第31話 勇者、泥濘の道を進む
その後の二日間、天候は一向に回復しなかった。
時折しとしとと雨が降ったかと思えば、突然、大雨になることもある。
もともと整備されていた道はたちまち泥濘と化し、馬の蹄も車輪も、一歩進むたびに普段以上の力を必要とした。
軍の進行速度は、日に日に落ちていった。
最初のうちは、まだ「今日は運が悪かっただけだ」と笑っている者もいた。
だが、やがて隊列の中には、こんな声も聞こえるようになった。
「第三王子殿下は、どうも運が悪いんじゃないか?」
「今回の遠征、出発する時期も悪かったんじゃないか」
「ずっと雨だ。もしかしたら、神様まで今回の遠征に反対してるんじゃないか?」
そうした声が第三王子の耳に届くことはなかった。
だが、兵士たちの疲労は誰の目にも明らかだった。
二日続けて雨の中を進み、服はいつまで経っても乾かない。
馬も普段以上に休ませる必要がある。
夕方になる頃には、もともと談笑していた兵士たちの多くが口を閉ざし、ただ一刻も早く野営して休みたいという顔をしていた。
第三王子の様子も、決して良いとは言えなかった。
すでにあの重たい鎧は脱ぎ、薄手の服だけで馬に乗っている。
濡れた髪が額に張り付き、顔色も普段以上に悪い。
エリオスは馬を並べながら、ちらりと彼を見た。
「殿下、大丈夫ですか?」
第三王子は目を上げた。
「まだ生きてる」
「それなら大丈夫ですね」
エリオスは笑った。
そのまま馬を進めようとしたところ、前方から団長の声が飛んできた。
「勇者様」
エリオスは馬を止めた。
団長が馬を寄せてくる。表情はいつもより険しい。
「このままの速度では、予定よりかなり遅れています」
エリオスは後方へと延々続く糧秣車を見た。
「どのくらい遅れそうです?」
「この天候が続けば、ハドソン領へ着く前に補給のほうが問題になるでしょう」
団長は声を落とした。
「予定していた食糧は、通常の行軍速度を基準にしています。
このまま遅れれば、食糧が尽きるほどではないにせよ、予定より早く補給地点を探さなければならなくなります」
エリオスは顎に手を当てた。
「じゃあ、その時は狩りをするしかないですね」
団長が目を瞬かせる。
「……狩り?」
「ええ」
エリオスは大真面目な顔で頷いた。
「ウサギとか鹿とか。森なら、何かいるでしょう」
「勇者」
横から第三王子の声が飛んできた。
エリオスが振り向くと、第三王子が不機嫌そうな顔でこちらを見ている。
「こんな時に、よく笑っていられるな」
エリオスは目を瞬かせた。
「そう言われても……」
「……」
第三王子は答えなかった。
エリオスは自然に笑う。
「少なくとも、まだウサギを食べなきゃならないほど追い詰められてはいませんよ」
団長は呆れたように首を振った。
「ウサギの話は後にしましょう」
そう言って、地図を広げる。
「今、別の道へ変更するか検討しているところです」
エリオスは地図を覗き込んだ。
団長の指が、中央街道から分かれる一本の道を指している。
「この道ですか?」
「ええ」
「このまま中央街道を進むと、間に合わない可能性があります」
第三王子も地図に身を寄せた。
「あれは旧商道だ」
団長が顔を上げる。
「殿下、ご存じなのですか?」
「うん。この旧商道は中央街道より少し近い。
ただ、道幅が狭く、大型の隊列は通りにくい。
そのため後に中央街道へ切り替えられた。今は小規模な商隊くらいしか使っていないはずだ」
団長はしばし考え込んだ。
「中央街道より早くハドソン領へ到着できるのであれば、一度補給して、そこで全員をしっかり休ませることもできます」
エリオスは地図を見てから、曇天を見上げた。
「じゃあ、こっちを行きましょう」
第三王子も異論はなかったらしく、頷く。
団長は地図を畳んだ。
「分かりました。すぐに先頭へ伝え、進路を変更させます」
隊列はすぐに進路を変え始めた。
団長が先頭の騎士たちを率いて旧商道へ入り、歩兵たちがその後に続く。
第三王子の言った通り、この道は中央街道よりかなり狭かった。
片側は斜めに切り立った山肌、反対側はそのまま下へ続く斜面。
後続の馬車は一台ずつ、決して広くない道をゆっくり進まなければならない。
幸い、雨は上がっていた。
泥濘さえ除けば、今のところ大きな問題は起きていない。
エリオスは馬上から、少しずつ前方へ伸びていく隊列を眺めた。
「このままなら、確かに中央街道より早そうですね」
「それでも、ここを通るのは少し無理がある」
第三王子は道の両側を見渡した。
「この先を抜ければ休めます。殿下、よくこんな道を知ってましたね」
エリオスが笑うと、第三王子はちらりと彼を見た。
「商路の資料を読んだだけだ」
「……」
エリオスはふと思った。
この人、普段はいったいどれだけの書類を読んでいるんだ?
