第14話 勇者、王子に呼び出される
王城の奥深く。
魔導塔、地下最深層。
古代の紋様が刻まれた巨大な転移陣が、
石造りの部屋の中央で静かに眠っていた。
周囲の壁には淡い青色の光を放つ魔石がいくつも埋め込まれ、
地下室全体を幻想的に照らし出している。
その時、不意に転移陣が光を放った。
古代の魔法文字が石板の上を次々と走り、
眩い白光が転移陣全体を覆い尽くす。
同時に、空間そのものが僅かに歪んだ。
ヴゥン――。
光が瞬いたのは、ほんの一瞬だった。
次の瞬間には、一人の青年が転移陣の中央に立っていた。
エリオスはゆっくりと目を開け、ふう、と息を吐く。
「ふぅ……」
無意識に額を揉む。
「やっぱり、目を閉じてたほうが酔いにくいな」
転移陣を囲んでいた三人の魔導士は、
一瞬呆気に取られたものの、すぐに我に返って頭を下げた。
「勇者様」
「お帰りなさいませ」
エリオスは笑って三人に手を振る。
「みんな、ご苦労さん」
その時。
コツ、コツ、とハイヒールが石床を叩く音が、遠くから近づいてきた。
「やっぱりね」
気だるげな女の声が響く。
「そろそろ帰ってくる頃だと思ってたわ」
エリオスが声のほうへ振り向く。
思わず笑みが浮かんだ。
そこにいたのは、漆黒の魔導士のローブを身にまとった女だった。
長身で成熟した身体つきはローブ越しにも優美な曲線を描き、
腰まで届く濃い紫色の長髪が背中へ流れている。
豊かな胸元はローブを押し上げるほどで、
片腕を胸の前に組み、もう片方の手には細長い煙管を挟んでいる。
その表情にはどこか気だるげな雰囲気があり、
何事にもさほど興味がなさそうだった。
——彼女はこの魔導塔の主だ。
三人の魔導士が再び頭を下げる。
「先生」
魔導塔の主は転移陣のそばまで歩いてくると、
まずエリオスを頭から足元まで眺め、それから大きくため息をついた。
「二日前、聖女様がわざわざ通信石を借りに来たのよ。
その時点で、あなたがまたどこかへ勝手に行ったんだろうなって思ってたわ」
彼女はまだ淡く光っている転移陣へ目を向ける。
そして、心底悔しそうな顔をした。
「せっかくこの古代転移陣に魔力を満タンまで蓄えたっていうのに。
あなたが帰ってきたせいで、また半分近く使っちゃったじゃない」
彼女は転移陣の紋様をそっと撫でる。
まるで何十年も大切にしてきた宝物を慰めるような仕草だった。
「かわいそうに……また何日も休ませないと使えないわね」
エリオスは乾いた笑いを浮かべる。
「急ぎだったんだよ」
「次からは、勝手に転移陣を使わないこと」
魔導塔の主は目を細めてエリオスを見る。
「せめて私に一言くらい連絡して。
国王陛下に知られたら、
魔導塔の責任者である私がクビになっちゃうんだから」
エリオスは両手を合わせ、申し訳なさそうに笑った。
「悪かったって。
次はちゃんとするから」
魔導塔の主は呆れたように白い目を向ける。
「あなたの『次はちゃんとする』、
もう何回聞いたと思ってるの?」
そして、もう一度ため息をついた。
「まあ、それはともかく。
数百年も失われていた古代転移陣を再起動させたのは、あなたのお手柄よ。
おかげで魔導塔も、ようやくまともな研究ができるようになった。
功績はあなた。面倒事を持ち込むのもあなた。
感謝すればいいのか、追い出せばいいのか、
私にも分からないわ」
エリオスは頬を掻く。
「それはまた今度、ゆっくり話そう。
第一王子殿下が待ってるんだ」
そう言うと、エリオスは皆に手を振り、
そのまま出口へ向かって足早に歩いていく。
魔導塔の主は一瞬呆気に取られた。
「ちょっと!」
「エリオス!」
「この子!」
しかし、エリオスの姿はあっという間に階段の向こうへ消えてしまった。
魔導塔の主は悔しそうに軽く足を踏み鳴らす。
「毎回毎回、もう!
