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勇者は魔王討伐より、魔国づくりで忙しい。  作者: 雪沢 凛


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第19話 勇者、古竜に甘える

 エリオスは山中へ足を踏み入れた。


 一歩、また一歩と奥へ進むにつれ、空気中の魔素も次第に濃くなっていく。


 淡い霧が林の中を漂い、山の麓よりも遥かに大きな木々が立ち並んでいる。

 岩の隙間に咲く野花でさえ、淡い魔力の光を放っていた。


 普通の人間なら、ここまで来ただけで身体に異変を感じ始めるだろう。

 さらに奥へ進めば、普通の野生動物などとっくに姿を消している。

 この濃密な魔素に適応した生物だけが、ようやく生きていける場所なのだ。


 しかし、エリオスにとっては違った。


 まるで自分の家に帰ってきたかのように、自然な足取りで歩いていく。

 濃密な魔素は彼を苦しめるどころか、どこか安心するような、懐かしい感覚を与えてくれた。


 エリオスは深く息を吸い込む。

 濃密な魔素の中でも、彼には馴染み深い気配がはっきりと感じ取れた。


 穏やかで、それでいて途方もなく巨大な魔力。

 まるで、この山岳全体を静かに守っているかのような気配だった。


 エリオスは思わず口元を緩める。

「父さんの魔力……相変わらず凄いな」


 すでに山の魔素と溶け合っているにもかかわらず、彼にはそれが古竜のものだとすぐに分かった。


 本当なら、道中の景色をゆっくり楽しみながら進みたいところだった。

 だが、最後に帰ってきてから、もうすぐ一ヶ月になる。

 そう思うと、足は自然と速くなっていった。


 淡い青緑色の魔力が両足に絡みつく。

 次の瞬間、エリオスの身体は山風に乗り、林の中を凄まじい速度で駆け抜けていた。

 山頂付近まで来たところで、ようやく魔法を解除する。


「……」

 エリオスは、いたずらっぽく笑った。


 ここからは、こっそり近づいてみよう。

 もしかしたら、父さんを驚かせられるかもしれない。


 気配を意図的に抑え、足音まで消しながら、一歩ずつ洞窟へ近づいていく。

 そこには、見慣れた巨大な姿が横たわっていた。


 銀色の竜鱗に覆われた巨体が、陽光を浴びて柔らかな光沢を放っている。


 古竜は目を閉じていた。

 まるで眠っているかのようだ。


 エリオスは思わず口元を吊り上げる。

「今度こそ、驚かせられるかも――」


 そう思った瞬間だった。

 古竜の瞼が、ほんの僅かに動いた。

 エリオスの笑顔が一瞬で消える。


「……寝たふりかよ」

 仕方なく不意打ちを諦め、大人しく歩み寄る。

「父さん、寝たふりはもういいよ」


 銀色の巨竜が、ゆっくりと目を開いた。

 黄金色の瞳に、目の前の成長した青年の姿が映る。

 しばしの沈黙の後、古竜が淡々と口を開いた。


「わしも、お前を驚かせられると思ったのだがな」


 エリオスは思わず笑った。

「俺のほうが先に考えてたのに。

 父さん、いつから気づいてたの?」


「お前が山に入った時だ。

 お前の魔力なら、とうに感じ取っている」


 そう言うと、巨大な竜の頭がゆっくりと下がる。

 鼻先がエリオスの身体に、そっと触れた。

 まるで拗ねているようでもあり、甘えているようでもある。


「今頃になって帰ってきたか」


 エリオスは笑いながら両腕を伸ばし、その巨大な頭を抱きしめる。

「俺だって父さんに会いたかったよ。

 できるなら、もっと頻繁に帰ってきたいんだけどな」


 古竜は黙って彼を見つめる。

 次の瞬間。

 黄金色の瞳が鋭く細められた。


「怪我は?」

「ないよ」

