第26話 勇者、第三王子を知る
王宮の訓練場では、木剣のぶつかり合う音が絶え間なく響いていた。
朝日が整然と並べられた武器架を照らし、兵士たちはすでに朝稽古を始めている。 中には、これから始まる遠征に備えて装備を整えている者もいた。
そんな中、見慣れた姿が訓練場へ入ってきた。
「勇者様!」
何人かの兵士が、すぐに笑顔で駆け寄ってくる。
そのうちの一人が、からかうように言った。
「今日は珍しいですね。勇者様が遅刻するなんて」
エリオスは一瞬きょとんとしたが、すぐに吹き出した。
「たまには、もう少し寝ててもいいだろ」
周囲から笑い声が上がる。
「やっぱり勇者様も寝坊するんですね!」
「これからは、その話でからかえますね」
エリオスは笑いながら手を振った。
「真似するなよ。団長に真っ先に怒られるからな」
笑い声が次第に収まっていく。
そこでようやく、エリオスは今日の訓練場に普段より多くの人間がいることに気づいた。
多くの兵士の傍には、支給されたばかりの制式鎧や荷物が置かれている。
その表情も、普段ほど気楽なものではない。
一人の若い兵士が頭を掻き、苦笑した。
「今朝、命令が下ったんです。俺も討伐軍に加わることになりました」
隣にいた何人かも顔を見合わせ、それぞれ似たような表情を浮かべる。
期待している者もいれば、緊張している者もいる。
何しろ、多くの者にとって初めて本当の戦場へ赴くことになるのだ。
エリオスは彼らを見つめ、柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなに緊張するなって。
俺が初めて遠征に出た時なんて、お前たちよりずっと酷かったぞ」
「本当ですか?」
一人の兵士が思わず尋ねる。
エリオスは大真面目に頷いた。
「あの時は魔物を見ただけで、剣をどうやって抜くのか分からなくなりそうだった」
兵士たちは一瞬ぽかんとした後、堪えきれずに笑い出した。
張り詰めていた空気も、それにつられて少しずつ和らいでいく。
そんな時、年配の兵士が何かを思い出したように、訓練場の反対側を指差した。
「そういえば、勇者様。
第三王子殿下はもう来ていますよ」
エリオスは兵士が指した方向へ目を向けた。
訓練場の反対側は、普段よりずっと慌ただしい。
何人もの職人が第三王子を囲み、鎧の調整をしている。
時折ベルトを締め直したり、肩当ての位置を固定し直したりしている。
傍にはサイズの違う防具が何組も置かれていた。
どうやら朝からずっと試着を続けているらしい。
第三王子は立ったまま、黙って作業を受けている。
ただ、新品の鎧を身につけたその姿は、どう見てもどこか不自然だった。
一人の騎士が長剣を差し出す。
第三王子は言われた通りに柄を握った。
だが、持ち上げた途端、剣先が僅かに沈む。
姿勢を直してみるものの、やはりどこかぎこちない。
傍にいた騎士が慌てて近づき、握り方を修正する。
エリオスの眉が、無意識に僅かに寄った。
昨夜の宴会で、第三王子が本当の意味で戦場に立ったことがないことは分かっていた。
だが、こうして実際に目にしてみて、ようやく国王が自分に託したものが何なのかを理解した。
……こんな人を、本当に前線へ連れていくのか?
