第28話 勇者、聖剣を掲げる
出発の朝。
王都中央広場には、すでに大勢の兵士と馬が集まっていた。
騎士団が広場の両側に整然と並び、軍旗が朝風にはためいている。
食糧や軍需物資を積んだ馬車も、長い列を作っていた。
広場の周囲には見送りに来た市民が大勢集まり、街道沿いには、勇者と王子を一目見ようと屋根の上にまで登っている者の姿がある。
エリオスは馬上から、第三王子へ目を向けた。
「殿下、出発の準備が整いました」
第三王子も馬に乗っている。
ただし、その装備を見て、エリオスはしばらく無言になった。
肩から脚までを覆う重厚な鎧。
胸当て、籠手、脛当てまで完全に装備され、頭には顔全体をすっぽり覆う兜まで被っている。
見えているのは、翠緑色の瞳だけだった。
その瞳がこちらを向く。
「……ぐる……ぐる……」
「……」
エリオスは一瞬、固まった。
「殿下、今なんと?」
兜の中から、またしても聞き取りにくい声が響く。
「……ぐるぐる……」
エリオスは数秒ほど第三王子を見つめた。
そして、諦めた。
そっと隣の団長へ近づき、小声で尋ねる。
「……これ、ちょっとやりすぎじゃないですか?」
団長も第三王子を見て、苦笑を浮かべた。
「王室の護衛規格ですからな。いつもこのようなものです」
「でも、殿下。本当に歩けるんですか?」
団長は少し黙った。
「……たぶん」
エリオスは、指先までほとんど隙間なく覆われた鎧を見つめた。
それ以上は聞かなかった。
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「勇者様」
エリオスが振り返る。
数名の神官を伴い、ソフィアがこちらへ歩いてきた。
純白の聖女服を纏っている。
見送りに来たのだろう。
エリオスは笑顔を浮かべた。
「聖女様。見送りに来てくださったんですね。
ありがとうございます」
しかし、ソフィアは答えなかった。
ただ静かに彼を見つめている。
「エリオス」
「ん?」
「何か忘れていない?」
エリオスは瞬きをした。
「忘れ物?」
ソフィアの視線が、彼の腰へ落ちる。
「聖剣」
「……」
エリオスの表情が固まった。
「あ」
自分が愛用している長剣を見下ろし、まるで今の今まで存在を忘れていたかのような顔をする。
「そうだった」
団長も目を丸くした。
エリオスは顔を上げる。
「別に……持っていかなくても大丈夫じゃないですか?」
ソフィアの表情が僅かに険しくなる。
「駄目。今回は正式な遠征でしょう。
あなたが普段、魔境へ行って魔物を掃討するのとは違うのよ」
「でも、あの剣を使う機会なんて、ほとんどありませんよ」
「聖剣は勇者の象徴です」
ソフィアの口調には、一切の妥協がなかった。
「それに、陛下直々の命令です」
エリオスは困ったように頭を掻く。
「でも、今から取りに行ったら出発が遅れるんじゃ?」
ソフィアは彼を見つめた。
二秒ほど沈黙する。
「……それで?」
エリオスは乾いた笑いを浮かべた。
「今すぐ取りに行ってきます」
「早く」
「はい」
エリオスは仕方なく振り返り、団長と第三王子を見る。
「殿下。ちょっと忘れ物を取りに行ってきます。すぐ戻ります」
分厚い兜の中から、聞き取りにくい声が返ってくる。
「……ぐる……」
エリオスにはまったく理解できなかった。
「……とにかく、少しだけ待っていてください」
団長が呆れたように頷く。
「勇者様、なるべくお早く」
「分かりました」
エリオスは手綱を引き、王城へ視線を向ける。
聖剣は王城内の王室聖堂に収められている。
どうやら出発前に、もう一度城まで走る羽目になったらしい。
王室聖堂の大扉が、ゆっくりとエリオスの前で開いた。
外の喧騒は、足を踏み入れた瞬間に遠ざかる。
聖堂の奥へ続く白い石畳。
