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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第四章 地域共同拠点編

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間話 人ではない敵



 小学校の校庭に設置された仮設照明が、薄暗くなり始めた空を白く照らしていた。


 発電機の低い駆動音。


 給水を待つ住民たちの声。


 医療用テントから運び出される空の資材箱。


 時折、無線機から流れる途切れた報告。


 以前なら子供たちが走り回っていた場所は、自衛隊の前進拠点へと姿を変えていた。


「右脚の刺創。発熱あり。意識は清明ですが、傷口の感染が進んでいます」


 医療用テントの前で、高橋健吾三等陸曹は看護官から報告を受けていた。


 ホームセンターから搬送されてきた負傷者。


 小野寺陸、二十五歳。


 傷は右の太腿。


 大きな血管を外れていたことだけが、不幸中の幸いだった。


「刺さっていた物は?」


「本人の話では、石の穂先が付いた槍です。ただし、傷口内部に破片が残っている可能性があります」


「レントゲンは?」


「現在、準備中です」


 小学校へ持ち込まれた医療機器には限りがある。


 簡易的な撮影装置はあるが、病院と同等の検査ができるわけではない。


 より詳しい処置が必要なら、後方の医療施設まで搬送しなければならない。


 しかし、道路状況も悪い。


 搬送できる車両の数にも限界がある。


「傷口から採取したものは、検査班へ回しました」


「魔素反応は?」


「簡易測定では、陽性です」


 看護官が声を落とす。


「ただし、既存の魔獣由来試料より反応は弱い。負傷者本人の血液にも微量の反応があります」


 高橋の表情が険しくなる。


「変化は?」


「現時点では、身体能力や意識状態に明確な異常はありません」


「引き続き監視を」


「了解しました」


 小野寺は、犬型や熊型の魔獣に襲われたわけではない。


 人間に似た何かが使った武器で傷つけられた。


 それだけでも、これまでとは意味が違う。


「高橋三曹」


 背後から呼ばれ、振り返る。


 一人の隊員が、透明な防護袋に包まれた収納箱を運んできた。


 箱の中には、ホームセンターから回収した石の刃が入っている。


「回収物の外観確認が終わりました」


「結果は?」


「石器に見えます。ただし、こちらで確認できた国内の一般的な黒曜石とは質感が違います」


 隊員は収納箱を地面へ置く。


 蓋越しにも、中の刃物は見えた。


 黒い石。


 削り出した木の柄。


 植物の蔓らしきもので固定された刃。


 作りは原始的だ。


 だが、明確に武器として作られている。


「血液は?」


「複数種類が付着しています」


「人間以外も?」


「詳細は検査待ちですが、一部は人間由来ではない可能性があります」


 高橋は箱の中の石刃を見下ろした。


 魔犬や巨大な熊なら、まだ理解できる部分があった。


 元は犬。


 元は熊。


 異常に巨大化し、凶暴化していても、既存生物の延長線上にある。


 だが、これは違う。


 武器を作る。


 罠を仕掛ける。


 集団で動く。


 民家の扉を叩き、人間を誘い出す。


 そこにあるのは、単なる獣の本能ではない。


「本部から追加情報です」


 通信担当の隊員が駆け寄ってくる。


 手にした紙には、無線で受け取った内容が急いで書き写されていた。


「読み上げます」


「ああ」


「県内複数地域で、小型人型生物の目撃情報あり。特徴は身長一メートル前後、緑色または灰緑色の皮膚、尖った耳、集団行動」


「武器は?」


「木製槍、石斧、弓状の道具を使用したとの報告があります」


 ホームセンターへ逃げてきた人々の証言と一致している。


「被害状況」


「死亡者、行方不明者あり。家屋への侵入、家畜および保存食の持ち去りも確認されています」


「家畜?」


「郊外の鶏舎が襲われたとの報告です。鶏だけでなく、飼料も持ち去られていました」


 高橋は眉を寄せる。


 獲物をその場で食べるだけではない。


 食料を持ち帰っている。


 もし拠点や巣を持つなら、そこにはさらに多くの個体がいる可能性がある。


「暫定呼称は?」


「未確認人型生物。現場では一部、ゴブリンと呼ばれています」