その考えが一瞬だけ頭をよぎる。
だが次の瞬間には、エリオスは表情を戻していた。
いつもの笑みを浮かべ、第三王子のもとへ歩いていく。
「殿下、おはようございます」
第三王子が振り返り、エリオスを見る。
端正な顔には、昨夜の宴会で見せていた余裕などなかった。
むしろ、明らかに不機嫌そうだ。
淡々とした口調で言った。
「勇者は、随分と余裕なんだな。
昨夜、遠征へ行くと知らされたばかりなのに、今日はいつもと何も変わらない」
エリオスは僅かに目を瞬かせた。
第三王子は彼を見つめたまま、静かな声の奥に怒気を滲ませる。
「そうでしょうね。
魔王討伐は勇者の使命なのだから。
ですが、僕は他人の使命のために死ぬつもりなんてありません」
周囲が一瞬にして静まり返った。
職人たちは気まずそうに俯き、誰一人として口を挟もうとはしない。
訓練を担当していた騎士でさえ、困ったような表情を浮かべている。
エリオスは一瞬黙った。
何か言おうとして――結局、後頭部を軽く掻きながら苦笑した。
「悪い。今日は寝坊したんだ」
第三王子は鼻を鳴らした。
気まずい空気が次第に広がり始めた、その時。
一人の中年騎士が、足早にこちらへやってきた。
「勇者様、第三王子殿下」
団長は二人に一礼すると、手にしていた地図を広げた。
「出発も間近です。まずは今回の遠征の行軍路について、ご説明させてください」
団長は木製の机の上に地図を広げ、指で道筋をゆっくりとなぞった。
「今回の魔国西部討伐軍は、王都を起点として出発します」
「王都騎士団は中央街道を通ってグレイス国境要塞へ向かいます。
その途中、ハドソン領とエルウィン伯爵領を通過し、各地の部隊も道中で順次合流する予定です」
「国境要塞への到着予定は十日後。
その後二日間の休息を取り、各軍の集結が完了次第、正式に魔国へ侵攻します」
エリオスは地図を見つめ、少し意外そうな顔をした。
「エルウィン伯爵領を通るのか……」
団長が頷く。
「勇者様は普段、魔導塔の転移陣を使って直接前線へ向かわれていますからね。
大軍が普段どのような道を使って進軍するのかは、ご存じないでしょう」
「今回の遠征では、王都からだけで千二百名の兵士が出ます。
さらに各領地の部隊が加わり、国境要塞へ到着する頃には三千人規模になる見込みです」
エリオスは苦笑した。
「俺はいつも、みんなを連れて前へ突っ込むことしかしてないからな。
数千人の軍隊をどう動かすとか、食糧をどう運ぶとかは、さっぱり分からない」
団長は笑った。
「勇者様には勝利をもぎ取っていただく。
その後ろのことは、我々が準備します」
その時、ずっと黙っていた第三王子が口を開いた。
「レイヴン橋が、提出された再建計画通りに完成していれば、行軍は少なくとも二日短縮できる」
団長の手が止まった。
「殿下がおっしゃっているのは、エルウィン領の外れにある石橋ですか?」
第三王子は頷いた。
「あの橋は、すでに老朽化している。
大型の荷馬車は一度に一方向しか通れない。
僕は二年前に再建計画を提出した。
あれが完成すれば、商隊も補給も、国境への兵力移動も大幅に時間を短縮できる」
そこで一度言葉を切る。
「だが、今になっても認可されていない」
団長は地図を見つめ、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……確かに。
完成していれば、今回の討伐軍も少なくとも二日早く国境要塞へ到着できたでしょう」
第三王子は、それ以上何も言わず地図を見つめている。
エリオスの視線は、第三王子に向けられていた。
第三王子は、ただ書物で政務を学んでいるだけの人物だと思っていた。
普段関わっているのも、王都の政務ばかりだと。
だが、まだ修繕されていない一本の橋にまで、その目は向けられていた。
第三王子が指でハドソン領の位置を示す。
「補給をハドソン領へ切り替え、主力部隊だけをエルウィン領へ通す。
その後、補給車を半日遅らせて出発させたほうが、全体としては速くなる」
「それに、ハドソン領では今年の春に二つの穀倉が新設されている。
三千人が三日間必要とする食糧を十分に賄えるはずだ。
エルウィン領で急いで補給する必要はない」
訓練場が静まり返った。
団長はしばらく考え、ゆっくりと頷いた。
「……殿下のおっしゃる通りです。
我々は例年の行軍計画をそのまま使っていたため、こうした変化を見落としていました」
エリオスは第三王子を見つめ、驚きの色を浮かべる。
「殿下は、普段からこういう地方の政務も見ているんですか?」
第三王子の表情は相変わらず冷たい。
「ただの通常業務だ。
各地の道路、橋、穀倉、それに修繕に必要な予算は、毎年王都へ送られてくる」
エリオスは左耳の耳飾に触れた。
そして、思わず笑みをこぼす。
「なるほど。
どうやら、俺が探していたのは殿下みたいだ」
第三王子が僅かに眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
エリオスは肩をすくめた。
「俺がずっと考えていたのは、目の前の敵にどう勝つかだった。
でも殿下が考えているのは、国そのものをどう良くするかなんだな」
第三王子は答えなかった。
ただ、黙って地図へ視線を落とす。
エリオスは第三王子を見つめながら、今朝から胸に引っかかっていた疑問を思い返した。
今なら、その答えの一部が分かる気がする。
国王は本気で第三王子を戦場へ立たせ、自分自身の功績を築かせようとしている。
では、第一王子と第二王子は――
おそらく、別の思惑がある。
だが、それでも一つだけ分からないことが残っていた。
なぜ、自分が第三王子を連れて国境まで向かわなければならないのか。




