第3話 魔王、勇者を見送る
魔王城・会議室。
荘厳な人間の王宮とは、まるで雰囲気が違っていた。
そこはむしろ、様々な種族が一堂に会する広場のような場所だった。
巨大な円卓は、ほとんどの席が埋まっていた。
額の両脇から二本の角を生やした鬼族の代表は、腕を組んで目を閉じている。
屈強な体格の獣人は、見るからに不機嫌そうな顔で机を指先で叩いていた。
小柄なゴブリンの代表は、自分の身長よりも高く積み上げられた書類を抱え、必死になってページをめくっている。
黒いコートをまとった吸血鬼の貴族は、優雅に紅茶を口にしながら、黙って周囲の様子を眺めていた。
漆黒の翼を持つ悪魔族は椅子の背にもたれ、見るからに待ちくたびれた様子で天井を見上げている。
他にも、様々な種族の代表たちが円卓を囲んでいた。
黙り込んでいる者もいれば、隣同士で小声で話している者もいる。
顔立ちも、身体つきも、種族も、それぞれまるで違う。
こうして見ると、ここが魔王の宮殿というより、各種族が共同で国を運営するための議会だと言われたほうがしっくりくる。
ただし――
例外もいた。
掌ほどの大きさしかない妖精たちだ。
彼女たちは透明な羽を羽ばたかせながら、会議室の天井付近を自由に飛び回っている。
どうやら、最初から椅子に座って会議をするつもりはないらしい。
そんな中。
ざわざわと話し声が飛び交っていた会議室の扉が、ゆっくりと開いた。
「魔王様のおなりです!」
その瞬間。
先ほどまで騒がしかった室内が、一気に静まり返った。
ヴェラが堂々とした足取りで上座へ向かう。
その後ろには、エリオスがついていた。
だが、席に着く前から声が飛んできた。
「魔王様、本日は少々遅く――」
ヴェラが、冷たい視線を向ける。
「……何?」
真紅の瞳が細められた。
瞬間。
目に見えない威圧感が、会議室全体を覆い尽くす。
「私が毎日処理している書類の量は、
あなたたち全員分を合わせても及ばないのよ」
ヴェラは悠然と自分の席に腰を下ろした。
そして、両手を机の上で組む。
「少しくらい待たせたって、いいでしょう?」
「…………」
先ほど口を挟んだ魔族は、すぐさま顔を伏せた。
もう二度と口を開こうとはしない。
会議室には、針を落としても聞こえそうな静寂が広がった。
その隣で、エリオスは苦笑していた。
――やっぱり、普段のヴェラのほうが可愛いな。
そんなことを考えていると、ヴェラがふと彼の存在に気づいた。
そして、エリオスを見る。
「……あなたの席がないわ」
「ん? いいよ。
俺は急に付いてきただけだし。立ってるから」
「それじゃ駄目でしょう!」
突然、獣人の一人が立ち上がった。
「おい! 誰かスライムを連れてこい!」
「スライム?」
エリオスが聞き返す。
だが、何が起きているのか理解するより先に――
ぷるん。
丸々とした青いスライムが、別の魔族に抱えられて運び込まれてきた。
「これに座ってください。結構、座り心地いいですよ!」
「…………」
エリオスは、目の前の無垢な顔をしたスライムを見つめた。
どこから突っ込めばいいのか、さっぱり分からない。
すると今度は、別の魔族が大真面目な顔で提案した。
「それなら、魔王様の膝の上に座っていただくというのは?
どうせ勇者様はいずれ我々の身内になるのですから」
「なっ――!?」
ヴェラの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「な、何を言ってるのよ!」
バンッ!
