第54話 初めての防衛戦
地域共同拠点として動き始めたホームセンターには、朝からさまざまな音が響いていた。
金槌で木材を打ち付ける音。
商品棚を動かす音。
床を掃く箒の音。
そして、慣れない作業に戸惑う人々の声。
「そっちは持ち上げなくていい。手前へ引いてくれ」
「分かりました」
「彩乃ちゃん、指を挟まないようにね」
「大丈夫です。これくらいなら一人でも――」
「一人でやるなって言ってるだろ」
英樹に注意され、彩乃は不満そうに頬を膨らませた。
いくら空手を続けているとはいえ、重量のある金属棚は一人で扱うものではない。倒れれば怪我では済まない可能性もある。
英樹と田島が棚の両端を持ち、彩乃は後ろから押して移動させる。
運んだ棚は、裏手の搬入口を塞ぐために使われた。
歪んだシャッターの内側に木材を渡し、その前へ棚を固定する。完全に出入りできなくするのではなく、人間が一人通れる点検口だけを残していた。
「これなら、魔犬が体当たりしても簡単には抜けないだろう」
英樹は固定した金具を揺らし、強度を確かめる。
「絶対とは言えないが、昨日までよりはましだ」
「ここまでやっても、あの熊みたいな化け物が来たら意味ないですよね」
田島が苦笑する。
「あれを基準に考えたら、地下要塞でも作るしかない」
「地下要塞ですか」
「掘る道具なら店にあるぞ」
背後から佐伯の声が聞こえた。
「やめてくださいよ、店長。英樹さんなら本気で設計を始めそうです」
「さすがに地下まではやらん」
英樹はそう答えたものの、視線は店内の資材置き場へ向いていた。
将来的に避難壕程度なら作れるかもしれない。
そんなことを考えている顔だった。
「お父さん、本当にやらないよね?」
美咲が心配そうに聞く。
「今はな」
「今はって言った」
美咲が呆れたように息を吐く。
英樹は聞こえなかったふりをして、次の木材へ手を伸ばした。
◇
店内の休憩室では、恵と田島の妻である明美が、避難者たちの生活用品を整理していた。
ホームセンターの事務所や休憩室は、数日間暮らす程度なら利用できる。
だが、長期間となれば話は別だ。
着替える場所。
眠る場所。
食事をする場所。
体調を崩した者を休ませる場所。
すべてを同じ部屋で済ませれば、感染症や揉め事の原因になる。
「この棚を境にして、向こう側を女性の着替え場所にしましょう」
恵が布製の間仕切りを広げる。
「試着室のカーテンも使えそうですね」
「何枚か残ってたはずです」
明美が答えた。
「娘もいるので、助かります」
田島の娘は中学生だ。
今までは家族だけで休憩室の隅を使っていたが、人が増えれば最低限の配慮は必要になる。
恵は売り場から集めてきたカーテンや突っ張り棒を並べ、使えそうな組み合わせを考えていた。
「お母さん、これはどこに置くの?」
翔太が両手でタオルを抱えてやってくる。
「その箱に入れてちょうだい。きれいなものと、使ったものを混ぜないようにね」
「はーい」
翔太は箱に書かれた文字を確認しながら、ゆっくりタオルを入れた。
その横では、美咲が大学ノートへ生活用品の数を書き込んでいる。
タオル。
毛布。
石鹸。
紙皿。
使い捨て手袋。
掃除用品。
数だけでなく、どこへ置いたのかも記録していた。
「石鹸は思ったより残ってるね」
美咲が言う。
「でも、使い過ぎないようにした方がいいですよね」
「水が限られてるからね」
恵が答える。
「手洗いは必要だけど、今までみたいに何度も流すわけにはいかないわ」
自衛隊の給水車が来るようになったとはいえ、好きなだけ水が使えるわけではない。
まず優先されるのは飲料と調理。
その次が手洗いや傷の洗浄。
洗濯や風呂へ回せる量は少なかった。
