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勇者は魔王討伐より、魔国づくりで忙しい。  作者: 雪沢 凛


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第33話 魔王、勇者の声を聞く

 魔王城では、ヴィラが相変わらず山のように積まれた公文書を処理していた。


 ここ数日、王国の異常な軍の動きによって、各地の兵力と防衛線を改めて確認する必要が生じている。

 そのため、机の上の地図にも普段より多くの印が書き込まれていた。


 領主から送られてきた報告書を一枚めくった、その時だった。

 廊下から、慌ただしい蹄の音が聞こえてきた。

 次の瞬間、扉が勢いよく開かれる。


「陛下!」


 半人馬の青年が、ほとんど駆け込むように部屋へ入ってきた。

 その腕には、小さな黒い影が抱えられている。


 ヴィラは勢いよく顔を上げた。

「どうしたの?」


 半人馬の青年は答えず、そのまま机の前まで歩み寄ると、抱えていた小蝙蝠をそっと机の上に置いた。

 ヴィラの視線がその姿に落ち、瞳がわずかに見開かれる。


「……小蝙蝠?」


 翼は力なく垂れ、身体も小刻みに震えている。

 明らかに疲労の限界に達していた。


 ヴィラはすぐに立ち上がった。

「何か届いたの?」


「そのようです」

 半人馬の青年は息を切らしながら頷く。

「外で見つけた時には、もう飛べなくなっていました」


 ヴィラは手を伸ばし、小蝙蝠をそっと掌に乗せる。

「……お疲れさま」


 優しくその背を撫でる。

 すると、掌から馴染み深い魔力の気配が伝わってきた。

 次の瞬間、小蝙蝠の身体が淡い魔力の光を帯びる。


『ヴィラ』


 低い声が、その身体から響いた。

 ヴィラの身体が一瞬、固まった。


 本当に、彼の声だった。

 無意識に指先へ力がこもる。


「……うん」


 もちろん、返事が返ってくるわけではない。

 そこに残されているのは、魔力に込められた声だけだ。

 それでも、ヴィラは思わず答えていた。

 やがて、エリオスの声が少しずつ流れ始める。


『俺はもう王都を出た』

『国王が命じた。俺が軍を率いて、魔国西部へ向かい、そこの領主を討伐する』


 ヴィラの眉がゆっくりと寄る。


『今回は、今までとは違う』

『第三王子を連れて行くことになった。王都の騎士団も同行する。

 それに、途中の各領地から派遣される部隊を合わせれば、国境要塞に着く頃には三千人ほどになるはずだ』


 半人馬の青年の表情も険しくなる。

「そんなに……」


 ヴィラは答えず、そのまま聞き続けた。


『十日後にはグレイス国境要塞へ到着する予定だ。

 その後、正式に魔国へ入る』


 ヴィラは小蝙蝠を見下ろした。

 これはもはや、いつもの勇者による掃討戦ではない。

 一つの本格的な遠征軍だ。


 エリオスの声が少し低くなる。


『だから、先に君の考えを聞きたい』

『西境領主は、今まで一度も君を本当の意味で認めていない。

 もし人間が本当にあいつを攻めるなら、どう動くのか俺には分からない』


 ヴィラの視線が机の上の地図へ落ちる。


 西部。


 自分の支配を受け入れていなかったあの領主が、今や王国の遠征軍にとって最初の標的になっている。


『そっちは……何かするつもりなのか?』

『何か俺が知っておいたほうがいいことがあるなら、こいつに持たせて返してくれ』

『君からの返事を待っている』


 ヴィラの指が、わずかに強く小蝙蝠を包む。

 彼は、本当に自分の返事を待っている。

 最後に、馴染み深い声が少しだけ柔らかくなった。


『それと、俺のことは心配するな』

『今のところ、全部順調だ』


 ヴィラは一瞬、呆然とした。

 胸の奥を何かがそっと撫でたような気がした。