「誰かに虐められてはいないか?」

「ないって」

「ちゃんと食事はしているか?」

「してるよ」


 それでも古竜は、まだ納得していない様子だった。


「立て」

「え?」

「服を」


 エリオスが目を瞬かせた。

 何が何だか分からないうちに、古竜は巨大な爪を器用に彼の服の裾へ引っ掛けた。

 そのまま、めくり上げようとした。


「ちょ、ちょっと待って!」

 エリオスは慌てて自分の服を掴む。

「本当に怪我してないから!」


「見せろ」

「いいって!」

「見せろ」


「本当に大丈夫だから!」

 笑いながら、必死に服を引っ張り下ろす。

「俺、もう二十三歳なんだよ! 子供じゃないんだから!」


 古竜はようやく諦めた。

 ただし、黄金色の瞳は依然としてエリオスの頭から足元まで、念入りに確認している。


 やがて、その視線がエリオスの左耳で止まった。

 そこには、漆黒の角から作られた耳飾りが、陽光を受けて静かに揺れている。


 古竜は目を細めた。

「ほう……あの子の角を身につけたのか」


 エリオスは左耳に触れ、笑った。

「綺麗だろ?」


 古竜はしばらく耳飾りを眺めていた。

 そして、ふと尋ねる。

「それを渡さなかったのか?」


「ん?」


「人間の国へ持って帰ると言っていただろう」


 エリオスは一瞬きょとんとした後、吹き出した。

「俺が身につけてるんだから、それでも同じだろ?」


 古竜は少し考えるように黙り、やがて頷いた。

「なるほど」


 次の瞬間。

 古竜が突然、大きく口を開いた。

 鋭い牙が露わになる。


「ならば、わしの牙はどうだ? それとも新しい鱗を一枚やろうか」

 そう言って、本当に牙を噛み折ろうとする。


「待って待って!」

 エリオスは慌てて、その鼻先を両手で抱え込んだ。

「本当にいらない! 自分でなんとかするから!」


「いらないのか?」

「いらない」

「本当に?」

「本当に、だって」


 古竜は少し残念そうに口を閉じた。

 エリオスは思わず苦笑する。


「父さん、身体の一部を俺にくれなくていいよ。

 俺は竜素材を集めてる冒険者じゃないんだから」


 古竜は平然と答えた。

「お前が喜ぶなら、それでいい」


 エリオスは一瞬、何も言えなくなった。

 やがて、笑いながら首を横に振る。

 しばらくして、何かを思い出したように口を開いた。


「俺、明後日には帰らないといけないんだ」


 古竜は少し黙った。

「転移陣をあまり使うな。

 あれは魔力を使いすぎる。わしが送ってやろう」


 エリオスはすぐさま笑って手を振った。

「勘弁してよ。

 父さんが本当に人間の国まで飛んできたら、大騒ぎになるって」


 古竜はしばらく考え、確かにその通りだと思ったのか、それ以上は言わなかった。


 エリオスは笑って続ける。


「それに、父さんだって東境をそう簡単に離れられないだろ。

 みんな父さんを頼りにしてるんだから」


 古竜は否定せず、ただ小さく鼻を鳴らした。

 エリオスは笑いながらその巨体の隣まで歩き、銀色の竜鱗に覆われた身体へ寄りかかるように座った。


 午後の日差しを浴びた竜鱗は暖かく、自然と身体の力が抜けていく。

 エリオスは頭をそっと古竜へ預け、大きく伸びをした。


「今は何もしたくないな。

 父さんと一緒に、ゆっくり昼寝したい」


 古竜は彼を見下ろした。

 やがて、巨大な翼がゆっくりと広がる。


 その翼はエリオスの身体を優しく覆い、午後の日差しから彼を守った。


 山風が静かに吹き抜ける。

 山岳全体が、木々の葉がそよぐ音だけを残して、穏やかな静寂に包まれていた。

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