第30話 勇者、魔王へ報告する
第三王子の視線が、エリオスの背中に隠された手へ落ちる。
「何を隠した?」
エリオスの笑顔が固まった。
「何でもありません」
「出せ」
「……本当に何でもないですって」
背に隠した手の中で、小蝙蝠が小さく震えている。
エリオスには、その緊張が手のひら越しに伝わってきた。
指先にも、自然と力を抜く。
「殿下、こんなことは別に――」
「勇者」
第三王子の声が低くなる。
「出せ」
両脇の騎士も、王子の合図を受けて一歩前へ出る。
エリオスは二人の騎士を見て、それから第三王子を見る。
どうやら、出さないわけにはいかないらしい。
仕方なくため息をつき、拳を握ったまま、ゆっくりと手を前へ出す。
第三王子が、その手をじっと見つめる。
エリオスの指が一本ずつ開いていく。
だが、そこから現れたのは怪しげなものではなかった。
通信石だった。
小蝙蝠は、エリオスの背中側の服をぎゅっと掴んでいる。
第三王子が目を見開く。
「……通信石?」
エリオスは頷いた。
「はい」
「誰と連絡を取っている?」
「それは……」
エリオスの視線が横へ逸れる。
顔には、気まずそうな表情が浮かんだ。
「姉さんです」
「姉? 聖女か?」
「はい」
エリオスは小さく咳払いする。
「だって、今回は聖女様がついてきていないでしょう? 俺も少し寂しくなって」
最後には視線まで逸らし、わざと少し恥ずかしそうな顔を作ってみせる。
そのうちの一人の騎士が、思わず吹き出した。
だが、第三王子の眉間にはさらに深い皺が刻まれる。
「……お前、そんなに甘えん坊だったのか?」
「だから、こっそり出てきたんですよ」
エリオスは真顔で頷く。
「まさか殿下に見つかるとは思いませんでしたけど」
そう言って、第三王子を見る。
「ところで殿下も『散歩』だったんじゃないんですか?」
第三王子は深く息を吸った。
「一日中馬に乗っていたんだ。少しくらい歩かないとな。
それに……おしり――」
そこまで言って、突然口を閉じる。
エリオスが目を瞬かせた。
「……お尻?」
第三王子の顔が一瞬で険しくなる。
「何でもない」
彼はくるりと背を向けた。
「戻るぞ」
数歩進んだところで、また足を止める。
振り返らないまま、言った。
「お前も長居するな。早く戻ってこい」
そう言い残し、足早に野営地へ向かっていく。
二人の騎士も慌てて後を追った。
エリオスはその場に立ったまま、三人の背中を見送る。
「……」
そして、肩の後ろにしがみついている小蝙蝠へ顔を向けた。
「……あいつ、さっき『お尻』がどうしたって言おうとしたんだ?」
小蝙蝠は当然答えず、ただ小さく翼を羽ばたかせる。
エリオスは思わず吹き出した。
第三王子と二人の騎士の姿が、木々の向こうへ消える。
それを確認してから、エリオスはようやく息を吐いた。
「危なかった……。もう少しでバレるところだった」
小蝙蝠が小さく鳴く。
エリオスは手を差し出し、再びその身体を掌に乗せた。
「よし。これで話せるな」
魔力をゆっくりと声へ込める。
「ヴィラ」
低い声が落ちると、小蝙蝠の身体が淡い魔力の光を帯びた。
「俺はもう王都を出た」
エリオスは一度言葉を切り、遠くの野営地へ目を向ける。
「国王が命じた。俺が軍を率いて、魔国西部へ向かい、そこの領主を討伐する」
「今回は、今までとは違う」
「第三王子を連れて行くことになった。王都の騎士団も同行する。
それに、途中の各領地から派遣される部隊を合わせれば、国境要塞に着く頃には三千人ほどになるはずだ」
「十日後にはグレイス国境要塞へ到着する予定だ。
その後、正式に魔国へ入る」
そこまで言ったところで、エリオスの声が少し低くなる。
「だから、まず君の考えを聞きたい」
「西境領主は、今まで一度も君を本当の意味で認めていない。
もし人間が本当にあいつを攻めるなら、どう動くのか俺には分からない」
エリオスは掌の小蝙蝠を見る。
「そっちは……何かするつもりなのか?」
何も隠さなかった。
これから誰を連れていくのか。
どこへ向かうのか。
いつ到着する予定なのか。
そのすべてを、一つずつ彼女へ伝える。
「何か俺が知っておいたほうがいいことがあるなら、こいつに持たせて返してくれ」
「君からの返事を待っている」
魔力の光が、次第に安定していく。
エリオスは少し考えてから、もう一言付け加えた。
「それと、俺のことは心配するな」
彼は笑った。
「今のところ、全部順調だ」
小蝙蝠が小さく翼を動かす。
エリオスはようやく手を放した。
黒い小さな影が空へ舞い上がり、木々の間を一周する。
そして、そのまま魔国の方角へ飛び去っていった。
エリオスが野営地へ戻ると、第三王子はすでに焚き火のそばに座っていた。
エリオスが近づくと、第三王子が顔を上げる。
「用事は済んだか?」
「はい」
エリオスは頷いた。
「もう済みました」
第三王子はそれ以上聞かず、軽く頷くだけだった。
そこでエリオスは気づいた。
どうも、いつもより座り方が硬い。
一度見る。
もう一度見る。
すると、先ほど途中で途切れた言葉が頭に浮かんだ。
――それに……お尻――。
エリオスの口元が、ゆっくりと上がる。
第三王子はすぐにその表情に気づいた。
「……」
二人の視線が一瞬ぶつかる。
第三王子は何も言わず、冷たい顔で視線を逸らした。
エリオスも空気を読んで顔を背け、必死に笑いをこらえる。
第三王子はそんな彼を無視し、目の前の夕食へ視線を移した。
「これは何だ?」
「シチューです」
エリオスは隣へ腰を下ろし、鍋の中で湯気を立てる肉を覗き込む。
だが、第三王子はすぐには手をつけなかった。
「兵士たちもこれを食べているのか?」
「いや……」
エリオスも第三王子の視線を追う。
少し離れた場所では、兵士たちが焚き火を囲んで食事をしている。
彼らの手にあるのは簡素なパンや乾パンで、温かいスープにありつけている者も少ない。
エリオスはようやく意味を理解した。
「俺たちの分は別に用意したみたいですね」
第三王子はしばらく黙っていた。
「初日の行軍から、わざわざ僕たちだけにシチューを用意したのか?」
「たぶん団長が、俺たちがちゃんと食べられるようにって」
第三王子は目の前の料理を見つめ、眉を寄せる。
「このやり方は合理的じゃない。
軍が長距離を行軍する以上、毎日こうして別に料理を用意していたら、今後の補給がさらに厳しくなる」
エリオスは目を瞬かせた。
「殿下、夕食まで補給の計算をしてるんですか?」
第三王子は少し黙ってから、エリオスを見る。
「団長に伝えろ。
明日から、僕たちのために特別な料理を用意する必要はない」
「どうしてです?」
「行軍するなら、軍と同じ基準でいい」
エリオスは目の前の熱々のシチューを見て、それから真剣な顔をした第三王子を見る。
「……本当にいいんですか?」
「必要ない」
エリオスはしばらく黙っていた。
そして、そっとスプーンを手に取る。
「じゃあ、俺は先に食べてもいいですか?」
第三王子が彼を見る。
「好きにしろ」
エリオスは満足そうな笑みを浮かべた。
少なくとも今日の分くらいは、無駄にするわけにはいかない。




