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勇者は魔王討伐より、魔国づくりで忙しい。  作者: 雪沢 凛


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第35話 勇者、聖剣を第三王子に

 ようやく夕食を終えると、エリオスは第三王子にそれらしい理由をつけた。


「殿下も今日は一日中お疲れでしょう。

 明日も早いですし、今夜はもう休んだほうがいいですよ」


 第三王子は反対しなかった。

 伯爵も二人を見て、それ以上引き止めようとはしない。


「そうだな。明日も早起きしなければならない。今日はもう休むといい」


 エリオスは内心ほっとした。

 このまま質問が続いていたら、ソフィアが最近やったことを一から十まで説明する羽目になっていたかもしれない。


 食堂を出る前、ふと思い出して伯爵を振り返る。

「そういえば、伯爵夫人は?」


 伯爵が顔を上げる。

「国境要塞にいる。あちらも色々とやることがあるからな。

 しばらくは向こうにいる予定だ。二日もすれば、お前も会えるだろう」


 エリオスは頷いた。

「それは大変ですね」


 その言葉を聞いて、傍らにいた第三王子が意外そうな顔をした。

「伯爵夫人が国境要塞の仕事を?」


「そうだ」

 伯爵は淡々と答える。

「ここ数年は何かと忙しくてな。

 私たちも、それぞれ別れて仕事を片付けるしかない」


 第三王子は何かを考えるように頷いた。

「なるほど」


 簡単に挨拶を交わすと、三人はそれぞれの部屋へ戻った。


 エリオスは自室へ戻り、扉を閉める。

 まず正式な服を脱ぎ、動きやすい軽装へ着替えた。

 そして部屋を出ようとしたところで、ふと視線が傍らの聖剣へ向いた。


「……これも置いていくわけにはいかないか」


 聖剣がなくなったとなれば、また大騒ぎになるだろう。

 仕方なく、聖剣も腰に吊るす。

 元々の愛用の剣と合わせて二本。

 さすがに少々動きづらい。


 エリオスは腰元を見下ろした。

「……まあ、仕方ないか」


 窓辺へ歩み寄り、窓を開ける。


 三階の部屋。

 普通の人間なら問題になる高さだが、エリオスにとっては大したことではない。


 窓枠を乗り越え、そのまま飛び降りる。

 地面へ落ちる直前、足元の魔力が僅かに揺らいだ。

 風魔法が身体を受け止め、落下の勢いを殺す。

 両足が地面へ静かに着いた。


 エリオスは一度窓を見上げ、誰にも気づかれていないことを確認すると、そのまま屋敷の裏手にある林へ向かった。


 夜の闇が庭園を包んでいる。

 屋敷の明かりから離れると、周囲はすぐに静かになった。

 聞こえるのは、夜風に揺れる木々の葉音だけ。


 エリオスが林の中へ入ってしばらくすると、足を止めた。

 頭上の枝に、小さな黒い影が逆さまにぶら下がっている。


 小蝙蝠だ。

 身体を縮めて、かなり前から待っていたらしい。


 エリオスは顔を上げる。

「やっぱり戻ってきたか」


 手を伸ばす。

「大したもんだな。俺が伯爵邸に来るって分かって、ここまで来たのか?」


 小蝙蝠は声が聞こえたのが分かったのか、小さく翼を動かした。

 エリオスが一歩近づき、その身体を掌に受け止める。

 以前よりも、さらに疲れているようだった。


 エリオスは小蝙蝠を見つめる。

 さっきまで浮かべていた気楽な表情が、徐々に消えていった。


 ようやく戻ってきた。

 つまり、ヴィラは自分の伝言を受け取ったのだ。

 ならば、彼女はどう答えたのか。


「……よし」

 一度、深く息を吸う。

「聞かせてもらおうか。あいつは何て言ってた?」


 小蝙蝠の背を撫でる。

 次の瞬間、馴染み深い声が魔力の中から響いてきた。


『エリオス』

『行軍予定なら、今頃はもうエルウィン伯爵領に着いている頃でしょう?』


 ヴィラの声が一度途切れる。


『だから、あの子にはそこで待っていてもらった。

 もし本当にそこを通るのなら、きっと会えると思って』


 エリオスは掌の小蝙蝠を見つめた。

 やはり、そこまで読んでいたか。


『あなたからの伝言を受け取って、すぐに会議を開いたわ』


 ヴィラの声が徐々に真剣なものへ変わっていく。


『西境領主を人間に討たせるわけにはいかない』

『すでに人を西部へ向かわせた。まずは向こうの状況を確認させている』

『あなたが国境要塞へ着く頃には、さらに詳しい報告が届いているはずよ』


 そこで、僅かに間が空く。


『それまでは、できる限り時間を稼いでほしい』


 エリオスは何も言わず、静かに聞いていた。