その両脇には浅い水路が流れ、澄んだ水面に高い天井から差し込む陽光が揺らめいている。
石の隙間からは小さな花々が顔を出し、微かな風とともに淡い花の香りが漂っていた。
道の先には、光に包まれた白い祭壇。
その中央に、聖剣が静かに突き立てられている。
剣身は天井から降り注ぐ光を受け、まるでこの聖堂そのものが聖剣のために存在しているかのようだった。
エリオスはその場に立ったまま、しばらく眺めていた。
「……大げさだなぁ」
祭壇へ歩み寄り、柄を握る。
聖剣は何の音も立てなかった。
軽く引き抜く。
剣身が、すっと祭壇から離れた。
エリオスは手元を見下ろす。
「久しぶり」
それだけ言うと、踵を返した。
聖堂を出る。
エリオスが馬へ乗ろうとした、その時。
ふと足を止めた。
さりげなく周囲を見渡す。
王城の石柱の陰。
遠くの回廊。
聖堂へ続く階段の脇。
そこには、いくつか不自然な人影があった。
エリオスは口元を僅かに引きつらせる。
ここ数日、ずっと誰かに監視されている。
だからこそ、魔法を使ってこっそり王都を抜け出すこともできなかった。
ただ――。
エリオスは手にした聖剣へ目を落とした。
「ここまで人をつけてるなら……」
思わずため息が漏れる。
「どうせなら、聖剣を忘れてるって早く教えてくれればよかったのに。
わざわざ取りに来る羽目になったじゃないか」
そう呟き、再び馬上へ跨る。
広場へ戻ると、遠くからでも隊列がまだその場に留まっているのが見えた。
エリオスは団長の隣まで馬を進め、声をかけようとした。
だが、その視線が第三王子の姿を捉える。
「……あれ?」
先ほどまで重厚な兜に包まれていた第三王子が、今度は顔を完全に出していた。
エリオスは思わず二度見する。
「殿下、兜を脱いだんですか?」
第三王子はエリオスを一瞥した。
相変わらず機嫌が悪そうで、答える気はないらしい。
仕方なく団長が説明する。
「今回は王室の正式な出征ですからな。
沿道の領民からすれば、完全武装した騎士がいるだけでは、第三王子殿下がいるとは分かりませんから」
エリオスは思わず吹き出した。
「なるほど」
第三王子の顔がさらに険しくなる。
「……笑いすぎではないか?」
「すみません」
口では謝りながらも、エリオスの笑みは消えなかった。
第三王子は顔を逸らす。
「早く出発したらどうだ?」
「はいはい」
エリオスは馬を隊列の先頭へ進める。
周囲の騎士や兵士たちが徐々に静まり、広場に集まった人々も何かが始まることを察した。
エリオスは手元の聖剣を見下ろす。
さっきまでは面倒だと思っていた。
だが今になってみれば、こういう場では確かにこれ以上ないほど役に立つ。
――そこまで勇者を見たいっていうなら。
エリオスは、いつもの笑顔を浮かべた。
そして聖剣を高々と天へ掲げる。
陽光を受けた剣身が、眩い光を放つ。
その瞬間、広場にいるすべての人々の視線が聖剣へ集まった。
エリオスは、普段よりも少しだけ大きな声で叫ぶ。
「今日、我々は魔国へ向けて出征する!」
「王国の大地を守るため。そして、我々の帰りを待つ人々を守るために――」
その瞬間。
彼の乗っていた軍馬が突然、前脚を高く跳ね上げた。
「ヒヒーン!」
エリオスは揺らぐことなく馬上に留まり、手にした聖剣を天へ掲げ続ける。
「この戦い、必ず勝利を収めて帰還する!」
次の瞬間。
広場が、耳をつんざくような歓声に包まれた。
「勇者様、万歳!」
「第三王子殿下、万歳!」
「王国に勝利を!」
エリオスは堂々とした笑顔を崩さなかった。
ただ誰にも見えないところで。
聖剣を握る手に、ほんの僅かに力がこもる。
……よし。
そこまで「勇者」を求めるなら。
今日くらいは、立派な勇者を演じてやろう。