両手で机を叩く。
「誰がそんな勝手なことを言えって許可したの!?」
会議室が、完全に凍りついた。
誰も喋らない。
誰も動かない。
ただ一人――
エリオスだけが、堪えきれずに吹き出した。
「ははっ。
だから、本当に気にしなくていいって」
エリオスは窓辺へ歩いていく。
そして軽く跳ぶと、そのまま大きな窓台に腰を下ろした。
「俺はここでいいよ」
窓から吹き込んだ風が、エリオスの髪を揺らす。
すると、天井付近を飛び回っていた妖精たちが興味深そうに近づいてきた。
「お、久しぶり」
エリオスが指を差し出す。
一匹の妖精が嬉しそうにその指先へ舞い降りた。
他の妖精たちも肩へ乗ったり、頭の周りをくるくると飛び回ったりする。
鈴を転がすような笑い声が、会議室に響いた。
そして――
ようやく会議が始まった。
……のだが。
しばらくして、エリオスは眉間に皺を寄せていた。
「この地域の巡回を増やすべきです」
「いや、それより先に街道の修繕だ」
「食料の配分についても決めなければなりません」
「その件については――」
一つの問題が片付く前に、また別の問題が持ち上がる。
巡回を増やすべきだという者。
まずは道路を直すべきだという者。
食料の配分を優先すべきだという者。
誰もが真剣だった。
誰もが、本気で魔族の暮らしを良くしようとしている。
ただ――
それぞれが、自分の担当している場所しか見ていない。
国全体を一つに繋げて考える者がいないのだ。
エリオスは、次々と飛び込んでくる問題に頭を抱えているヴェラを眺めた。
――なるほど。
魔国が今みたいになってる理由が、なんとなく分かった。
別に、誰も真面目にやっていないわけじゃない。
むしろ逆だ。
みんな、それぞれの仕事には真剣に取り組んでいる。
ただ――
国そのものをどう動かすのか。
それを理解している人間がいない。
エリオスは小さく息を吐いた。
……とはいえ。
ふと窓の外へ目を向ける。
自嘲するような笑みが浮かんだ。
俺だって、人のことは言えない。
物心ついた頃から魔境で育った自分に、人間の王国にあるような、
複雑な政治や権力争いのことなど分かるはずもない。
そんなことを考えていた、その時だった。
エリオスの視線が止まった。
魔王城は、魔境全体を見渡せるほど高い山の頂に建っている。
この場所からなら、遠くに広がる森林の大部分を見下ろすことができる。
エリオスは、そっと手を上げた。
瞳の奥で、淡い青緑色の魔力が揺らめいた。
すると、遥か彼方にあった景色が徐々に鮮明になっていった。
森の中。
一つの人間の隊列が、足を止めている。
見覚えのある兵士たちだった。
だが――
あの隊列が向かっているのは、国境砦へ戻る道ではなかった。
「…………」
エリオスの表情が、僅かに変わった。
彼は窓台から飛び降りると、ヴェラの隣まで歩いていく。
「悪い。ちょっと面倒なことになってるみたいだ」
ヴェラが手を止め、顔を上げる。
「……帰るの?」
エリオスは頷いた。
ヴェラの瞳に、一瞬だけ寂しそうな色が浮かんだ。
だが、それもすぐに消える。
彼女はいつもの高慢な魔王の顔を作り、わざとそっぽを向いた。
「そう。だったら早く行きなさい。
先にそっちを片付けてきたら?」
エリオスは微笑んだ。
「ああ。またすぐ会おう」
会議室を出たエリオスは、そのまま魔王城で最も高い塔へ向かった。
塔の頂上。
そこには、銀白色の竜が静かに伏せていた。
エリオスの姿を認めると、古竜はゆっくりと首をもたげる。
「帰るのか?」
「ああ」
エリオスは古竜の前脚を軽く叩いた。
「兵士たちがちょっと面倒なことに巻き込まれたみたいなんだ。
様子を見に戻らないと」
「そうか」
古竜は、それだけ言うと自然な動作で翼を広げた。
「わしが送ろう」
まるで、最初からそうするつもりだったかのように。
エリオスも慣れた動作で、その背へ飛び乗る。
古竜が飛び立とうとした――
その時だった。
「待って!」
背後から、慌ただしい足音が響いた。
