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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第四章 地域共同拠点編

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第59話 家を離れる朝



 空が白み始めても、藤堂家の玄関が開くことはなかった。


 夜の間、何度か外から物音が聞こえた。


 塀の向こうを小さな何かが走る音。


 砂利を踏む音。


 遠くで重なり合う、甲高い鳴き声。


 そのたびに、見張りをしていた者たちは武器を握り直した。


 だが、ゴブリンが再び扉を叩くことはなかった。


 追い払ったわけではない。


 自衛隊の巡回車両が近づいたため、姿を消しただけだ。


 それが分かっているからこそ、誰も安心して眠れなかった。


 夜が明けた後も、誠は全員へ外へ出ないよう命じた。


「明るくなったからといって、安全とは限らない」


 ゴブリンは夜だけ活動するとは限らない。


 空き家や物陰へ潜み、住民が外へ出てくるのを待っている可能性もある。


 昨日までなら、朝になれば庭や道路を確認していた。


 今は、それすらできない。


 自分たちの家に閉じ込められている。


 その現実が、居間に重い空気を落としていた。


「お母さん」


 奥の和室から、翔太が小さな声で尋ねる。


「もう外にはいないの?」


「まだ分からないわ」


 恵は息子を抱き寄せた。


「自衛隊の人が来るまで、ここにいようね」


「うん……」


 翔太は頷いたものの、窓の方を何度も気にしていた。


 外に何がいるのか。


 自分の目で確かめたくなるのだろう。


 悠真にも、その気持ちは分かった。


 金属バットを手に、今すぐ周囲を調べたい。


 足跡を見れば、何匹来たのか分かるかもしれない。


 《鑑定》を使えば、普通の人間では気づけない痕跡も拾える可能性がある。


 それでも、外には出なかった。


 美咲と交わした約束がある。


 一人で決めない。


 危険なことは、きちんと話す。


 悠真が玄関へ視線を向けると、隣にいた美咲がすぐに気づいた。


「外へ行きたいって思ってる?」


「少しだけ」


「少しだけ?」


「かなり」


 悠真が正直に答えると、美咲は呆れたように息を吐いた。


「でも、行かない」


「うん。それならいい」


 美咲の手が、悠真の服の袖へ軽く触れる。


 以前なら、心配されることを煩わしく感じていたかもしれない。


 今は違う。


 無茶を止める人が隣にいることが、ありがたかった。



 午前七時を過ぎた頃。


 住宅地へ、車両のエンジン音が近づいてきた。


 昨夜と同じ、重い駆動音。


 続いて、拡声器から声が響く。


『自衛隊です』


『周辺の安全確認を行っています』


『住民は、合図があるまで屋外へ出ないでください』


 迷彩色の車両が藤堂家の前で止まった。


「藤堂さん!」


 玄関の外から、高木士長の声がする。


「昨夜の巡回班です!」


「周囲を確認しますので、まだ扉は開けないでください!」


「分かりました!」


 誠が内側から答える。


 家の外を複数の隊員が移動する。


 庭。


 塀。


 裏口。


 隣家との境。


 砂利を踏む軍靴の音が、家の周囲を一周した。


 時折、隊員同士が短く報告を交わしている。


「足跡を確認」


「こちらにもあります」


「北側へ回り込んだ跡あり」


「住民のものとは違います」


 悠真たちは声を出さず、その報告を聞いていた。


 やはり、昨夜のものは気のせいではなかった。


 玄関の外へ、一匹。


 塀の向こうへ、もう一匹。


 それだけではない。


「藤堂さん」


 一通りの確認を終えた高木が、再び玄関へ声を掛けた。


「周辺に人型生物の姿はありません!」


「扉を開けてもらって構いませんが、全員は出ないでください!」


 誠はカーテンの隙間から、自衛隊員の姿を確認する。


 迷彩服。


 小銃。


 昨夜と同じ高木士長。


 周辺を警戒する複数の隊員もいる。


 ようやく玄関の角材と鍵を外した。


「開けます」


 扉を慎重に開く。