「ゴブリン……」


 村上義明一等陸曹が、少し離れた場所から呟いた。


 腕を組み、石刃を収めた箱を見つめている。


「ゲームに出てくる、あれか」


「似ているから呼ばれているだけでしょう」


 高橋は答える。


「正式名称ではありません」


「だとしても、覚えやすい」


 村上は校庭の外へ目を向けた。


「で、そいつらは獣なのか、人なのか」


 誰もすぐには答えられなかった。


 人間に近い姿をしている。


 武器を作る。


 仲間と協力する。


 だが、人間を餌や獲物として襲っているという報告もある。


「本部から交戦規定は?」


 高橋が尋ねる。


 通信担当は紙の続きを読む。


「住民への攻撃行動を確認した場合、武器使用を許可。可能であれば捕獲を優先。ただし、隊員および住民の安全を最優先とする」


「捕獲優先か」


 村上が低く笑う。


「熊の時も似たようなことを言っていたな」


「相手が人型だからです」


「人型なら、撃たずに話し合えるとでも?」


「本部も分かっていないんでしょう」


 高橋は紙を受け取った。


 情報が少な過ぎる。


 言葉を理解するのか。


 交渉できるのか。


 個体差があるのか。


 全個体が敵対的なのか。


 それさえ分からない。


 射殺してから、人間と同等の知性を持っていたと判明する可能性もある。


 逆に、捕獲を優先して隊員や住民が犠牲になる可能性もある。


「難しい顔してるな」


 村上が言った。


「簡単な話ではありません」


「現場では簡単だ」


 村上は即座に返した。


「襲ってきたら撃つ。逃げるなら追わない。武器を捨てて手を上げたら、撃たない」


「人間と同じですね」


「少なくとも、最初はそれでいい」


 村上は猟友会に長く所属していた。


 獣と人間。


 両方の危険を知っている。


「ただしな」


 彼の目が細くなる。


「獣だと思って近づいたら、相手は人間みたいに罠を使う」


「人間だと思って躊躇したら、獣みたいに喉へ食らいついてくる」


「一番厄介な相手だ」


 高橋も同じ考えだった。



 日が完全に沈む前に、偵察班を出すことが決まった。


 目的は、南町の被害状況確認。


 ゴブリンと呼ばれる人型生物の痕跡を記録し、可能なら死体や遺留物を回収する。


 追跡はしない。


 日没前に戻る。


 住民の救助が必要なら、最優先で対応する。


 高橋を含む六名が、軽装甲機動車と小型トラックに分乗した。


 村上も同行する。


「人型生物と接触した場合、無理に捕獲は狙わない」


 出発前、高橋は隊員たちへ確認する。


「武器を持って接近する場合は警告。止まらなければ射撃を許可する」


「言葉が通じなかった場合は?」


 一人の隊員が尋ねた。


「身振りと警告射撃を使う。それでも接近するなら敵対行動と判断する」


「住民と一緒にいた場合は?」


「状況を見て判断する」


 答えながら、高橋は自分でも曖昧だと感じていた。


 これまで自衛隊が想定してきた相手ではない。


 災害派遣。


 治安出動。


 有害鳥獣の駆除。


 そのどれにも完全には当てはまらない。


 相手は怪物なのか。


 異なる種族なのか。


 敵性勢力なのか。


 定義する言葉さえ、まだ決まっていなかった。


「出発する」


 車両が校門を出る。


 給水を待っていた住民たちが、不安そうな顔で見送っていた。


 道路には放置車両が増えている。


 事故車。


 燃料切れの車。


 持ち主が戻らないまま、扉だけが開いている車。


 隊員たちは何度も車両を降り、進路を確保しながら進んだ。


 南町へ近づくにつれ、人の姿が減っていく。


 窓が割れた家。


 玄関扉が開いたままの住宅。


 道路に散乱した衣服や生活用品。


 明らかに、何かから逃げた跡だった。


「停止」


 高橋が手を上げる。


 車両が止まる。


 道路の中央に、大きな血溜まりがあった。


 すでに乾き始めている。


 そこから住宅の塀へ向かって、引きずったような跡が続いていた。


 隊員たちが銃を構え、周囲を確認する。


「人間の血でしょうか」


「量だけでは分からん」


 村上がしゃがみ込み、地面を見る。


「足跡がある」


 血溜まりの周囲。


 子供のものに似た小さな足跡。


 だが、裸足に近く、指が異様に長い。


 一つや二つではない。