エリオスが振り返る。
塔の階段を駆け上がってきたヴェラが、息を切らして立っていた。
「ヴェラ? どうした?」
エリオスが怪訝そうに尋ねる。
だが、ヴェラは答えなかった。
自分の頭に生えた黒い角へ手を伸ばす。
「…………」
そして――
バキッ。
角の先端を、自分の手でへし折った。
「ヴェラ!?」
エリオスは驚いて、慌てて竜の背から飛び降りた。
「何やってるんだよ!」
ヴェラは痛みに顔をしかめた。
それでも平然を装いながら、折れた角の一部をエリオスへ差し出す。
「これ、持っていって」
「え?」
「どうせ、しばらくすればまた生えてくるから」
そう言って、ヴェラは顔を逸らした。
「……何か土産くらい持って帰らないと、困るでしょう?」
エリオスは目を瞬いた。
「土産?」
「だって……」
ヴェラは小さな声で言った。
「あなた、私を討伐しに来たんでしょう?」
「…………」
エリオスは苦笑する。
「いや、今回は違うよ」
「え?」
「俺が受けた命令は、森の周辺で増えてる魔獣を駆除することだけだ。
魔王討伐なんて命令、最初から出てないよ」
「…………」
ヴェラが固まった。
「……え?」
「知らなかったの?」
「……全然」
ヴェラは呆然とした顔で瞬きをする。
そして、自分の手の中にある折れた角を見下ろした。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が流れた。
そこへ――
「そうだ、息子よ」
古竜が口を開いた。
エリオスが振り返る。
「何?」
古竜はいたって真面目な顔で言った。
「森でわしと遭遇したことにすればいいのではないか?」
「……?」
「それなら、わしの牙を一本抜いて持って帰ればいい。
そちらのほうが、討伐の証としては説得力があるだろう」
「…………」
エリオスは数秒、黙り込んだ。
ヴェラの手にある折れた角を見る。
次に、真顔でそんな提案をする古竜を見る。
そして――
額を押さえた。
「……父さんもヴェラもさ」
呆れたように笑う。
「俺のこと、心配しすぎだって」
エリオスは小さく息を吐いた。
それでも、ヴェラが差し出した折れた角を受け取る。
傷つけないように、そっと腰の小さな革袋へしまった。
「これは……」
エリオスはヴェラの頭を見る。
そこには、角の先端が欠けた小さな跡が残っていた。
「本当なら、俺がちゃんとヴェラを倒した日に……俺自身の手で折るはずのものだったんだけどな」
ヴェラが僅かに目を見開く。
だが、すぐに顔を逸らした。
「……誰があなたのためなんか」
耳が赤くなっている。
「あなたが手ぶらで帰ったら、国王にクビにされるかもしれないから心配しただけよ」
「そうなのか?」
「そうよ」
ヴェラはそっけなく答える。
そして、ふんと鼻を鳴らした。
「それに――」
ちらりとエリオスを見る。
「その時になったら、どっちの角が折られることになるのか……まだ分からないでしょう?」
迷いのない声だった。
ただし。
赤く染まった耳だけは、彼女の本心を隠しきれていない。
エリオスは、それ以上追及しなかった。
ただ、楽しそうに笑う。
「じゃあ、また今度な」
そう言って、再び古竜の背へ乗った。
「父さん、行こう」
「うむ」
古竜が巨大な翼を広げる。
――ゴォォォッ!
巻き起こった風が塔の頂上を駆け抜ける。
銀白色の巨竜が、一気に空へと舞い上がった。
その姿は、瞬く間に小さくなっていく。
ヴェラは塔の端に立ったまま、その背中を見送っていた。
やがて、銀白色の姿が空の彼方へ消えていく。
彼女の角には、小さな欠け跡だけが残っていた。
さっきの出来事が夢ではなかったことを、それだけが証明していた。
風が吹き抜ける。
黒い長髪が揺れる。
ヴェラは耳元にかかった髪をそっと払い、勇者が消えていった空を見つめた。
「…………」
そして――
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……馬鹿な勇者」