 朝の冷たい空気が、家の中へ流れ込んできた。


 玄関前には、無数の小さな足跡が残っていた。


 子供の裸足に似ている。


 だが、指が異様に長く、爪先が地面へ深く食い込んでいた。


 扉の下部には、泥の付いた手形。


 取っ手の周囲にも、細い指で何度も触れた跡がある。


「開けようとしてた……」


 彩乃が呟く。


「ああ」


 英樹は扉の傷を確認した。


「刃物を使った跡もある」


 鍵の周囲には、細い切り傷が何本も付いている。


 鍵を壊す仕組みまでは理解していなかったのだろう。


 それでも、扉のどこを触れば開く可能性があるのかは知っている。


「何匹来ていたんですか?」


 誠が高木へ尋ねた。


「確認できる足跡は五体分です」


「五体……」


「ただし、塀の外や道路に残っている跡までは数えていません」


 見えていた反応より多い。


 悠真は玄関の外へ出ず、敷地内に残された足跡へ意識を向けた。


 《鑑定》。


――ゴブリンの足跡。


――経過時間、約六時間。


――成体、四個体。


――幼若個体、一個体。


――集団狩猟行動。


――人間の生活臭を追跡。


――巡回車両の接近により撤退。


 幼若個体。


 あの群れには、成長途中のゴブリンも混じっていた。


 子供を狩りへ連れてきたのか。


 それとも、人間とは違い、幼い頃から獲物を襲うのか。


「五匹のうち、一匹は少し小さかったと思います」


 悠真が言う。


「足跡の大きさが違う」


 高木も地面へ視線を落とした。


「確かに、この足跡だけ小さいな」


「子供でしょうか」


 美咲が不安そうに尋ねる。


「分かりません」


 高木は答えた。


「成長段階なのか、個体差なのかも調査中です」


 外見が小さいからといって、危険でないとは限らない。


 むしろ狭い場所へ入り込むなら、小型の個体の方が厄介な可能性もある。


「足跡は南側へ続いています」


 高木が道路の先を示した。


「本日、南町周辺の捜索を行っています。高橋三曹たちが先行しました」


「巣を探すんですか?」


 悠真が尋ねる。


「その予定です」


「見つかったら、すぐに駆除するんですか?」


「規模を確認してから判断します」


 自衛隊でも、敵の数が分からない状態で踏み込むことはできない。


「皆さんは、今後どうする予定ですか」


 高木が家の中にいる人数を確認する。


 藤堂家。


 朝倉家。


 三浦親子。


 一つの家に、十人を超える人間が集まっている。


「ホームセンターへ移ろうと考えています」


 誠が答えた。


「夜だけでも、全員が同じ拠点に集まった方がいい」


「妥当だと思います」


 高木は頷く。


「昨夜、ホームセンターにも数体が接近しています」


「襲われたんですか?」


 佐伯たちの顔を思い浮かべ、悠真が身を乗り出す。


「外周フェンス付近で足跡が確認されました」


「見張りが物音に気づき、照明と警笛を使ったところ、逃走したそうです」


「侵入は?」


「ありません」


 悠真は僅かに息を吐いた。


 佐伯たちは無事だ。


「ホームセンターは、住宅より防御しやすい」


 高木が続ける。


「見張りも交代できます。部隊としても、住民がまとまっている方が情報を伝えやすい」


「ただし、移動中の安全は保証できません」


「いつ出ればいいでしょうか」


「午前九時頃、巡回班が再びこの道路を通ります」


「準備が間に合うなら、その時に移動してください」


「巡回車両が先導することはできませんが、近くを通る間は周辺を確認できます」


「分かりました」


 午前九時。


 残された時間は、二時間もない。


 家にある物を、すべて持っていくことはできない。


 何を持ち出し。


 何を残すのか。


 選ばなければならなかった。



「まず薬と救急用品」


 真由美が言った。


「着替えは数日分。毛布と衛生用品も必要です」


「食料と水は全部持っていく」


 誠が続ける。


「残しておいても、ゴブリンに荒らされるかもしれない」


「全部は積めないぞ」


 英樹が作業車の荷台を思い浮かべる。


「藤堂家の車と俺の作業車を使っても、人数が多い」


「二往復は?」


 彩乃が提案する。


「駄目だ」


 英樹は首を横へ振った。