次は絶対、転移陣の調整なんて手伝ってあげないんだから!」
エリオスの姿が魔導塔の階段の奥へ消える。
魔導塔の主は再び静かになった古代転移陣を眺めながら、
白い煙をゆっくり吐き出した。
「自分の魔力だけでも、直接起動できるくせに……」
転移陣の紋様を指先で撫でる。
「毎回、先にこっちに貯めてある魔力を空っぽにするんだから。
自分が楽をしてるのか、それとも私の研究をいじめてるのか……」
そう愚痴をこぼしながらも、その口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「……まあ、いいわ」
「今に始まったことじゃないし」
その頃。
エリオスが魔導塔を出ると、入口にはすでに数人の騎士が待っていた。
騎士たちの胸元には、金色の紋章が刻まれている。
エリオスには見覚えがあった。
第一王子の紋章だ。
騎士たちは小声で何かを話すと、
そのうちの一人がすぐに頷き、踵を返して足早に去っていった。
どうやら、勇者が王城へ戻ったことを第一王子へ知らせに行ったらしい。
ほどなくして、一人の騎士がエリオスのもとへやって来た。
恭しく一礼する。
「勇者様。第一王子殿下が宮殿でお待ちです。
こちらへどうぞ」
「分かった」
エリオスは頷き、騎士たちと共に王宮の廊下を歩き始めた。
午後の日差しが白い石壁を照らしている。
庭園には様々な花が咲き乱れ、綺麗に刈り込まれた植え込みが曲がりくねった小道を囲んでいた。
中央の噴水からは、静かに水が流れ落ちている。
時折、白い鳥が水辺に降り立ち、羽繕いをしている。
やがて侍従に案内され、エリオスは庭園の奥にある東屋へ通された。
石造りのテーブルには、すでに温かい紅茶と菓子が用意されている。
「勇者様、こちらで少々お待ちください。
第一王子殿下も、間もなくお見えになります」
エリオスは笑って頷いた。
「ご苦労さん」
侍従が立ち去ると、庭園は再び静寂に包まれた。
エリオスは紅茶を一口飲み、遠くに見える王宮へ目を向ける。
その口元には、僅かな苦笑が浮かんでいた。
――今度こそ、無駄足じゃなければいいんだけどな。
ここ数年、二人の王子から時折、王都へ戻ってくるよう声を掛けられている。
前線の状況を聞きたい時もあれば、ただ自分に会うためだけの時もある。
だが、本当の目的が何なのか。
お互い、分かりきっていた。
第一王子は三十歳。
第二王子は二十八歳。
そして第三王子は、まだ二十歳。
エリオスよりも若い。
国王は未だ健在だ。
そのため、王位を巡る争いにも決着はついていない。
第一王子も第二王子も、これまで何度となくエリオスへ好意を示してきた。
理由は単純だ。
勇者は、王国を象徴する最も分かりやすい存在。
その勇者から支持を得られれば、いずれ王位を継ぐ際にも、より大きな正当性を得られる。
だが、エリオスにはどちらかの陣営につくつもりなど、最初からなかった。
彼にとっては――
ただ前線へ戻れれば、それで十分だった。
第一王子は、なかなか姿を現さない。
エリオスも催促することなく、東屋で静かに一杯、また一杯と紅茶を飲み続けた。
せっかく前線を離れて王都へ戻ってきたのだ。
この時間を使って、今の魔国の状況を改めて頭の中で整理しておこう。
これからどうやって戦線を進めるか。
どこはしばらく避けるべきか。
そして、どこだけは自分の目で確認しなければならないのか。
考えるべきことは、王位争いなんかより遥かに多い。
そんな時だった。
一人の侍従騎士が、慌ただしい様子で庭園へ駆け込んできた。
エリオスの前まで来ると、深々と頭を下げる。
「ゆ、勇者様……
第一王子殿下ですが、急なご用事が入ったため……
本日は、お会いになれないとのことです。
どうか、先にお戻りになってお休みください」
エリオスは僅かに目を瞬かせた。
そして、思わず笑ってしまう。
「俺を王都まで呼び戻しておいて、結局会わないのか?」
侍従騎士の額に冷や汗が浮かぶ。
何か言おうと口を開くものの、結局何も言えない。
エリオスは立ち上がると、そんな彼の肩を軽く叩いた。
いつもの穏やかな笑顔のままだ。
「気にするなよ。君は命令されて来ただけだろ?」
そして王宮のほうへ一度目を向け、少し考える。
「殿下がまだ俺に用があるなら、いつでも使いを寄越してくれ。
前線について何か指示があるなら、それも伝えておいてくれ」
侍従騎士は慌てて頭を下げる。
「は、はい!
必ずお伝えします!」
エリオスは頷いた。
そして、そのまま庭園の出口へ向かって歩き出す。
夕日が、彼の影を長く伸ばしていた。
振り返ることもなければ、不満を口にすることもない。
こんなことは、もう一度や二度ではない。
王子たちが本当に会いたいのは――
エリオスではない。
勇者なのだ。




