第21話 勇者、礼服に着替える
東の山岳にある古代転移陣が、再び淡い青白い光を放った。
空間が僅かに歪み、次の瞬間、エリオスの姿が、王都の魔導塔地下へ戻ってきた。
足を踏み出した直後、聞き慣れた声が横から飛んできた。
「やっと帰ってきた?」
エリオスが振り向く。
そこには、魔導塔の主がすでに濃い紫色のドレスへ着替えて立っていた。
身体に沿った仕立てが、成熟したしなやかな曲線を際立たせている、その上には銀色の紋様が刺繍されたローブを羽織っている。
魔導士としての威厳を残しながらも、王宮の舞踏会に出席するには申し分ない正装だった。
手には相変わらず細長い煙管。
腕を組みながら、彼女は呆れたような顔でエリオスを見つめている。
「まさか、旅装のまま王宮の舞踏会へ行くつもりじゃないでしょうね?」
エリオスは乾いた笑いを漏らした。
「間に合ったんだからいいだろ?」
「間に合った?」
魔導塔の主は思わず白い目を向けた。
「それは間に合ったんじゃなくて、最後の最後に滑り込んだって言うの。
あと少し遅かったら、私が礼服を王宮まで届けて、
宴会場の前で着替えさせるところだったわ」
エリオスは鼻の頭を掻き、反論しなかった。
どうやら、今回が初めてではないらしい。
魔導塔の主はため息を吐き、後ろへ手招きした。
「持ってきて」
若い魔導士の一人が、すぐに細長い箱を抱えてやってくる。
魔導塔の主はそれを受け取ると、そのままエリオスへ押しつけた。
「あなたの舞踏会用の礼服。
サイズはとっくに合わせてあるから、早く着替えて」
「ありがと」
エリオスは笑いながら箱を抱え、隣の更衣室へ入っていった。
しばらくして。
部屋の中が静まり返る。
魔導塔の主が眉を上げた。
「どうしたの?」
更衣室の中から、少し困ったようなエリオスの声が返ってくる。
「先生……」
「今度は何?」
「これ……どうやって着るの?」
魔導塔の主は固まった。
「……何?」
「服」
エリオスが半身を覗かせる。
両手には何種類もの衣服を抱えていた。
本人は至って真剣な顔で尋ねる。
「これって内側? それとも外側?
それから、この紐は帯なのか肩掛けなのか分からない。
袖が別々になってるんだけど。
あと、このボタンはどこに留めるの?」
部屋の中が静まり返った。
三人の魔導士が互いに顔を見合わせ、そっと視線を逸らす。
魔導塔の主は深く息を吸い込んだ。
「勇者様」
「はい?」
「あなた、いったい今までどうやって王宮の舞踏会に出席してたの?」
エリオスは当然のように答えた。
「全部、人に着せてもらってた」
カタン。
魔導塔の主の手から煙管が落ちかけた。
彼女は目を閉じ、眉間を強く揉む。
「そこに立って」
「ん?」
「いいから、動かない」
エリオスは何をされるのか分からなかったものの、大人しく背筋を伸ばした。
魔導塔の主は彼のシャツや外套を整えながら、ぶつぶつと文句を言う。
「二十三歳にもなって、礼服一つまともに着られないって……
普段どうやって生活してるの?」
エリオスは笑いながら答えた。
「普段は冒険者用の装備だから、簡単で楽なんだよ。
こういう服なんて一年に何回も着ないし。
それに、何枚も重ねるから複雑すぎるんだよ」
魔導塔の主は呆れたように最後の帯を結んだ。
「言い訳しないの」
そう言いながら襟元を整える。
「昔は、あなたが文字一つ読めないんじゃないかって心配して、
基礎的な魔法理論から教え始めたのよ。
なのに教材を最後まで読み終える前に、
一冊丸ごと暗記してしまったでしょう?」
彼女は呆れたようにエリオスを見る。
「それなのに、礼服の着方だけは今になっても覚えられない」
エリオスは苦笑した。
「先生、それは別だよ」
「何が別なの?」
「魔法のほうが面白いから」
魔導塔の主は黙った。
「だから服は覚えなくてもいいと?」
「……うん」
とうとう我慢できなくなったのか、彼女は煙管でエリオスの額を軽く小突いた。
「この馬鹿弟子」
エリオスはただ笑い、彼女に襟を整えられるまま大人しくしていた。
「よし」
魔導塔の主は一歩下がり、目の前の青年を満足そうに眺める。
銀白色の礼服はすっきりとした仕立てで、胸元には金色の刺繍が施されている。
肩から垂れるショールが動くたびに揺れ、いつもの気楽な冒険者らしさを幾分か抑え、王都の貴族を思わせる優雅な雰囲気を醸し出していた。
その時だった。
彼女の視線が、エリオスの左耳で止まった。
白金色の髪の間から、漆黒の耳飾りが僅かに覗いている。
魔導塔の主は目を細めた。
「その耳飾り……前はなかったわよね?」
エリオスは無意識に左耳へ触れ、笑った。
「うん。綺麗だろ?」
魔導塔の主が一歩近づく。
手を伸ばして触れることはせず、ただ黙ってその黒い耳飾りを観察する。
しばらくして、眉をひそめた。
「……妙ね」
エリオスが瞬く。
「どこが?」
「普通の魔物素材じゃないわ」
彼女の声が次第に真剣になる。
「中に残っている魔力が完全には消えていない。
それも、かなり安定している。
普通、魔物が死ねば残留魔力はすぐに散ってしまうものよ。
魔導具に加工する場合だって、
術式を刻み直して魔力を固定する必要がある」
彼女は耳飾りをじっと見つめた。
「でも、これは違う」
そっと目を閉じ、微かに残る魔力を感じ取る。
「まるで……最初からそこにあることが当然だったみたい。
単なる装飾品に加工されても、元々持っていた力をそのまま残している」
再び目を開き、エリオスを見る。
「また、とんでもないものを拾ってきたんじゃないでしょうね?」
エリオスは笑うだけだった。
「運が良かっただけだよ」
「はいはい、またそれね」
魔導塔の主は呆れたように白い目を向ける。
「いつも『運が良かった』。
普通の人が冒険に出れば魔石を拾ってくるのに、
あなたが出かけると古代遺物だったり、
私でも正体が分からない素材だったり……」
彼女はもう一度耳飾りを見る。
「形からすると……角に近い。
でも、こんな魔力を持つ角を持つ魔物なんて、
私には思いつかないわ」
エリオスは人差し指を唇に当て、意味ありげに笑った。
「秘密」
魔導塔の主は、やっぱりね、と言いたげな顔をした。
「そうだと思った」
彼女はため息を吐き、扉へ向かう。
「まあいいわ。
危険なものじゃないなら、あなたの好きにしなさい」
扉の前まで行ったところで、何かを思い出したように足を止める。
「ちゃんと私についてきて。こっそり逃げたりしないでよ」
エリオスは乾いた笑いを浮かべた。
「先生、俺のことを一体どういう人間だと思ってるの?」
魔導塔の主は振り返り、即答した。
「誰かが見張っていないと、いつの間にかどこかへ消えている問題児」
エリオスは思わず吹き出した。
「……否定できないな」
「分かってるならいいわ」
そう言って、彼女は先に魔導塔の外へ向かって歩き出した。
エリオスは左耳の耳飾りにそっと触れる。
その口元には、いつの間にか自然な笑みが浮かんでいた。
そして、彼女の後を追う。
王宮の舞踏会が、間もなく始まろうとしていた。