「一度目は自衛隊の巡回時間に合わせられる。二度目も安全とは限らない」


 最優先は人間。


 次に、代わりが手に入りにくい物。


 薬。


 衣類。


 食料。


 水。


 重要な書類。


 使い慣れた道具。


 持ち出せる量には限界がある。


「翔太のおもちゃは?」


 翔太が不安そうに尋ねた。


「一つだけなら持っていっていいわ」


 恵が答える。


「一つだけ?」


「大事なものを選んで」


 翔太は奥の部屋へ走り、しばらくして小さな野球用グローブを抱えて戻ってきた。


「これにする」


 金属バットは、すでに悠真が使っている。


 翔太が選んだのは、それと一緒に使っていたグローブだった。


「大切に持っていてね」


「うん」


 恵は息子の頭を撫でた。


 大人たちも、それぞれの部屋へ向かった。


 悠真は自室へ入り、リュックを開く。


 着替え。


 大学で使っていた農業関係の教科書とノート。


 充電できなくなった携帯電話。


 キャンプ用品。


 ナイフ。


 ライト。


 予備の電池。


 すべて持っていきたい。


 だが、荷物には限界がある。


 悠真は教科書を数冊だけ選んだ。


 作物栽培。


 土壌学。


 植物病理。


 これから畑を作るなら、役に立つ可能性がある。


 机の上には、家族で撮った写真が飾られていた。


 彩乃が中学生だった頃。


 朝倉家と一緒に河原へ出掛けた時の写真。


 悠真と美咲は、互いを意識する前のような顔で並んでいる。


「それも持っていけば?」


 後ろから、美咲の声がした。


「見てたのか」


「入っていいか聞いたよ」


「聞こえなかった」


 悠真は写真立てを手に取る。


「荷物になるかな」


「そのくらいなら大丈夫だよ」


 美咲は写真を覗き込んだ。


「懐かしい」


「美咲、今より幼いな」


「悠真も人のこと言えないでしょ」


「変わってないと思うけど」


「変わってるよ」


 美咲は笑いながらも、すぐに表情を曇らせた。


「また、ここに戻れるよね」


 悠真は答えようとして、言葉を止めた。


 簡単に「戻れる」とは言えない。


 ゴブリンは、藤堂家に人間が住んでいると知った。


 この家を餌場として覚えた可能性がある。


 南町の巣が排除されなければ、何度でも来るかもしれない。


「戻れるようにしよう」


 悠真は答えた。


「自衛隊が巣を見つけて、周辺が安全になったら」


「うん」


「それまで、家は残しておく」


 完全に捨てるわけではない。


 窓と扉を固め、必要な物を持って一時的に離れる。


 それでも、美咲の目には寂しさが浮かんでいた。


 この家には。


 二人が想いを伝え合った縁側もある。


 付き合うことを家族へ報告し、皆で笑った居間もある。


 守るために離れる。


 分かっていても、感情は簡単には納得してくれない。


「写真、持っていこう」


 美咲が言う。


「また戻ってきた時、同じ場所に置けばいいから」


「ああ」


 悠真は写真立てから写真だけを外し、折れないよう教科書の間へ挟んだ。



 朝倉家の荷物を取りに行くかどうかでも、意見が分かれた。


 朝倉家は藤堂家から車で数分。


 昨夜、ゴブリンが確認された空き家とは別方向だ。


 それでも、安全とは言えない。


「必要な物がある」


 英樹が言った。


「仕事の道具と、家に置いてある作業用の装備だ」


「今じゃないと駄目?」


 由紀が尋ねる。


「拠点の工事に使える」


「それに、恒一の着替えや薬も向こうに残ってる」


「俺は別に着替えなくても」


 恒一が口を挟む。


「そういう問題じゃないでしょう」


 由紀が息子を睨む。


「私も行く」


 美咲が言った。


「自分の物と、お兄ちゃんの物を取ってくる」


「危ない」


 恒一が止める。


「だから、お父さんと一緒に行くの」


「俺も行く」


 悠真が続ける。


 美咲がすぐにこちらを見た。


「一人では行かない」


 悠真は先に言った。


「三人で行く。道路から外れない。朝倉家に着いたら、十分以内に戻る」


「でも」


「必要な物は今のうちに持ってきた方がいい」


 家族で話し合い、英樹、悠真、美咲の三人だけが朝倉家へ向かうことになった。