 つまり、ヴィラたちはすでに動き始めている。

 少なくとも、自分が送った情報は無駄ではなかった。


 魔力の光が僅かに揺れる。

 再びヴィラの声が響いた時、その声は先ほどより少しだけ低くなっていた。


『それから……』

 ヴィラの声が途切れる。


『ちゃんと自分の身体を大事にして』

 すぐに言葉が続いた。

『別に、あなたのことを心配しているわけじゃないから』

 急に早口になる。

『ただ、人間の身体は脆いでしょう。

 少し気をつけないだけで簡単に病気になる。

 こんな時に倒れたら、周りに迷惑をかけるだけだから』


 そこまで言って、再び少しの沈黙。

 そして、小さな声で呟く。


『……この一言は、記録しないほうがいいわね』


 エリオスの口元が僅かに緩んだ。


『とにかく、そういうことだから……』

 彼女の声が、どこか落ち着かなくなる。

『またね』


 魔力の光が、徐々に薄れていく。

 エリオスは小蝙蝠を見下ろし、無意識に耳元の黒い耳飾りへ指を触れた。

 胸の奥が、なぜか少しだけ温かくなる。


「……分かったよ」

 それ以上は何も言わず、小蝙蝠をそっと持ち上げる。

「ご苦労さん。帰っていいぞ」


 小蝙蝠は翼を羽ばたかせ、飛び立った。

 小さな影は夜空へ舞い上がり、やがて魔国の方角へ消えていった。


 エリオスはその姿を見上げる。

 その時だった。

 背後の林道から、かすかな物音がした。


「……?」


 すぐに誰かが近づいていることを察する。

 エリオスは振り返らず、そのまま林道の反対側へ歩き出した。


 少し先に、東屋がある。

 そこまで行くと、腰の剣を抜き、何食わぬ顔で剣の稽古を始めた。

 剣先が夜闇を切り裂き、かすかな風切り音が響く。


 やがて、背後から声がした。

「やはりここにいたか」


 エリオスは剣を振るう動きを止めない。


「お前の部屋へ行って扉を叩いたが、返事がなかった」

 第三王子の声だ。

「だから、どうせまた抜け出したのだろうと思った」


 そこでようやく、エリオスは動きを止めた。

 振り返り、額の汗を手の甲で拭う。

 まるで今初めて相手に気づいたかのような顔を作った。


「殿下? こんな夜中に、俺に何か用ですか?」


 第三王子の口元に、珍しく笑みが浮かぶ。

「別に。ただ、自分の推測が正しかったと確かめたかっただけだ」


「……何の推測です?」


「お前はいつも、一人でこっそり抜け出すのが好きなんだな」


 エリオスは首を傾げた。

「なんで『いつも』なんです?」


 第三王子は答えなかった。

 その視線が、エリオスの手にある剣へ落ちる。


「こんな時間に、なぜ稽古をしている?」


 エリオスは手元を見下ろした。

 そこで初めて、自分が抜いたのが聖剣だったことに気づく。


「あ」

 そのまま軽く剣を翻す。

「久しぶりに抜いたからな。少し感覚を取り戻そうと思って」


 第三王子の視線が剣身に留まる。

「普段は使わないのか?」


「ほとんど使わないな」


「だが、それは聖剣だろう?」

 第三王子の表情に、少しばかり好奇心が浮かぶ。

「伝説では、認められた勇者にしか抜けない剣。

 そして、強大な聖なる力を持つ。

 魔族を討つのなら、最も適した武器のはずだ」


 彼はエリオスを見る。

「使わないのは、聖なる力が足りないからか?」


「分からない」

 エリオスは手にした剣を見下ろした。

「俺自身、特に何も感じないんだ」


「聖なる力がない?」


「少なくとも、俺には感じられないな」


 少し考えた後、エリオスは突然剣を反転させ、柄を第三王子へ向けた。

「だったら、殿下も試してみます?」


 第三王子が明らかに戸惑う。

「僕が?」


「ええ」


「認められた勇者にしか扱えないのだろう?」


「実際に試してみないと分からないでしょう」


 第三王子は聖剣を見、それからエリオスを見る。

「お前も、あの時聖台からこの剣を抜いたことで、勇者として認められたのだろう?」


「まあ、そういうことになってるな」

 エリオスは頷く。

「でも、殿下は今まで試したことないんですよね?」


「……ない」


「じゃあ、ちょうどいいじゃないですか」


 エリオスはもう一度、剣を差し出した。

 第三王子の視線が剣の柄へ落ちる。

 しばらく黙り込み、本当に少しだけ心が動いたようだった。


「……触るだけでも、いいのか?」


「もちろん」


 第三王子はゆっくりと手を伸ばす。

 指先と剣の柄の間は、あとわずかだった。

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