第36話 勇者、第三王子と語る
第三王子の指が剣の柄に触れ、慎重に握り込む。
聖剣は、何の異変も起こさなかった。
ただ、重い。
想像していたよりも、ずっと重かった。
第三王子は無意識に、手に込める力を強めた。
その瞬間だった。
剣の柄が、ふっと沈む。
――カラン。
聖剣が手から滑り落ち、石畳の上に転がった。
エリオスは一瞬呆気に取られ、すぐに腰を屈めて剣を拾い上げる。
「悪い。手が滑った」
もう一度、剣を差し出す。
だが、第三王子は手を引いた。
「……やっぱり、いい」
「もう試さないんですか?」
「いい」
第三王子は自分の手を見る。
「僕は普通の剣ですら扱い慣れていない。
たぶん、また落とすだろう。これ以上傷をつけるのもよくない」
そして、エリオスの手にある聖剣へ視線を向け、眉をわずかに寄せる。
「お前、ちゃんとそれを大事に保管しろよ」
「分かってますよ」
「なら、そう簡単に地面へ落とすな」
「だから、手が滑ったんだって」
エリオスは呆れたように第三王子を見る。
それから剣の柄を握り、軽く振った。
聖剣がエリオスの手の中で滑らかな弧を描く。
ほとんど勢いを殺すことなく、そのまま鞘へ収まった。
「だから俺、こいつを戦いに使わないことで、ちゃんと大事にしてるんですよ」
「それのどこが理屈になっているんだ?」
エリオスは反論しなかった。
ただ、腰に下げた聖剣へ目を落とす。
「でも俺、ずっと思ってるんですよ。
覚悟さえ決まってれば、誰でも持てるんじゃないかって」
第三王子がエリオスを見る。
「覚悟?」
「そう。剣を持つ人間が覚悟も持てないなら、そんな奴が剣を持ったって意味ないでしょう」
第三王子はしばらく黙っていた。
「……お前の考え方は、本当に変わっているな」
「そうですか?」
エリオスは腰の聖剣に手を触れる。
「俺は普通だと思いますけど。
だからこそ、勇者って呼ばれるんじゃないですかね」
第三王子はエリオスを見つめたまま、何か言いたげな様子を見せる。
その視線に気づいたエリオスは、思わず半歩後ずさった。
「……殿下、そんなに俺を見つめられると、なんだか嫌な予感がするんですけど」
第三王子は、エリオスの言葉を無視した。
「ただ、お前と伯爵の関係は、僕が思っていたほど親しいものではないようだな。
さっき食事をしていた時も、伯爵が尋ねていたのは聖女のことばかりだった。
お前のことは、ほとんど聞いていなかった」
「そうですね」
エリオスはあっさりと頷いた。
第三王子は眉をひそめる。
「何とも思わないのか?」
エリオスはしばらく第三王子を見た。
そして、ふと思いついたように問い返す。
「じゃあ、殿下は?」
「何?」
「殿下と陛下の関係も、あまり良くないんですか?」
第三王子の表情が、一瞬にして変わった。
「お前……」
怒りを露わにしかけたものの、次の瞬間には、その感情を無理やり押し込めるように息を吐いた。
しばらく沈黙したあと、むしろ小さくため息をつく。
「……やっぱり、お前には何も隠せないな」
「だって、分かりやすいですから」
「お前は本当に、物をはっきり言うな」
エリオスは東屋の脇まで歩いていき、腰を下ろした。
第三王子も、その隣に座る。
夜風が林の中を吹き抜け、木々の葉がさらさらと細かな音を立てていた。
「俺が十五歳の時、聖女に連れられて初めて王都へ来た」
エリオスは前を見つめたまま、淡々と語る。
「王国としては、勇者に少しでも箔のついた身分を与える必要があった。そ
れで伯爵が俺を引き取ったんです」
そこで一度、言葉を切る。
「何しろ、伯爵は聖女の父親ですからね。
俺みたいな『勇者』まで一緒に引き取るしかなかったんでしょう」
第三王子は口を挟まない。
「結局のところ、あの頃の俺は、伯爵にとってまた一人増えた厄介事だったんじゃないですかね。
それも、勇者なんていう厄介事が」
第三王子の目が、わずかに動いた。
「国王が奪還した土地をエルウィン家に与えたのと同じようなものか。
表向きは褒賞だが、実際には王国のために国境を守らせる……
そういうことなのか?」
エリオスは答えなかった。
ただ顔を上げ、夜空を見上げる。
第三王子は、そんなエリオスの横顔を見つめた。
「それで、お前はどう思っている?」
エリオスが振り向く。
「何がです?」
「そのことだ」
「どのこと?」
第三王子は少し黙った。
そして、静かに問いかける。
「勇者になったことを……
お前は一度も、面倒だとか、重荷だとか思ったことはないのか?」
エリオスは一瞬、呆気に取られた。
第三王子を見つめ、しばらくしてから口を開く。
「確かに、聖女が俺を見つけたのは神託があったからです。
でも、彼女と一緒に王国へ戻ると決めたのは、俺自身ですよ」
エリオスは第三王子をまっすぐに見つめる。
「だって、俺にもやりたいことがありましたから」
第三王子はエリオスを見つめた。
その視線は、わずかに吊り上がったエリオスの口元に留まっている。
「お前は……いつも、どんなことでも軽く言ってしまうんだな」
エリオスは一瞬、目を瞬かせた。
そして、本当におかしそうに笑った。
「そうですか?」
第三王子はただエリオスを見つめていた。
やがて、もう一度尋ねる。
「なら、お前がやりたいことというのは何だ? 魔王を倒すことか?」
エリオスの指が、耳元の黒い耳飾りへ触れた。
「魔王を倒せば、本当の平和がもたらされるっていうなら……」
一度、言葉を止める。
「まあ、それでいいんじゃないですかね」
そう言って、エリオスは立ち上がった。
「さて、俺も本当にちょっと疲れました」
大きく伸びをする。
「そろそろ戻って寝ましょう」
第三王子も立ち上がった。
二人は並んで東屋を出る。
少し歩いたところで、第三王子が再び口を開いた。
「そういえば、お前は伯爵家に住み始めた頃、ちゃんと馴染めたのか?」
エリオスは少し考える。
「無理でしたね。
でも、まあ、生きていくための術は多少覚えました」
「生きていくための術?」
「例えば、貴族との付き合い方とか。
王都で面倒事を起こさない方法とか」
第三王子は少し黙った。
やがて、口元がわずかに上がる。
「それでは、伯爵家の教育もまだまだ改善の余地があるな」
エリオスはすぐさま振り向いた。
「俺、かなり頑張ったんですけど」
「そうなのか?」
「本当ですよ」
「……」
第三王子は、エリオスの妙に真剣な顔を見つめる。
そして、また小さく笑った。
夜の闇の中、二人の足音が少しずつ遠ざかっていった。




