↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者は魔王討伐より、魔国づくりで忙しい。  作者: 雪沢 凛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/44

第32話 勇者、川辺で休む

 第三王子は残った隊列を一瞥し、それから中央街道の方角へ目を向けた。


「誰か団長に知らせてくれ」


 傍らの騎士がすぐに頭を下げる。

「はっ」


「先行している騎士と歩兵を、そのままハドソン領へ向かわせろ」

 第三王子は地図を指差した。

「領地に着いたら、全員を休ませる。食糧と飲み水も補給させろ」


 そして、後方に残った糧秣車へ目を向ける。

「ここの糧秣車は、明日、中央街道を通って追いつかせればいい。

 ここで待つ必要はない」


 騎士が頷く。

「では、殿下と勇者様は?」


「残った者たちを連れて後から行く」


 エリオスも地図を見て、頷いた。

「そのほうが確かに早いですね」


 第三王子はそれ以上何も言わず、地図を畳んだ。


「行け」


 騎士は馬に跨ると、すぐに先行した隊列を追っていった。

 命令はすぐに全軍へ伝えられた。


 前方の隊列は足を止めることなく、そのまま進んでいく。

 エリオスと第三王子は残った兵士たちを率い、隊列を整え直してから再び出発した。


 糧秣車が減ったことで、行軍速度は明らかに上がった。

 夕暮れになる頃、彼らはようやくあの泥濘んだ山道を抜けた。

 前方から、せせらぎの音が聞こえてくる。

 林を抜けると、幅の広い川が一行の前に姿を現した。


「今夜はここで休みましょう」

 エリオスは手綱を引き、川面を眺めた。


 二日続きの悪天候に加え、先ほどの山道での一騒動。

 全員がすでに疲れ切っていた。


 ようやく川辺まで辿り着き、ゆっくり休める場所を見つけたことで、兵士たちの張り詰めていた表情もようやく緩んだ。


「まずは野営の準備をさせろ」

 第三王子が傍らの騎士に命じる。


「はっ」


 兵士たちはすぐに天幕を張り、火を起こし始めた。

 ほどなくして、川辺には水音が響き始める。


 何人かの兵士は思い切って上着を脱ぎ、浅瀬へ入って身体についた泥を洗い流していた。

 手ですくった水を頭からかぶる者もいれば、岸辺に座り込み、気持ちよさそうに長い息を吐く者もいる。


 エリオスはしばらくその様子を眺めてから、馬を降りた。


「俺も行こうかな」


 上着を適当に脱いで脇へ置き、ズボンの裾をまくって川へ入る。

 冷たい川水が足首を包み込み、身体に溜まっていた疲れが少しずつ流されていくようだった。


「ああ……気持ちいい」


 エリオスは両手ですくった水を顔にかけ、長く息を吐いた。

 振り返ると、第三王子はまだ岸辺に立っていた。


 すでに濡れた上着は脱いでおり、薄手のシャツ姿で川の中にいる兵士たちを見つめている。

 どこか迷っているようだった。


 エリオスは目を瞬かせた。

「殿下は入らないんですか?」


 第三王子が彼を見る。

「入らない」


「どうして?」


「別に」


「もう二日も、まともに身体を洗ってないでしょう?」


 第三王子は少し黙った。

「……分かっている」


 エリオスは彼を見て、それから川へ目を向けた。

 そして、そのまま岸へ上がる。


「じゃあ、入りましょう」


「待て――」


 第三王子が反応するより早く、エリオスがその腕を掴んだ。


「勇者!」


「いいから。みんな入ってるんですから」

 エリオスは笑いながら、彼を川辺へ引っ張っていく。

「それに、今の殿下を見ても、誰も王子だなんて思いませんよ」


 第三王子が睨みつける。

「自分が誰に話しているのか分かっているのか?」


「分かってますよ」

 エリオスは気にした様子もなく答える。

「だから入ってくださいって言ってるんです」


「……」


 第三王子はなおも抵抗しようとしたが、その足はすでに冷たい川の中へ入っていた。

 濡れたズボンの裾を見下ろし、顔をさらに険しくする。


 エリオスは笑った。

「ほら、別にどうってことないでしょう?」


 第三王子は答えなかった。

 ただ川の中に立ち、流れる水に身体についた泥をゆっくり洗い流していく。


 しばらくして、ようやく小さな声で呟いた。

「……確かに、少し気持ちいいな」


 それを聞いたエリオスは、思わず笑った。

「でしょう?」


 川岸では、朝からずっと張り詰めていた兵士たちも、少しずつ緊張を解いていた。

 出発して以来、初めて本当の意味で休める時間だった。




 兵士たちは濡れた服を脱ぎ、焚き火のそばに立てた枝や張ったロープに掛けて乾かしていた。

 川辺で休む者もいれば、馬の鬣を整える者もいる。

