第29話 勇者、行軍の途中で
王都の城門が、次第に遠ざかっていく。
長い隊列は中央大街道を進み、両側を騎士団が護衛している。
食糧や軍需物資を積んだ馬車が、その後ろをゆっくりとついてきていた。
街道の両脇には、見送りに来た領民たちの姿が時折見える。手を振る者もいれば、勇者の名を叫ぶ者もいる。
やがて隊列が遠ざかるにつれ、その声も少しずつ後方へと遠ざかっていった。
エリオスは隊列の先頭付近で馬を進めながら、時折振り返る。
第三王子は馬上にいて、やはり機嫌の悪そうな顔をしていた。
エリオスは思わずもう一度、彼へ目を向ける。
王都を出てからというもの、第三王子はほとんど口を開いていない。
やはり、来たくなかったのだろう。
エリオスは視線を前へ戻した。
だが、すぐに別のことへと思考が移る。
――王都を出た。
なら、小蝙蝠はどうなっている?
あいつを見つけることができれば、ヴィラへ情報を伝えられる。
ただ……。
王都の外にも、思っていた以上に監視の目が多いらしい。
それに今は第三王子と騎士団が一緒だ。
人目につかず隊列を離れる機会を作るのは、そう簡単ではなさそうだった。
エリオスは無意識に手を上げ、耳飾に触れる。
「勇者様」
隣から団長の声がした。
エリオスが振り向く。
「ん?」
団長は彼を見た。
「王都を出てから、何やらずっと考え事をしておられるようですが」
「そうですか?」
「はい」
即答だった。
エリオスは仕方なく笑う。
「大したことじゃありません。ちょっとしたことを考えていただけですよ」
団長の視線が、彼の左耳へ落ちる。
「そういえば、勇者様のその耳飾、随分と変わっていますな」
エリオスは耳飾に触れる。
「これですか? なんとなく気に入ったので、つけてるんです」
団長は白い軽鎧姿のエリオスと、その耳元で揺れる漆黒の耳飾を見比べた。
「……普段の格好とは、少々合っていないようにも見えますが」
「団長は年を取りすぎて、今の流行が分からないんですよ」
「……」
団長はしばらく黙った。
「勇者様。その発言は、陛下には絶対に聞かせないでください」
エリオスは思わず吹き出した。
その時、背後から第三王子の声がした。
「勇者」
エリオスが振り返る。
「どうしました?」
第三王子は真剣な顔で彼を見ていた。
「お前は、いつもそうなのか?」
「どう、って?」
「戦場へ向かっているというのに、ずっと笑っている。
まるで、このことを何とも思っていないようだ」
エリオスはすぐには答えず、前方へ伸びる街道へ目を向けた。
「……殿下の言う通りです。
戦場は、笑って済ませられるような場所じゃありません」
少し間を置いて、彼は笑った。
「でも、俺が毎日しかめっ面をして、『今回は大勢死ぬかもしれません』なんて周りに言い続けたら、みんなが本当に安全になるんでしょうか?」
第三王子は答えない。
エリオスは続ける。
「俺は、戦場へ行く前から怖がっている人を大勢見てきました。
怖くて、剣すらまともに握れなくなる人もいる。
だから、せめて戦いが始まるまでは、少しくらい気楽にしていてほしいんです。
本当に怖がるべき時が来たら……」
エリオスの笑みが、僅かに薄れる。
「俺が誰よりも分かっていますから」
第三王子は、初めて本当の意味で目の前の男を見つめたようだった。
だがエリオスは、すぐにいつもの表情へ戻る。
「それに、俺がずっと怖い顔をしていたら、みんな余計に緊張するでしょう?」
第三王子は笑わなかった。
「……自分に都合のいい理由を考えるのは得意なようだな」
「見抜かれました?」
エリオスは笑う。
第三王子は鼻を鳴らし、顔を前へ向けた。
隊列はそのまま、大街道を西へ進んでいった。
初日の行軍は、予定より少し遅れていた。
第三王子はこれまで本格的な長距離行軍を経験したことがない。
一日中馬に乗っているだけでも、彼にとってはかなりの負担だった。
初日から無理をさせて倒れさせるわけにもいかない。
そのため団長は、日が完全に落ちるより前に野営を命じた。
ほどなくして、陣営は慌ただしくなった。
エリオスは一通り見回り、兵士たちと馬の準備が済んでいることを確認すると、残りを団長に任せることにした。
「じゃあ、あとはお願いします」
「勇者様は食事を取られないのですか?」
「もう少し見回ってから戻ります」
エリオスは笑った。
「今回は軍と一緒ですからね。みんなの様子をもう少し見ておきたいんです」
団長は呆れたように首を振った。
「遠くへは行かないでくださいよ」
「分かってます」
エリオスは野営地を一周した。
そして、誰もついてきていないことを確認すると、ゆっくりとさらに遠くへ歩いていく。
焚き火の明かりが木々の向こうへ隠れていく。
エリオスは木々の隙間から見える薄暗い空を見上げた。
あと数歩進もうとした、その時。
視界の端に何かが映った。
遠くの木の枝の間を、黒い影がゆっくりと飛んでくる。
上昇して。
ゆっくりと下降する。
そして、また上昇する。
普通の鳥とは明らかに違う飛び方だった。
エリオスの顔に、自然と笑みが浮かぶ。
黒い影もこちらに気づいたらしい。
ふらふらとこちらへ近づいてくる。
エリオスは慌てて手を伸ばした。
黒い影が、その掌へ降り立つ。
小蝙蝠だった。
翼が僅かに震えている。
呼吸も普段より荒い。
かなり長い距離を飛んできたのだろう。
エリオスはそっと手のひらで支える。
「ご苦労さん。なかなか賢いじゃないか。
俺が王都を出たって分かって、追いかけてきたのか?」
小蝙蝠が僅かに翼を動かす。
だが、もう飛ぶ力は残っていないらしい。
そのままエリオスの掌の中で小さく身を縮める。
その疲れ切った姿を見て、エリオスの声も自然と優しくなる。
「まずは休め」
エリオスが小蝙蝠を見下ろしていた、その時。
背後から声がした。
「勇者」
エリオスの身体が固まる。
「……」
ゆっくりと振り返った。
そこには第三王子が立っていた。
その後ろには、護衛騎士が二人いる。
エリオスは反射的に、小蝙蝠を乗せた手を背中へ隠した。
「殿下?」
第三王子がエリオスを見る。
「こんなところへ、こっそり何をしに来た?」
エリオスは乾いた笑いを浮かべる。
「ちょっと散歩していただけですよ」
第三王子は周囲を見回した。
「散歩にしては、随分と遠くまで来たな」
「たまには一人で気晴らししたくなることもありますから」
エリオスは笑いながら言った。
「それより殿下、すごいですね」
第三王子を見て、それから後ろの二人の騎士を見る。
「俺、ついてきたことに全然気づきませんでした。暗殺者にもなれそうですよ」
第三王子は眉をひそめた。
「……何を言っている?」
背後の二人の騎士も顔を見合わせる。
そして、二人とも不思議そうな目でエリオスを見た。
エリオスの笑顔は変わらない。
だが――。
胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく。
……まずい。




