第27話 魔王、勇者の沈黙を憂う
魔王城は、今日もいつもと変わらず静かだった。
高い窓から差し込む午後の日差しが、執務室を柔らかく照らしている。
机の上には各領地から届けられた公文書が整然と積まれていた。
ヴィラは手元の報告書をめくりながら、時折ペンを走らせている。
室内には、羽ペンが紙を擦る微かな音だけが響いていた。
コン、コン。
扉の外から、控えめなノックが二度響く。
「陛下」
半人馬の青年が入室し、恭しく頭を下げる。
ヴィラはすぐには顔を上げなかった。
最後の一行を書き終えてから、ゆっくりと羽ペンを置く。
「何か分かった?」
半人馬の青年は、彼女が何について尋ねているのかすぐに察した。
「……いえ」
再び、室内に静寂が戻る。
ヴィラの視線は、机の上に広げられた地図へと落ちていた。
エリオスが王都へ戻ってから、すでに数日が経っている。
ただの召喚なら、ここまで何の情報も届かないはずがない。
二人の間では、たとえ本人が直接来られなくても、王都の外に残してある小蝙蝠を使って連絡を寄越すことになっていた。
それなのに――
今日になっても。
エリオスも、あの小蝙蝠も、まるで消えてしまったかのように何の音沙汰もない。
ヴィラは僅かに眉を寄せた。
「王都のほうは?」
「今のところ、何もありません」
半人馬の青年は少し間を置いてから、続けた。
「まさか……あの小蝙蝠、遊びにでも行ったんじゃないでしょうね」
ヴィラはじろりと彼を睨んだ。
ふと、エリオスが王都へ向かった日のことを思い出す。
あの日、通信石の向こうから突然聞こえてきた聖女の声。
あの時から、何かがおかしいと感じていた。
今になって思えば――
あの召喚は、やはり何か大きな出来事と関係しているのかもしれない。
ヴィラは顔を上げ、静かに命じた。
「各地の間者に伝えて。
国境だけじゃなく、王都周辺の監視も強化するように。
人間の国に何か異常な動きがあれば、すぐに報告して」
「はい」
半人馬の青年は頭を下げた。
だが、すぐには立ち去らない。
ヴィラはその躊躇に気づき、彼へ目を向けた。
「まだ何かあるの?」
半人馬の青年は彼女を見て、ふっと笑った。
「いえ。ただ……陛下も変わられたな、と」
「……何?」
「以前なら、勇者様が何ヶ月いなくなっても、気にする素振りすら見せなかったじゃないですか」
ヴィラの頬が僅かに赤くなる。
「そ、それは状況が違うからよ」
「そうですか?」
半人馬の青年がわざと語尾を伸ばす。
ヴィラは彼を睨みつけた。
「余計なことを言わないで」
だが、その声はすぐにいつもの平静さを取り戻した。
「それに、私は別に彼を心配しているわけじゃないわ」
「はいはい」
返事だけは素直だったが、半人馬の青年の笑みはまったく消えなかった。
その時。
扉の外から、慌ただしい足音が響いてきた。
次の瞬間、獣人の長老が扉を開けて入ってくる。
「陛下」
その表情は珍しく険しい。
「緊急の報告があります」
ヴィラが顔を上げる。
獣人の長老は低い声で告げた。
「国境方面で……妙な動きが確認されました」
――◇――
緊急会議は、ほどなくして魔王城の会議室で開かれた。
円卓を囲むように、各種族の代表たちが次々と集まってくる。
ヴィラの傍らには半人馬の青年が立ち、手には届いたばかりの情報が握られている。
獣人の長老は円卓に座り、国境から送られてきた報告書を何枚か広げていた。
ヴィラは一同を見渡した。
「まず、国境の状況を聞かせて」
獣人の長老が頷き、一枚の報告書を机の中央へ滑らせる。
「現時点で確認できているのは、人間の国が大量の兵力を動かしているということです。
国境の駐屯軍だけではありません。
王都の騎士団や各地の領主軍も、次々と国境方面へ集結し始めています」