その時だった。
後方から騒ぎ声が聞こえてきた。
「止まれ!」
「馬車をゆっくり進ませろ!」
エリオスが振り返る。
一台の糧秣車が、少し傾斜した道をゆっくり進んでいた。
車輪が泥にめり込み、車体が小刻みに揺れている。数人の兵士が後ろから車体を押していた。
「もっと力を入れろ!」
「いち、に――!」
だが、馬車はびくともしない。
エリオスが馬から降りて様子を見に行こうとした、その時。
突然、悲鳴が上がった。
次の瞬間、車体が大きく外側へ傾いた。
「危ない!」
驚いた馬が前へ強く引っ張る。
糧秣車全体が、道の外側へ滑り始めた。
「掴め!」
数人の兵士が慌てて車体に飛びつく。
しかし、泥濘んだ地面では足を踏ん張ることもできない。
そのうちの一人が足を滑らせ、そのまま引きずられていった。
道の外側は、急な斜面だった。
エリオスの顔色が変わる。
「危ない!」
次の瞬間、足元で魔力が弾けた。
エリオスの姿が一瞬で数メートルを駆け抜け、一人の兵士の腕を掴む。
「しっかり掴まれ!」
兵士が必死に彼の腕を掴む。
エリオスは力を込め、一気に引き上げた。
だが、その直後。
背後から再び悲鳴が響いた。
「後ろの糧秣車も滑ってるぞ!」
エリオスが振り返る。
後方の道は、すでに混乱していた。
先頭の糧秣車が道端で立ち往生しているのに、後続の馬車はまだゆっくりと進んできている。
このままもう一台でも制御を失えば、糧秣車隊そのものがここで立ち往生する。
「全員止まれ!」
エリオスが大声で叫ぶ。
「これ以上、前へ進むな!」
兵士たちがすぐに後方へ命令を伝える。
第三王子が、馬を駆ってこちらへやって来た。
「どうした?」
「糧秣車が泥にはまっています!」
第三王子は状況を一目見ると、すぐに地図を取り出し、現在地を素早く確認した。
「まず、あの馬車を助けるのは後だ」
エリオスが目を瞬かせる。
第三王子は後方を指差した。
「残りの糧秣車を先に引き返させる。
ここは狭すぎる。全てが詰まれば、人間すら通れなくなる」
そう言って顔を上げる。
「この一台は諦めるしかない」
エリオスは斜面を見て、それから命令を待つ後続の糧秣車へ視線を向けた。
すぐに、その意味を理解した。
「……他を守るのが先、ですね」
第三王子が頷く。
エリオスは即座に命令を下した。
「全員、聞いてくれ! 後方の糧秣車を先に引き返させろ!」
隊列が再び動き始める。
そして、均衡を失った糧秣車は、重い木輪の音を響かせながら、ついに山の斜面へと滑り落ちていった。