 つい先ほどまで疲労と緊張に包まれていた野営地にも、ようやく活気が戻ってきた。


 第三王子は焚き火のそばに座り、騎士から受け取った乾いた布で髪を拭いていた。

 だが、しばらくすると、隣に一人足りないことに気づいた。


「勇者は?」


 傍らの騎士が目を瞬かせる。

「先ほどまで川辺にいましたが……」


「今は?」


 騎士が振り返って辺りを見回す。

「……分かりません」


 第三王子は眉をひそめた。

「あいつ、また勝手にどこかへ行ったのか?」


 何人かの兵士もその声を聞き、辺りを見回し始める。


「勇者様、さっきまでここにいましたよね?」

「さあ……」


 皆が首を傾げていると、突然、林の中から足音が聞こえてきた。

 エリオスが木々の間から姿を現す。

 その両手には、それぞれ一頭ずつ鹿が引きずられていた。


「見つけました」


 一瞬、野営地が静まり返る。

 次の瞬間。


「鹿だ!」

「今夜は肉が食えるぞ!」

「勇者様、万歳!」


 あちこちから歓声が上がった。

 突然の歓声にエリオスは少し驚いたが、すぐに笑った。


「たまたまですよ」

 そう言って、二頭の鹿を地面に下ろす。

「見てないで、さっさと捌いてください。

 肉の一部はスープにして、残りは焼きましょう」


「はっ!」


 兵士たちが一斉に集まってくる。

 先ほどまで沈んでいた野営地が、一気に賑やかになった。

 火を起こす者、鹿肉を捌く者。

 つい先ほどまで疲れ切った顔をしていた兵士たちまで、すっかり元気を取り戻している。


 第三王子は少し離れたところから、その様子を黙って見ていた。

 しばらくして、エリオスが戻ってきて彼の隣に腰を下ろす。


 二人とも、しばらく何も言わなかった。

 焚き火がぱちぱちと音を立て、少し離れたところでは川が静かに流れている。


「エリ……」

「殿下……」


 二人の声が同時に重なった。


 エリオスが目を瞬かせ、それから笑う。

「殿下からどうぞ」


 第三王子は彼を見る。

「疲れないのか?」


「何がです?」


「さっきあんな事故に遭ったばかりなのに、川で身体を洗って、その上また狩りまでしてきた」


 エリオスは鹿肉を捌いている兵士たちを見る。

「みんな今日は疲れてますから。

 こういう時は、新鮮な肉でも食べれば少しは気分が良くなるでしょう」


 第三王子は少し黙った。

 エリオスは何かを思い出したように、また笑う。


「そういえば、昔の遠征でも毎回こんなに補給が良かったわけじゃないんですよ。

 何度か進みすぎて食糧が届かなかったことがあって、その時は魔獣を食べたこともあります」


 第三王子が目を見開く。

「……魔獣を?」


「ええ」

 エリオスは何でもないことのように答えた。

「食べられるなら食べる。食べられないなら諦める。

 それだけですよ」


 第三王子はエリオスを見つめ、長いこと何も言わなかった。

 この時になって初めて、目の前の男が背負っている「使命」とは、いったいどんな生活を意味していたのかを、本当の意味で理解したようだった。


 しばらくして、第三王子が低い声で口を開く。

「……すまない」


 エリオスが目を瞬かせる。

「どうして?」


 第三王子はすぐには答えなかった。

 王都で自分が口にした言葉を思い出していた。


 ――魔王討伐は勇者の使命だ。


 あの時は、ただ自分の考えを口にしただけだった。

 だが今思い返してみると、その言葉はあまりにも軽かったように感じる。


「僕は言った。魔王討伐は勇者の使命だと」

 第三王子は続ける。

「今は、それを一人に背負わせるべきじゃないと思っている。

 もしそれが王国を守るための戦いなら、王国全体が勇者を支えるべきなんだ」


 エリオスは何も言わなかった。

 第三王子は目を伏せる。


「それなのに、僕自身、政務の上でお前の力になれたわけでもない」

 その声には、わずかな苦さが滲んでいた。

「僕が提案したことも、聞いてもらえないことが多い」


 エリオスはしばらく彼を見つめ、それから小さく笑った。

「そんなふうに考えなくてもいいですよ」


「え?」


「みんな、それぞれに考えがありますから」

 エリオスは焚き火の向こうへ目を向けた。

「時には立場が違うだけで、誰かが間違っているとは限りません」


 第三王子は黙って彼を見つめる。

「お前は、人のことばかり庇うんだな」


「仕方ないですよ」

 エリオスは笑った。

「俺、勇者ですから」


 第三王子は、それ以上何も言わなかった。

 ただ、立ち上る炊煙と、野営地に戻ってきた兵士たちの笑い声を静かに眺めていた。


 なぜだろう。

 一日中重くのしかかっていた気持ちが、いつの間にか少しだけ軽くなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。