第34話 勇者、伯爵と再会する
エルウィン伯爵領が、徐々に一行の前へ姿を現した。
数日間にわたる行軍を終え、城門が見えてくると、兵士たちの表情には明らかに安堵の色が浮かんだ。
「やっと着いた」
「今度こそ、ゆっくり休めるな」
隊列はゆっくりと城内へ入っていく。
通りの両脇では店が次々と灯りをともしており、荷物を運ぶ馬車が行き交っている。
時折、領地の兵士が巡回している姿も見えた。
エルウィン伯爵領は辺境に位置しているものの、街は想像していた以上に賑わっていた。
もともと各地を結ぶ重要な街道沿いにあり、商人や旅人の往来も多い。
軍隊が出入りすることも、今では珍しいことではない。
遠征軍が到着したからといって、街が特別に騒がしくなることもなかった。
ただ、道行く人々がいつもより少し多くこちらを見ている。
ほどなくして、隊列は領地から派遣された者たちと合流した。
「遠征軍の宿営場所は、すでに手配しております」
兵営長が団長へ一礼する。
「皆様は、そのまま兵営へ向かってお休みください。
馬の世話もこちらで引き受けます」
「ご苦労」
「我々の務めですから」
団長は頷くと、すぐに後ろの兵士たちへ命じた。
「まずは兵営へ向かえ。今夜は訓練も行わなくていい」
兵士たちはすぐに返事をする。
「はい!」
疲れ切った一行はすぐにいくつかの班へ分かれ、それぞれの宿営地へ向かっていった。
その場に残ったのは、エリオスと第三王子だった。
「殿下、伯爵邸へ行きましょう」
第三王子が頷く。
二人は領地側が用意した馬車に乗り込んだ。
馬車は街道をゆっくりと進んでいく。
エリオスはカーテンを少し開け、外の街並みを眺めた。
「ここも、この数年で随分変わったな」
第三王子も窓の外へ目を向ける。
「辺境領の商業は、かなり栄えているようだな」
「行き来する人が多いですからね」
第三王子が彼を見る。
「以前にも来たことがあるのか?」
エリオスはカーテンを戻した。
「何度か。遠征の時に、ここで補給することもありました」
少し考えてから続ける。
「最初の頃は領地の問題をいくつか片付けたりもして、しばらく滞在していたこともあります」
第三王子は頷き、それ以上は尋ねなかった。
馬車はほどなく賑やかな街区を抜け、伯爵邸へと向かっていく。
やがて、屋敷の大きな門が見えてきた。
侍従たちはすでに門前で待っていた。
「第三王子殿下、勇者様」
二人が馬車から降りる。
「夕食の準備は整っております」
「それはありがたい」
エリオスが先に屋敷へ入っていく。
食堂には、長いテーブルいっぱいに湯気の立つ料理が並べられていた。
何日も行軍を続けてきたせいか、料理を目にしたエリオスの目が明らかに輝く。
「うまそうだな」
そう言ったところで、第三王子の視線もテーブルの料理へ向いていることに気づいた。
特に中央に置かれたロースト肉から、なかなか目を離せないようだ。
本人はいつも通りの表情を保とうとしているが、視線だけはどうしても肉へ吸い寄せられている。
エリオスは第三王子を見、それからテーブルの上の肉を見る。
「殿下も楽しみにしてたんですね」
第三王子はすぐに視線を逸らした。
「……行軍中の食事が簡素だっただけだ」
「分かってますよ」
エリオスは彼を見て笑う。
「だから、今夜は遠慮なく食べてください」
食堂の奥から足音が聞こえてきた。
エルウィン伯爵が入ってくる。
まず第三王子へ一礼した。
「第三王子殿下、エルウィン伯爵領へようこそお越しくださいました」
「伯爵、そう堅くならなくていい」
第三王子が答える。
伯爵はそこで初めてエリオスへ目を向けた。
二人はしばらく無言で見つめ合う。
「帰ってきたか」
「はい、伯爵様」
伯爵はエリオスを一度上から下まで眺め、それから淡々と言った。
「今回はまた、どんな厄介事を連れて帰ってきた?」
エリオスは一瞬きょとんとした。
すぐに隣の第三王子を見る。
「えっと……第三王子ですか?」
食堂が一瞬で静まり返った。
第三王子の表情も固まる。
そばにいた侍従まで、思わず俯いた。
伯爵はしばらく沈黙した。
「……まずは食事にしよう」
皆が順番に席へ着く。
侍従が酒や水を注ぎ、エルウィン伯爵も上座へ腰を下ろした。
エリオスがようやく食器を手に取った、その時だった。
「ソフィアは?」
エリオスの手が止まる。
「今回は、なぜ一緒に遠征へ来ていない?」
「教会が王都に残るように決めたからです」
「本人も納得しているのか?」
「たぶん」
「最近、体調はどうだ?
相変わらず毎晩遅くまで教会にいるんじゃないだろうな?
食事は?
また忙しすぎて食べるのを忘れたりしていないか?」
エリオスは、やはり来たかと思った。
何も答えず、スープを見る。
「いい匂いですね」
伯爵は構わず続ける。
「病気にはなっていないだろうな?」
「……こっちの付け合わせも美味しそうだ」
「エリオス」
「はい?」
「私はお前に聞いているんだが」
「分かってますよ」
エリオスはスープを一口すくい、真剣に味わう。
「これ、すごく美味しいです」
隣に座る第三王子は、二人の会話がどんどん噛み合わなくなっていく様子を黙って見ていた。
伯爵は眉を寄せる。
「最近、教会はまたあいつに何をさせている?」
「殿下」
エリオスが突然、第三王子へ顔を向けた。
「何か食べないんですか? それとも疲れて食欲がない?」
第三王子は一瞬呆気に取られ、それから食器を手に取った。
「……問題ない」
「それならよかった」
エリオスは再び自分の食事へ目を戻す。
伯爵はそんな彼を見つめる。
「ソフィアは最近のことを、お前に何か話していないのか?」
「少しは」
「何を?」
「えーと……」
エリオスは考える。
「最近、王都の天気はいいって言ってました。
でも、俺たちが出発した時には雨でしたね」
伯爵が黙った。
第三王子も黙った。
侍従は何食わぬ顔を保とうと必死になっている。
だがエリオスは、すでにテーブルの上のロースト肉を研究し始めていた。
「これも美味しそうだな」
「エリオス」
「はい?」
「お前、私の話を聞いているのか?」
「聞いてますよ」
エリオスは顔を上げ、真剣な表情で答える。
「姉さんのことを聞いてるんですよね」
「……」
「ちゃんと答えてます」
伯爵は彼を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、再び口を開く。
「ソフィアは……故郷が恋しくないのか?」
エリオスは少し考えた。
「前に、たまには帰ってきてくれって言われました」
伯爵の表情が少しだけ緩む。
「そうか……」
小さく呟くと、再び食器を手に取った。
「今回、遠征の準備で忙しくなければ、私が王都まで会いに行っていたんだがな」
エリオスはちらりと伯爵を見る。
だが伯爵はすでに俯いて食事を始めていた。
まるで、今の言葉など何もなかったかのように。
第三王子は、とうとう耐えきれず横を向いた。
伯爵の矢継ぎ早の質問を、ここまで完全に会話として成立しないものへ変えてしまう人間を、彼は初めて見た。
そしてエリオスはというと、すでにすっかり慣れた様子で、黙々と肉を一切れ切り分け、口へ運んでいた。