「少なくとも八」


 村上が数える。


「同じ大きさばかりじゃない。小さいのと、少し大きいのがいる」


「群れか」


「だろうな」


 さらに、道路脇には血の付いた木製の棒が落ちていた。


 先端には鋭く削った石が付いている。


 ホームセンターで回収したものと似た作りだった。


「回収」


「了解」


 防護袋へ入れ、記録する。


 高橋は周囲の住宅を見回した。


 扉が開いた家が三軒。


 窓が割れた家が二軒。


 塀には、小さな手形のような血痕が残っている。


「生存者を確認する」


 班を二つに分け、住宅を一軒ずつ調べる。


 玄関へ近づく際には、扉の横や塀の陰にも銃口を向けた。


 待ち伏せの可能性がある。


「自衛隊です!」


 高橋が声を張る。


「中に誰かいますか!」


 返事はない。


 一軒目。


 室内は荒らされていた。


 食器棚。


 冷蔵庫。


 保存食を入れていたらしい収納棚。


 中身が床へ散乱している。


 高価な家電や現金には手が付けられていない。


「目的は食料か」


「包丁がなくなってます」


 隊員が台所を指す。


 包丁立てが倒れている。


 床には一本残っているが、残りは見当たらない。


「刃物も持っていったのかもしれない」


 石器しか持たなかった相手が、人間の金属製品を手に入れる。


 次に遭遇する時、同じ武器を使っているとは限らない。


 二軒目には、老人の遺体があった。


 廊下に倒れている。


 胸や腹に複数の刺し傷。


 片腕には、噛み千切られたような傷。


 隊員たちの表情が硬くなる。


「死亡確認」


「遺体は後で回収する。まず全室を確認」


 高橋は奥の部屋へ進む。


 押し入れの扉が、わずかに動いた。


 銃口が一斉に向く。


「自衛隊です!」


「中に人がいるなら、返事をしてください!」


「……た、助けて」


 小さな声。


 扉を慎重に開く。


 中には、小学校低学年ほどの男の子がいた。


 口元を両手で押さえ、体を震わせている。


「もう大丈夫だ」


 隊員が銃を下げる。


「ほかに誰かいる?」


 少年は首を横へ振った。


「おじいちゃんが……」


「ああ」


「緑のやつが、ドアを叩いた」


 少年は泣きながら言う。


「おじいちゃんが外を見たら、後ろからいっぱい来た」


「何匹いた?」


「分かんない」


「話した?」


「ギャッギャッて言ってた」


「人間の言葉は?」


「分かんない」


 高橋は少年へ毛布を掛ける。


「もう話さなくていい」


 子供を車両へ移し、医療担当の隊員へ預ける。


 生存者がいた。


 それだけでも、偵察に来た意味はある。


 しかし、少年の証言で、大森たちの話が事実だったことも確認された。


 扉を叩く。


 人間が出てくるのを待つ。


 物陰から集団で襲う。


「高橋三曹」


 外周を確認していた隊員が無線で呼び掛ける。


『住宅裏に小型の遺体を発見しました』


「人間か?」


『違います』


 一瞬の沈黙。


『報告された人型生物と思われます』



 遺体は、住宅と住宅の間にある細い通路へ倒れていた。


 身長は一メートルほど。


 全身は痩せているが、腕だけが妙に長い。


 皮膚はくすんだ緑色。


 耳は横へ尖り、頭部に対して目と口が大きい。


 腰には汚れた布。


 首には動物の骨らしきものをつないだ飾り。


 胸には、鉄パイプで殴られたような陥没があった。


「小野寺という青年が倒した個体かもしれません」


 高橋が言う。


「位置も証言と一致します」


「人間には見えないな」


 村上が遺体へ近づく。


 手袋越しに指先を確認する。


「爪が鋭い。犬ほどじゃないが、引っ掻かれたら深く切れる」


 口元を開く。


 歯は黄ばんでいる。


 犬歯が発達しているが、奥には人間のような臼歯もあった。


「肉も食うし、穀物も食える歯だ」


「雑食ですか」


「たぶんな」


 腰に付けていた小さな袋も確認する。


 中から出てきたのは。


 乾燥した穀物。


 鳥の羽。


 人間用の鍵。


 錆びた硬貨。


 ガラス片。


「何のために持っているんでしょう」


「価値を理解してるのか、光る物を集めてるだけなのか」


 村上は鍵をつまみ上げた。


「どっちにしても、物を持ち帰る習性はある」


 遺体の横には、短い弓が落ちていた。


