無事に凱旋されることを祈っています。
だから、お父様。どうか安心してください。
それでは、これで失礼します』
通信石の光が、ふっと消えた。
部屋が静まり返る。
伯爵が勢いよく手を伸ばし、エリオスの手首を掴んだ。
「もう一度、繋げ!」
「もう切れました」
「もう一度だ!」
「俺のほうから切ったんじゃないですよ」
エリオスは、すっかり光を失った通信石を振ってみせる。
「姉さんのほうの魔力が切れたんです。
今はもう繋げられません」
伯爵はその場で固まった。
しばらくして、ゆっくりと椅子の背もたれに身体を預ける。
「……」
見るからに落ち込んでいる。
エリオスはそんな伯爵を一瞥した。
「伯爵様のせいですよ」
「俺のせい?」
「聞けることは他にも山ほどあったでしょう。
それなのに、なんで好きな人なんて聞くんですか」
伯爵は答えなかった。
エリオスは黙って通信石を懐へしまう。
「こんなことなら、話させなきゃよかった」