 彼は、自分が何日も連絡を受け取れず、きっと心配していると分かっていたのだろう。

 だから最後にわざわざこの一言を残して、自分が無事だと伝えてくれた。


 ヴィラは小蝙蝠を見つめ、知らず知らずのうちに口元を緩めた。


「……もう」


 魔力の光が、徐々に安定していく。

 半人馬の青年が彼女を見る。


「陛下?」


「何でもない」

 ヴィラは小さく首を振った。


 少なくとも、彼は今、無事だ。

 それに――

 彼は、自分の返事を待っている。


 ヴィラは顔を上げた。

「各族の長に知らせて」


 半人馬の青年の表情が引き締まる。

「はっ」


「緊急会議を開く」

 彼女の視線が、机の上の地図へ落ちる。

「王国の目的が確認できた」


 指先が、地図の西側を示した。

「西境領主よ」


 ――◇――


 王国の遠征軍がハドソン領を離れてから、さらに数日が過ぎた。


 最初の数日間に続いた豪雨と比べれば、その後の道程はずっと穏やかだった。

 食糧と飲み水も補給できたことで、軍もようやく本来の行軍速度を取り戻している。


 途中、群れからはぐれた魔獣が森から飛び出してくることもあったが、脅威と呼べるほどのものではない。


 千人規模の軍勢に加え、勇者であるエリオスまでいるのだ。

 兵士たちが陣形を整える間もなく、魔獣はあっさりと片付けられてしまう。


 何度か小規模な戦闘を繰り返すうちに、兵士たちの中には、むしろそれが旅の途中で数少ない気分転換になっている者までいた。


「前方は、エルウィン伯爵領です」

 団長の声が聞こえてきた。


 エリオスは顔を上げる。

 遠くの丘の向こうに、町の輪郭がぼんやりと見え始めていた。


 第三王子は、もうあの重たい鎧姿ではない。

 今は動きやすい軽装に身を包んでいる。


 彼はエリオスを見る。

「故郷が近いな」


 エリオスは一瞬きょとんとし、それから笑った。

「故郷ってほどでもないですけどね」


「なぜ? ここは国王陛下がエルウィン伯爵家に与えた領地だろう?」


「そうですね」

 エリオスは遠くを見つめる。

「でも、ここは俺を育ててくれた場所じゃありませんから」


 第三王子がわずかに眉を寄せる。

 すると、隣にいた団長が言葉を挟んだ。


「この土地は、勇者様がかつて奪還したものです。

 陛下がエルウィン伯爵一家を褒賞するため、正式に伯爵へ与えられた領地になります」


 隊列の中から、兵士の一人が思わず小声で呟いた。


「褒賞っていうより……エルウィン伯爵一家を辺境に縛りつけるためだったんじゃないか」

「よせ」


 近くにいた者たちが、途端に口を閉ざした。

 だが、エリオスは気にした様子もない。


「確かに、新しい土地ではありますね」

 彼は遠くに見える町を眺める。

「考えてみれば、まだ四年くらいですか」


 第三王子が彼を見る。

「では、ここを故郷だと思っているのか?」


 エリオスは少し考えてから、ふっと笑った。


「場所は新しくても、エルウィン伯爵は一応、俺の養父ですからね。

 そう考えれば、今回の遠征で一度立ち寄るのも悪くないでしょう」


 第三王子はすぐには答えなかった。

 ただ、エリオスの顔に浮かんだ笑みを見つめている。


「お前は……いつも、そんなふうに物事を前向きに考えられるんだな」


 声は小さく、ほとんど風に紛れてしまいそうだった。

 エリオスが顔を向ける。


「ん?」


「何でもない」


 エリオスは目を瞬かせる。

「兜を脱いだのに、殿下の言ってることが聞き取れないんですけど?」


 第三王子の顔がわずかに強張り、前方へ視線を戻す。

「速度を上げよう。皆も疲れている」


「分かりました」


 エリオスは軽く馬腹を蹴り、彼の後を追った。

 前方には、エルウィン伯爵領が日に日に近づいていた。

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