 曲げた木材へ、動物の腱らしきものを張っている。


 矢には石の鏃。


 粗末だが、数メートルの距離から人間を傷つけるには十分だった。


「写真記録」


「了解」


 隊員が遺体の全身、顔、手足、武器、所持品を撮影していく。


 通信が正常なら、すぐ研究機関へ画像を送れた。


 今は記録媒体を直接運ぶしかない。


「回収しますか?」


「回収する」


 高橋は答える。


「本部も生体か遺体の確保を求めている」


「生体捕獲よりは安全ですね」


「今のところはな」


 村上は周囲を見回した。


「問題は、こいつを倒した後で、仲間が遺体を回収していないことだ」


「逃げるのを優先したのでは?」


「かもしれん」


 村上は遺体の足元を指す。


 周囲には複数の足跡がある。


 仲間は一度、倒れた個体へ近づいている。


 それでも、遺体を置いていった。


「死んだ仲間には興味がないのか」


「それとも」


 高橋は血の跡を追う。


 足跡は住宅地のさらに南へ続いている。


「仲間より優先して、何かを運んでいたのか」


 通路の地面には、荷物を引きずった跡がある。


 人間の遺体か。


 食料か。


 家畜か。


 確認するには追跡しなければならない。


 しかし、日没が近い。


「これ以上は追わない」


 高橋は決断した。


「遺体と武器を回収。生存者を連れて帰投する」


「追えば巣を見つけられるかもしれません」


 若い隊員が言う。


「見つけた後、六人でどうする」


 村上が尋ね返す。


「相手の数も地形も分からない。日が暮れれば、向こうの方が有利だ」


 隊員は口を閉じた。


「今必要なのは、勇敢さではない」


 高橋も続ける。


「確実に情報を持ち帰ることだ」


 それは、ホームセンターで悠真へ言った言葉と同じだった。


 危険を見つけたからといって、すぐ追い掛けてはいけない。


 だが、現場に立つと、その誘惑は強かった。


 今追えば。


 今見つければ。


 次の被害を防げるかもしれない。


 そう思って進んだ先に、何が待っているか分からない。


「帰投する」


 人型生物の遺体は防護シートへ包まれ、トラックの荷台へ固定された。


 少年も車両へ乗せる。


 老人の遺体は、位置と状態を記録した上で、後続の回収班へ引き継ぐことになった。


 すべてを一度に運ぶ余裕はない。


 それが今の現実だった。



 車両が小学校へ戻る頃には、空は完全に暗くなっていた。


 校門を通過した瞬間、医療班と研究担当者たちがトラックへ集まる。


「遺体を回収した」


 高橋が報告する。


「暫定呼称、ゴブリン。武器および所持品あり」


 白衣の男が遺体を包んだシートへ視線を向ける。


 広瀬幸弥だった。


 住民の検査と魔素反応の調査のため、今日も小学校へ来ていたらしい。


「ついに、この地域でも出ましたか」


 その口調は落ち着いている。


 だが、目だけは遺体へ鋭く向けられていた。


「知っていたんですか」


 高橋が尋ねる。


「存在の可能性は」


「正式な情報が現場へ下りていません」


「確証がありませんでしたからね」


 広瀬は悪びれずに答えた。


「未確認情報を大量に流せば、現場が余計に混乱します」


「知らない相手と接触する現場も混乱します」


「それは、その通りです」


 広瀬はあっさり認めた。


「今後は情報共有の範囲を広げるよう、私からも提言します」


 高橋は目の前の研究者を見つめる。


「ゴブリンという呼び方も、すでに知っていたようですね」


「ええ」


「なぜです」


 広瀬は一瞬、言葉を選んだ。


「別の個体から得た情報です」


「別のゴブリンを捕獲しているんですか」


「いいえ」


「では、何から?」


「現時点では機密です」


 予想していた答えだった。


 国は現場へ伝えていない情報を持っている。


 魔獣の分類。


 魔素。


 能力者。


 そして、人型生物。


「機密で隊員は守れません」


 高橋の声が低くなる。


「住民もです」


「分かっています」


 広瀬は、いつもの軽い調子を消した。


「だからこそ、この遺体が重要なんです」


 防護服を着た研究員たちが、ゴブリンの遺体を担架へ移す。


「これまでは証言と断片的な映像が中心でした」


「完全に近い遺体があれば、身体構造、病原体、魔素反応、知能の発達度を調べられる」


