第20話 古竜、人間の子を拾う
午後の山風が、静かに吹き抜けていた。
銀色の古竜はゆっくりと頭を下げ、自分の傍らで眠る青年を見つめる。
白金色の髪が、風に揺れている。
あどけなさの消えたその顔は、今や一人前の勇者として誰にも頼らず歩いていけるほどに成長していた。
しかし、古竜の目に映る彼は、いつまで経っても、あの頃の小さな人間の子供のままだった。
穏やかな寝顔を見つめていると。
二十三年前の記憶が、山風に運ばれるように、ゆっくりと蘇ってきた。
――◇――
あの頃も、東の山岳は今と変わらず静かだった。
濃密な魔素が一年中山林を覆い、普通の野生動物は長く生きられない。
魔獣ですら、古竜が棲む山頂には滅多に近づこうとしなかった。
時折、魔獣を討伐したり、貴重な薬草や鉱石を探したりする冒険者が山へ入ってくることもあった。
だが、大半の者は長く留まることができない。
山の奥へ進めば進むほど、魔素は濃くなっていく。
身体が耐えられない者は、不調を感じる前に慌てて山を下りるしかなかった。
山の麓に点在する小さな村々には、いつしか一つの伝説が語り継がれるようになっていた。
この山には、自分たちを守ってくれる竜神が住んでいる。
一年中消えることのない白い霧は、竜神が吐き出す竜の息だという者もいた。
竜神を怒らせなければ、この山そのものが村を守ってくれるという者もいた。
そうして長い年月が経つうちに、山頂へ自ら足を踏み入れようとする者はほとんどいなくなった。
その静寂こそが、古竜がこの地に長く住み続けている理由でもあった。
そんな、ある日のこと。
数人の手のひらほどの妖精たちが、慌てた様子で洞窟へ飛び込んできた。
「アルドラス様!」
「アルドラス様!」
「大変!」
古竜はゆっくりと黄金色の瞳を開いた。
数人の妖精が、彼の鼻先を忙しなく飛び回っている。
「山の下!」
「変なのがいる!」
「鳴いてる!」
「ずっと鳴いてる!」
古竜は静かに妖精たちを見つめた。
「魔獣か?」
妖精たちは一斉に首を横に振る。
「違う!」
「すごく小さい!」
「柔らかい!」
「角がない!」
「尻尾もない!」
妖精たちは口々に喋りながら、必死に身振り手振りで説明する。
だが、古竜にはさっぱり分からなかった。
「人間!」
一匹の妖精が、ついに大声を上げた。
「すごく小さな人間!」
古竜は僅かに眉をひそめる。
人間?
こんな場所に、人間が?
本来なら、気にするつもりなどなかった。
しかし、妖精たちは諦めようとしない。
「見に行こう!」
「本当に変なんだよ!」
「ずっと鳴いてる!」
「アルドラス様!」
「アルドラス様!」
とうとう妖精たちは、古竜の巨大な鼻先を皆で押し始めた。
古竜は目を閉じた。
何かを耐えるように、しばらく沈黙する。
やがて、低くため息を吐いた。
「……分かった」
古竜はゆっくりと立ち上がる。
巨大な銀色の身体が洞窟を出て、妖精たちの後を追うように山腹へ向かった。
しばらくして。
山風に乗って、かすかな泣き声が聞こえてきた。
「うわぁ……」
「うぇ……」
古竜は声を頼りに進んでいく。
そして、大樹の根元で一つの小さな籐籠を見つけた。
その中には、生まれて間もない人間の赤子が横たわっていた。
顔を真っ赤にして泣き、小さな両手を必死に振り回している。
古竜は一目、赤子を見た。
何も言わなかった。
まず顔を上げ、周囲を見渡す。
人間はいない。
魔獣もいない。
争った形跡もない。
空気中にも、人間の気配は残っていなかった。
まるで誰かがこの子を置いて、そのまま完全に消えてしまったかのようだった。
古竜は低く呟く。
「……自分の子を、このような場所に捨てたのか」
再び籐籠へ視線を落とす。
ここは魔境だ。
魔獣など言うまでもない。
それ以前に、これほど濃密な魔素に人間の赤子が耐えられるはずがない。
何者にも襲われなくとも、そう長くは生きられないだろう。
古竜は静かに目を閉じた。
人間と関わるつもりなどない。
そう思い、背を向けようとした。
だが、傍らの妖精たちが次々と彼の前へ飛び出してくる。
「行かないで!」
「見てあげて!」
「ずっと鳴いてる!」
「アルドラス様!」
「アルドラス様!」
騒がしい声が次々と重なる。
古竜はとうとう、困ったように頭を下げた。
「鳴いているのではない。泣いているのだ……」
そして、もう一度赤子を見た。
その瞬間だった。
先ほどまで泣き続けていた赤子が、何かを感じ取ったかのように、ぴたりと泣き止んだ。
ゆっくりと目を開く。
そこには、空のように澄んだ蒼い瞳があった。
その瞳が、目の前にいる巨大な銀色の古竜を静かに映し出す。
怯えもしない。
再び泣き出しもしない。
ただ、じっと古竜を見つめている。
古竜は僅かに目を見開き、その蒼い瞳を長い間見つめていた。
山林には、木の葉を揺らす風の音だけが響いている。
しばらくして。
古竜はとうとう、低くため息を吐いた。
「……まったく。厄介な人間だ」
そう言いながらも、彼はそっと籐籠を咥えた。
落ち葉一枚を運ぶかのように慎重な動作だった。
少しでも力加減を間違えれば、中の小さな命を傷つけてしまう。
それほどまでに、慎重に。
妖精たちは大喜びで空中をくるくると飛び回る。
「やった!」
「アルドラス様が育てるんだ!」
「違う」
古竜は淡々と訂正した。
「放っておけないだけだ」
妖精たちは顔を見合わせる。
そして、にこにこと笑いながら頷いた。
「同じだよ!」
「同じ同じ!」
洞窟へ戻った古竜は、そこで初めて別の問題に直面した。
人間が食事を必要とすることは知っている。
だが――。
人間の幼子は、一体何を食べるのだ?