 自衛隊の巡回班がまだ周辺にいる間。


 武器を持ち。


 滞在時間を決め。


 危険を感じたら、何も取らずに戻る。


「絶対に無理はしないでね」


 由紀が夫と娘へ念を押す。


「分かってる」


 英樹はバールを持ち上げる。


「物より命だ」



 住宅地は、不気味なほど静かだった。


 朝日が差している。


 空も明るい。


 それなのに、人の姿がない。


 窓や雨戸を閉めた家々が並び、どこからも生活音が聞こえなかった。


 道路脇には、自衛隊が付けた赤い印がいくつか残っている。


 ゴブリンの足跡を確認した場所なのだろう。


 三人は周囲を警戒しながら進む。


 英樹が先頭。


 中央に美咲。


 悠真が後方を確認する。


 普段なら数分で着く距離が、ひどく長く感じられた。


「止まって」


 悠真が小声で呼び掛ける。


 道路脇の植え込み。


 枝の一部が、不自然に折れている。


 泥の付いた小さな足跡が一つ。


 《鑑定》を使う。


――ゴブリンの足跡。


――経過時間、約八時間。


――南方向へ移動。


「昨夜の跡だと思う」


「今はいないのか?」


 英樹が尋ねる。


「分からない。でも、新しい跡じゃない」


「急ごう」


 三人は足を速めた。


 朝倉家の外観に、大きな異常はなかった。


 玄関も閉じている。


 窓も割れていない。


 英樹が鍵を開ける前に、悠真が周囲を確認する。


 足跡はない。


 魔素の反応も感じられない。


「中に入る」


 英樹を先頭に玄関を開ける。


 誰もいない家。


 空気が止まり、僅かに埃っぽい匂いがした。


「十分だ」


 英樹が腕時計を見る。


「必要な物だけ持て」


「うん」


 美咲は二階へ駆け上がった。


 悠真は玄関付近に残り、外と家の中を警戒する。


 英樹は物置から工具箱、作業手袋、安全靴、ロープなどを運び出した。


 美咲は家族の衣類と恒一の私物、由紀が使っていた薬や生活用品をバッグへ詰める。


 時間がない。


 思い出の品まで選んでいる余裕はなかった。


 八分後。


「戻るぞ」


 英樹の声で、全員が玄関へ集まった。


 美咲は最後に家の中を振り返る。


「行こう」


 悠真が声を掛ける。


「うん」


 扉を閉じ、鍵を掛ける。


 住む者のいなくなった朝倉家が、静かな住宅地に残された。



 藤堂家へ戻ると、すでに荷物の大半が玄関前へ集められていた。


 英樹の作業車には工具や食料、毛布などを積む。


 藤堂家の車には、真由美、由紀、恵、翔太、恒一が乗る。


 荷台へ乗せられない物は、各自がリュックで背負う。


 誠、悠真、美咲、彩乃、英樹は、車の周囲を歩いて移動することになった。


 ホームセンターまでは、それほど遠くない。


 だが、負傷している恒一や子供を歩かせるよりは安全だった。


「戸締まりは?」


 誠が確認する。


「全部終わった」


 英樹が答える。


「窓も内側から補強した。裏口にも棚を置いた」


「冷蔵庫の中身は?」


「使えそうな物は全部持ったわ」


 真由美が答える。


 停電が長引き、冷蔵庫に残っている物自体が少ない。


「ガスは止めた」


「水道も元栓を閉めた方がいいか?」


「今はまだ出る可能性がある。漏れがなければそのままでいい」


 最後の確認を終える。


 誠は玄関の鍵を握ったまま、しばらく家を見つめていた。


「父さん」


「分かってる」


 鍵を掛ける。


 カチリ。


 小さな音。


 それだけで、自分たちの生活に一区切りが付いたように感じられた。


 悠真も家を振り返る。


 玄関扉には、昨夜ゴブリンが付けた傷。


 泥の手形。


 そのすぐ上には、まだ家族の表札が残っている。


 藤堂家。


 ここが自分たちの家であることは変わらない。


 だが今日から。


 帰れば安全な場所ではなくなった。


「行こう」


 誠が言った。


 午前九時。


 予定通り、自衛隊の巡回車両が道路の先に現れた。


 高木士長が車両から手を上げる。


「移動しますか!」


「はい!」


「我々は周辺を巡回しながら進みます!」


「車列から離れ過ぎないでください!」


 自衛隊車両。


 英樹の作業車。


 藤堂家の車。


 その周囲を歩く悠真たち。