「人間と交渉できる相手なのかも分かるんですか」


「遺体だけでは分かりません」


「脳の構造から、ある程度の推測はできますが」


 広瀬はゴブリンの顔を見つめる。


「少なくとも、ただの獣ではありません」


「見れば分かります」


「いいえ」


 広瀬は首を横へ振る。


「見た目が人型であることと、知性があることは別です」


「蜂や蟻も集団で役割を分担します。鳥も道具を使う。捕食動物も待ち伏せをする」


「彼らが文化を持つのか」


「言語を持つのか」


「未来を考えるのか」


「それはまだ分かりません」


「だが、武器を作り、民家を襲っている」


「ええ」


「だから現時点では、武装した危険生物として扱うしかない」


 高橋は、その言葉へ僅かな違和感を覚えた。


「生物、ですか」


「人間とは断定できませんから」


「人間でなければ、殺しても問題ないと?」


「逆です」


 広瀬は高橋を見る。


「人間と同じだと決めつけるのも危険だと言っています」


「倫理を優先して捕獲を狙い、隊員が死ぬ」


「怪物と決めつけて撃ち続け、後から交渉可能な種族だったと分かる」


「どちらも避けなければならない」


 簡単に答えを出さないことが、広瀬の役割なのだろう。


 だが、答えが出るまで待ってくれないのが現場だった。


「現場では、判断する時間は数秒です」


「承知しています」


「だったら、最低限の情報をください」


「ゴブリンは一匹で行動しますか」


 広瀬は少し黙った。


「基本的には集団です」


「どれくらいの規模で?」


「小さな群れなら数匹から十数匹」


「大きくなれば?」


「現時点では答えられません」


「答えられないのか、答えたくないのか」


「両方です」


 高橋の表情が険しくなる。


 広瀬は小さく息を吐いた。


「不確かな情報ですが」


 声を落とす。


「彼らは繁殖が非常に早い可能性があります」


「繁殖?」


「一つの群れを放置した場合、短期間で数が増える」


「どの程度です」


「数か月で、集落一つを脅かす規模に達する可能性がある」


 高橋は言葉を失った。


 犬型の魔獣は危険だ。


 巨大な熊は、一個部隊でも命懸けになる。


 だが、増える速度が違う。


 一匹を倒して終わりではない。


 巣を作り。


 食料を奪い。


 数を増やす。


「その情報源は信頼できるんですか」


「完全には信用していません」


「ただし、これまで提供された情報の多くは事実と一致しています」


 別の個体。


 人間以外の、情報提供者。


 高橋はそこまで推測したが、問いただしても答えは返らないだろう。


「南町の足跡は、少なくとも八個体分ありました」


「それは一つの小集団でしょう」


「近くに巣がある可能性は?」


「高いと思います」


「なら、早く部隊を出すべきです」


「はい」


 広瀬も否定しなかった。


「ですが、夜間に急いで捜索するべきではない」


「巣の位置、規模、周辺住民の状況を把握してからです」


 また同じ答え。


 慎重に。


 情報を集める。


 焦らない。


 正しい。


 正しいが、その間にも被害者は増えるかもしれない。


「明朝」


 背後から別の声がした。


 振り返ると、地域部隊の指揮を執る二等陸尉が立っていた。


「日の出と同時に、南町周辺の捜索を行う」


「高橋三曹」


「はい」


「本日の経路と発見地点を整理しろ」


「村上陸曹と偵察班を一つ編成する」


「了解」


「ただし、巣を発見しても独断で突入するな」


「規模を確認し、応援を待つ」


「住民が襲われていた場合は?」


 指揮官は一瞬だけ黙る。


「救助を優先する」


「必要なら射撃を許可する」


「了解しました」


 高橋は敬礼する。


 ようやく具体的な命令が出た。


 不安が消えたわけではない。


 むしろ、明日には実際にゴブリンの群れと接触する可能性がある。


「高橋さん」


 広瀬が呼び止める。


「何ですか」


「一つだけ、現場へ伝えておきたいことがあります」


「ゴブリンを一匹見つけても、すぐ殺さない方がいいという話ですか」


「違います」


 広瀬は校庭の外、暗い住宅地へ目を向けた。


「一匹だけ見えた時こそ、警戒してください」


「彼らは弱い」


「一対一なら、訓練された成人が勝てる可能性も高い」


「だからこそ、一匹を囮にすることがあります」


 扉を叩く。