古竜は、再び泣き始めた赤子を見つめ、珍しく困惑した表情を浮かべた。
妖精たちは口々に案を出す。
「果物!」
「蜂蜜!」
「キノコ!」
古竜は妖精たちを一瞥した。
「死ぬぞ」
妖精たちは一斉に黙り込んだ。
しばらくして。
古竜は洞窟を出た。
山の別の谷まで向かい、そこで幼子を産んだばかりの幻獣に助けを求めた。
最初の頃。
その子は魔素を含んだ乳を飲んだことで、何日も高熱を出した。
古竜は、自分の判断が間違っていたのではないかと思った。
しかし。
その子は何度も何度も耐え抜いた。
そして間もなく。
その小さな身体は、次第にこの山岳に満ちる濃密な魔素へ適応していった。
古竜は、穏やかに眠る小さな姿を見つめる。
その黄金色の瞳には、初めて驚きの色が浮かんでいた。
「……適応したのか。妙な人間だ」
人間だからといって、魔素にまったく耐えられないわけではない。
ただ、時間が必要なのだ。
そうして、歳月は静かに流れていった。
山の四季が幾度も巡る。
籐籠の中で眠っていた小さな赤子は、やがてよちよちと山林を走り回るようになった。
柔らかな白金色の髪が、陽光を受けてきらきらと輝く。
妖精たちはいつも彼の周りを飛び回っていた。
山の幻獣たちも、次第にこの特別な小さな客人を受け入れていった。
男の子は何に対しても好奇心旺盛で、毎日のように質問を繰り返した。
「どうして葉っぱは落ちるの?」
「どうして川の水は流れるの?」
「どうして鳥は飛べるの?」
「アルドラス様は飛べるのに、僕も飛べる?」
古竜は、一つ一つの質問に辛抱強く答えた。
時には古竜が。
時には妖精が。
そして時には、山に棲む幻獣たちが。
この山岳そのものが、その子の教師になった。
三歳になる頃には、すでに基礎的な魔法を自在に扱えるようになっていた。
古竜が何を教えても、彼はすぐに覚えてしまう。
だが、一人で遊ぶ時に使う魔法は、決まって風だった。
そよ風で木の葉を舞い上げる。
そよ風で花びらを追いかける。
風を自分の周りにまとわせ、林の中を走り回る。
彼は、そんな遊びが大好きだった。
ある日。
古竜はついに口を開いた。
「たまには他の魔法も使ってみたらどうだ」
男の子はすぐに首を横に振った。
「やだ」
古竜は不思議そうに尋ねる。
「なぜだ?」
彼はすぐには答えなかった。
ただ、そっと手を掲げる。
一陣の優しい風が、その小さな掌からゆっくりと流れ出した。
それは枝葉の間を抜け、草花を撫で、最後には男の子の周囲へ戻ってくる。
まるで男の子と戯れているかのように。
男の子はその風を見つめ、満面の笑みを浮かべた。
「だって……風って、アルドラス様に似てるから」
古竜は僅かに目を見開いた。
「わしに?」
男の子は力強く頷く。
「うん!」
そして空を見上げた。
自分の瞳と同じ色をした、果てしない青空を。
「いつか僕も、アルドラス様みたいに、風の中を飛んでみたい」
古竜は、無邪気に笑う男の子を長い間見つめていた。
やがて。
そっと鼻先をその子の額へ触れさせる。
それは、二十年後の今日と何一つ変わらない、優しい仕草だった。