別の魔族の代表が眉をひそめた。
「交代要員か?」
「そうは見えません」
獣人の長老が首を横に振る。
「動かしている兵力が多すぎます。
それに、各地で同時に食糧や軍需物資の徴発も始まっている。
単なる部隊の交代なら、ここまでする必要はありません」
半人馬の青年が机の上の報告書を手に取り、素早く目を通す。
「馬もです。
周辺のいくつかの領地では、軍馬が大量に徴発されている。
食糧を運ぶ荷馬まで持っていかれているそうです」
会議室に低いざわめきが広がる。
ヴィラは何も言わず、地図を自分の前へ引き寄せた。
「目的は判断できる?」
獣人の長老は首を横に振った。
「現時点では、まだ。
兵力の動きだけを見るなら、最も可能性が高いのは国境付近のいくつかの領地です。
しかし、人間の国が本格的な大規模討伐を準備しているのであれば、魔国の奥深くまで侵攻してくる可能性も否定できません」
一人の年配の魔族が低い声で言った。
「まさか、また魔王城を攻めるつもりでは……?」
その言葉が落ちた瞬間、円卓の周囲が静まり返った。
誰もすぐには答えなかった。
二年前、勇者は魔王城へ攻め込んできた。
そして今、人間の国が再び大規模な兵力を動かしている。
魔族側の体制がまだ完全に整っていない今を狙い、再び侵攻を仕掛ける可能性も、決してないとは言えない。
「可能性はある」
別の魔族が重々しく口を開いた。
「もし本当に陛下が目的なら、今回の兵力は確かに脅威となる」
獣人の長老はすぐには答えなかった。
ヴィラを一度見てから、問いかける。
「陛下。勇者のほうからは……何も?」
ヴィラは静かに首を横に振った。
「ないわ」
円卓の周囲に、再び沈黙が落ちる。
「まさか……」
誰かが躊躇いがちに口を開いた。
「勇者は、もう人間側につくと決めたのでは?」
半人馬の青年がすぐに眉をひそめる。
「まさか。勇者様の性格を考えれば、そんな――」
「何がおかしいの?」
平静な声が、その言葉を遮った。
ヴィラが顔を上げる。
その表情には、何の変化もない。
「彼は、あくまで人間の勇者よ」
半人馬の青年が振り返る。
ヴィラは続けた。
「魔王を討つ。それが彼の使命でしょう。
この二年間、私たちと一緒に過ごしてきたからといって、永遠に魔族側に立つとは限らないわ」
「分かっています」
半人馬の青年が言い返そうとするより先に、ヴィラが遮った。
「私だって、彼が簡単にそんな選択をするとは思っていない」
彼女は机の上の地図へ視線を落とす。
その表情から、不安が消えることはなかった。
「ただ、もう何日も連絡がない。
これまでなら、本人が来られなくても、小蝙蝠に連絡を持たせることになっていた。それなのに今回は、何もない」
半人馬の青年は黙り込んだ。
確かに、それが一番不可解だった。
エリオスが王都へ呼び戻されたことも、今も王都にいることも、彼らは把握している。
だが、王都で何が起きているのかまでは分からない。
ヴィラは顔を上げた。
「今は彼のことは置いておきましょう」
その視線が、円卓にいる全員を見渡す。
「もし本当に人間の国が攻めてくるつもりなら、
目的が分からないからといって何もしないわけにはいかない」
「各地の領主へ連絡して。兵力と食糧の状況を確認する」
「国境の警戒も強化。人間の軍隊が魔国へ入ったことを確認したら、すぐに報告して」
皆が次々と頷く。
「はい」
会議は再び、人間軍の動向についての議論へ戻っていった。
だが、ヴィラの心はどこか落ち着かなかった。
エリオスは、いったい何をしているのだろう。
もし本当に魔族を裏切ったのなら、今の沈黙も理解できる。
けれど、もしそうでないのなら――。
彼女は小さく息を吐いた。
「……もう」
「いったい何をしているのよ、エリオス」