 小さな一団が、住宅地を離れていく。


 道の途中。


 閉ざされた窓の隙間から、こちらを見る住民の姿があった。


 どこへ行くのか。


 自分たちも付いていくべきなのか。


 そんな迷いが、その顔に浮かんでいる。


 全員を連れていくことはできない。


 ホームセンターの受け入れ人数にも限界がある。


 それでも、地域共同拠点の存在を知らせる必要はある。


「今度、自衛隊と相談して、近所の人たちにも説明しよう」


 誠が言った。


「受け入れるかどうかは、その後で決める」


 助けたい。


 だが、誰でも無条件に受け入れれば、拠点そのものが崩壊する。


 その難しい判断を、これから何度も迫られるのだろう。



 ホームセンターの大きな看板が見えた時。


 悠真は初めて、肩から少しだけ力を抜いた。


 正面入口の障害物は、昨日よりも強化されている。


 駐車場には見張りが立ち、屋上付近にも人影があった。


 昨夜の接近を受け、夜明けから防御を増やしていたらしい。


「藤堂さんたちだ!」


 見張りをしていた田島が声を上げる。


 店内から佐伯が出てくる。


「無事だったか!」


「何とか」


 誠が答える。


「昨夜、家まで来ました」


「こっちにも来た」


 佐伯は外周フェンスを指さす。


 金網の一部に、よじ登ろうとした跡が残っている。


 空き缶をつないだ警報が鳴り、見張りが発見した。


 発電機を短時間動かし、作業灯で照らす。


 さらに田島が車の警笛を鳴らすと、ゴブリンは逃げたという。


「姿を見たんですか?」


「ああ」


 佐伯の表情が硬くなる。


「小さい。子供くらいだ」


「だが、四匹か五匹はいた」


「弓を持っていた奴もいる」


「怪我人は?」


「いない」


 無事だった。


 悠真はようやく安堵の息を吐く。


「ただし、外売り場の苗と肥料を少し持っていかれた」


「肥料を?」


 悠真が聞き返す。


「袋ごとじゃない。破って、中身を撒き散らしてた」


「食べ物だと思ったのかもしれん」


 佐伯は苦々しい顔をした。


「苗は何本か抜かれてる」


 食料を探したのか。


 植物そのものを食べるためか。


 それとも、使い道を理解しているのか。


 まだ分からない。


「全員、今日からここで寝泊まりする」


 誠が告げた。


「場所はありますか?」


「作る」


 佐伯は即答した。


「狭くはなるが、追い返す理由はない」


「もともと、この拠点を作ろうと言い出したのは俺たちだからな」


 店舗の一角。


 カーテンや棚で区切った生活区画。


 事務所。


 休憩室。


 従業員用の仮眠室。


 使える場所を整理すれば、藤堂家と朝倉家、三浦親子が眠る場所は確保できる。


 快適とは言えない。


 床は硬く。


 水も限られ。


 夜になれば真っ暗になる。


 それでも。


 高いフェンスがある。


 頑丈なシャッターがある。


 交代できる見張りがいる。


 何かあれば、全員で声を掛け合える。


「悠真兄ちゃん」


 車から降りた翔太が、ホームセンターを見上げる。


「今日から、ここがおうちになるの?」


 悠真は少し考えた。


「新しい家じゃない」


「じゃあ、何?」


「皆で生きるための場所だ」


「僕たちの家は?」


「ちゃんと残ってるよ」


 恵が息子の肩を抱く。


「今は、ここにお泊まりするだけ」


「ずっと?」


「それは、まだ分からないわ」


 翔太は不安そうだったが、やがて小さく頷いた。


「グローブ、持ってきた」


「なくさないようにしようね」


「うん」


 荷物を運び始める。


 佐伯や田島。


 大森夫妻。


 木村兄妹。


 すでに拠点にいた避難者たちも手を貸してくれた。


 誰かが毛布を運び。


 誰かが生活区画を広げ。


 誰かが新しい荷物を記録する。


 個人の家族が移ってきたというより。


 共同体の人間が、また少し増えたようだった。



 午後。


 ホームセンターの正面へ、自衛隊車両が戻ってきた。


 降りてきた高橋の作業着と靴には、泥がこびりついている。


 隣にいる村上も、疲れた表情をしていた。


「藤堂君たちも移ったのか」


 高橋が悠真へ声を掛ける。


「はい」