 姿を見せる。


 人間に追わせる。


 その先で、仲間が待つ。


「彼らを、弱いからと侮らないでください」


「分かっています」


「本当に?」


「今日、見てきました」


 高橋は、救助した少年の顔を思い出した。


 押し入れの中で震えていた。


 祖父が殺される音を聞きながら、息を殺していた子供。


「弱い相手に家族を殺された人間へ、弱い生物だとは言えません」


 広瀬は何も答えなかった。



 夜。


 校庭の一角に、ゴブリンの遺体を載せた車両が停められていた。


 研究施設へ運ぶのは、翌朝になる。


 防護シート。


 密閉袋。


 警備員。


 厳重に管理されている。


 それでも高橋は、遺体が近くにあるだけで落ち着かなかった。


 職員室を使った仮設指揮所。


 机の上には地図が広げられている。


 南町。


 遺体発見地点。


 住民が襲われた住宅。


 足跡が消えた場所。


 そしてホームセンター。


「かなり近いな」


 村上が地図を見ながら言う。


「ええ」


「ホームセンターは人も物も増えている」


「狙われるかもしれん」


「巡回を増やせればいいんですが」


「部隊が足りん」


 村上は椅子へ深く座る。


「魔犬」


「猪」


「巨大鳥」


「人型」


「熊を倒して、少しは落ち着くと思ったんだがな」


「むしろ始まったばかりかもしれません」


 高橋は地図の南側へ視線を落とす。


 巨大な熊は、一体で甚大な被害を出した。


 だが、位置を把握できれば、重火器を集中して倒せた。


 ゴブリンは違う。


 小さい。


 隠れる。


 増える。


 住民の家へ紛れ込む。


 巣が一つとは限らない。


「藤堂たちには伝えるか」


 村上が尋ねる。


「明日の巡回時に」


「今夜、あの音を聞いたと言っていたな」


 高橋はホームセンターからの報告を思い出す。


 遠くで、扉を叩くような音。


 それが本当にゴブリンだったのかは分からない。


 風で何かが揺れただけかもしれない。


 しかし。


「念のため、夜間巡回班へ家の周辺を確認させます」


「また藤堂の若いのが、勝手に見に行く前にな」


「そこは強く言いました」


「聞く顔じゃなかったぞ」


「美咲さんが止めるでしょう」


 高橋がそう言うと、村上が僅かに笑った。


「そういう相手がいるなら、少しは無茶も減るか」


「だといいんですが」


 高橋は窓の外を見る。


 校庭の仮設照明。


 給水用タンク。


 並べられた車両。


 疲れ切って眠る隊員たち。


 医療テントの中では、小野寺の治療が続いている。


 研究区画には、ゴブリンの遺体。


 その向こう。


 照明の届かない住宅地には、まだ何匹いるのか分からない敵が潜んでいる。


 無線機が鳴った。


『こちら夜間巡回一班』


「指揮所、どうぞ」


『南側住宅地を巡回中。藤堂宅付近に異常なし』


 高橋は僅かに息を吐く。


『ただし、南西約三百メートルの空き家で、玄関扉に新しい傷を確認』


「傷?」


『はい。小型の刃物か、爪で削ったような跡です』


「周囲に足跡は?」


『確認中です』


 高橋と村上の視線が合う。


『……足跡を確認』


 無線の向こうで、隊員の声が硬くなる。


『小型人型生物のものと推定』


「数は」


『複数です』


「追跡するな」


 高橋はすぐに命じる。


「周辺住民へ警告。藤堂宅とホームセンターへも連絡しろ」


『了解』


「接触した場合は、住民の安全を優先。無理に捕獲するな」


『了解しました』


 通信が切れる。


 指揮所に短い沈黙が落ちた。


「来てるな」


 村上が立ち上がる。


「ああ」


「南町だけじゃない」


 高橋は地図へ新たな印を付けた。


 藤堂家から、わずか数百メートル。


 巣から離れた個体なのか。


 偵察なのか。


 別の群れなのか。


 分からない。


 ただ一つ、確かなことがある。


 人間に似た緑色の生物は。


 もう遠くの目撃情報ではない。


 自衛隊が守ろうとしている地域の中へ入り込み。


 住民たちの家の扉へ。


 その手を伸ばし始めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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