「家まで来たんだって?」


「五匹くらいです。自衛隊の車両が近づいたら逃げました」


「戦わなかったのは正解だ」


 高橋は短く頷いた。


「一匹ずつなら弱く見える」


「だからこそ、外へ出て追い払いたくなる」


「でも、見えている個体だけとは限らない」


 実際、藤堂家の周囲には複数のゴブリンが隠れていた。


「巣は見つかったんですか?」


 悠真が尋ねる。


 高橋はすぐには答えなかった。


 佐伯や誠、英樹たちも集まってくる。


「巣らしき場所は確認しました」


「どこです?」


「南町の外れにある雑木林です」


 住宅地から少し離れた場所。


 小さな用水路と、長く使われていない資材置き場がある。


 周囲には茂みが多く、外からは中の様子が見えにくい。


「数は?」


 英樹が尋ねる。


「目視できた個体だけで、二十を超えています」


 誰も言葉を発しなかった。


 二十。


 昨夜、藤堂家へ来た数の四倍以上。


「見えていない個体を含めれば、さらに多い可能性があります」


 高橋は続けた。


「小型の個体も確認しました」


「子供ですか?」


「断定できません。ただ、成体と思われる個体より明らかに小さい」


 繁殖している。


 エレシアが語った通りなら。


 巣を放置すれば、数はさらに増える。


「今日、攻撃しないんですか?」


 彩乃が尋ねた。


「偵察班だけでは無理です」


 村上が答える。


「相手の巣へ突っ込むには、数も装備も足りない」


「地形も悪い。茂みと資材に隠れられたら、弓で一方的に狙われる」


「応援を要請しています」


 高橋が言う。


「早ければ明日、掃討作戦を行います」


「それまでは?」


「外出を控えてください」


「特に日没後は、この拠点から出ないでほしい」


「また来ると思いますか」


 佐伯が尋ねる。


「巣の近くにある住宅から、食料を持ち去った形跡があります」


 高橋はホームセンターの建物と駐車場を見回した。


「ここは、周辺で最も大きな建物です」


「人間も、物資も集まっている」


「見つかれば、狙われる可能性は高いでしょう」


 すでに昨夜、ゴブリンは外周まで来ている。


 こちらの存在は知られていると考えるべきだ。


「今夜は巡回を増やします」


「ただし、常駐はできません」


「分かっています」


 佐伯が答えた。


「自分たちでも備えます」


 高橋たちが去った後。


 地域共同拠点にいる全員が、事務所前へ集められた。


 ゴブリンの巣。


 確認された数。


 今夜、襲撃される可能性。


 隠しておくことはできない。


 佐伯は、壁に貼った模造紙の一番上へ新しい言葉を書き加えた。


『日没までに、全員で防御を完成させる』


 外周フェンス。


 警報。


 見張り台。


 入口の障害物。


 弓への対策。


 逃げ込む場所。


 やるべきことは山ほどある。


 誰も命令を待たなかった。


 英樹と田島は資材を確認する。


 大森は発電機と照明を点検する。


 誠と佐伯は見張りの配置を決める。


 真由美と奈緒は、怪我人が出た場合の区画を整える。


 由紀、恵、和子、美咲は、水と食料を一か所へまとめる。


 彩乃と木村颯太は、運べる資材を次々に移動させた。


 悠真は、外売り場と倉庫にある物を見回す。


 使えるもの。


 危険なもの。


 防御へ転用できるもの。


 《鑑定》を使いながら、一つずつ選んでいく。


 家を離れたばかりだ。


 休む暇などなかった。


 悠真は、店舗の入口へ貼られた紙を見る。


『地域共同拠点』


『ここにある物は、皆で生きるために使います』


 今日から。


 この場所は、作業をするだけの拠点ではない。


 悠真たち全員が眠り。


 食事をし。


 帰ってくる場所になった。


 そして。


 日が沈めば。


 二十体を超えるかもしれないゴブリンの群れから。


 守らなければならない場所になる。


 閉店したホームセンターに、再び金槌の音が響き始めた。


 今度の音は、暮らしを作るためだけではない。


 迫り来る群れから。


 ここに集まった人間を守るための音だった。

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