「雨が降ったら、店の屋根から集められないかな」
美咲が天井を見上げる。
「雨どいはあるから、タンクへつなげられればできると思う」
恵も頷く。
「飲むのは怖いけど、掃除やトイレには使えるわね」
「悠真に相談してみます」
美咲はノートの端へ『雨水』と書き加えた。
拠点を作るというのは、壁を強くするだけではない。
そこにいる人間が、毎日を送れるようにすることだった。
◇
悠真は園芸売り場で、残された種を一袋ずつ確認していた。
大根。
小松菜。
カブ。
ニンジン。
白菜。
葉ネギ。
季節を考えれば、すべてが適しているわけではない。
収穫までの期間も違う。
畑を作ったとしても、今日植えて明日食べられるわけではなかった。
「まずは成長が早い葉物からかな」
悠真は袋の裏に書かれた栽培日数を確認する。
小松菜なら条件が良ければ一か月ほどで収穫できる。
大根も葉は利用できる。
豆苗やスプラウト用の種が残っていれば、さらに短期間で食べられるかもしれない。
悠真は周囲に誰もいないことを確認し、小松菜の種へ《鑑定》を使った。
――小松菜種子。
――保存状態、良好。
――推定発芽率、八十一パーセント。
――適正播種時期内。
――魔素の微量付着あり。
「魔素……?」
悠真は眉を寄せた。
袋は未開封だ。
魔獣と接触した形跡もない。
もう一袋を確認する。
――大根種子。
――保存状態、良好。
――推定発芽率、八十四パーセント。
――魔素の微量付着あり。
こちらにも同じ表示が出た。
種にだけ付着しているわけではない。
土。
肥料。
木製の棚。
売り場に置かれた物の多くから、ごく微量の魔素が検出される。
世界へ流れ込んだ魔素が、空気や物質へ少しずつ染み込んでいるのかもしれない。
今のところ、危険を示す表示はない。
だが、これが植物の成長へどう影響するかは分からなかった。
「成長が早くなるとかなら助かるけど……」
逆に、普通の野菜が毒を持ったり、異常な姿へ変化する可能性もある。
魔素によって犬や熊が変異したことを考えれば、植物だけが無関係とは思えない。
「悠真」
背後から声を掛けられ、悠真は慌てて表示を消した。
振り返ると、誠がノートを片手に立っている。
「使えそうな種はあったか?」
「うん。葉物を中心に、いくつか試せそう」
「全部一度に使わない方がいいな」
「俺もそう思う」
発芽しなかった場合に備え、種は分けて保存する。
土や水の条件も変え、どの育て方が適しているかを確かめる必要がある。
「最初は小さな試験区画を作りたい」
悠真は売り場の案内図を広げる。
「外売り場の端なら日当たりもある。プランターを使えば、何か異常が起きても畑全体へ広がりにくい」
「異常?」
「土の状態も分からないし、最近は変な生き物も増えてるから」
嘘ではない。
魔素という言葉を出さないだけだった。
「慎重すぎるくらいでいい」
誠は頷く。
「食べる物だからな。育ったからといって、すぐ口に入れるのも危険かもしれない」
「うん」
収穫できたとしても、《鑑定》で安全性を確認する必要がある。
その時にどう説明するかは、まだ考えていなかった。
「ところで」
誠が声を落とす。
「能力のこと、美咲ちゃんには話したのか?」
「……まだ」
悠真は小さく答えた。
美咲とは恋人になった。
互いに好きだと伝え、一緒に生きようと約束した。
それでも、《鑑定》については詳しくは話していない。
「隠し続けるのか?」
「分からない」
悠真は種の袋を見つめる。
「美咲なら、誰かに言ったりしないと思う。でも、知ってるだけで危険になるかもしれない」
もし自衛隊や政府に追及された時。
知らなければ、美咲は本当に何も答えられない。
だが、秘密を抱えたまま恋人として接することにも、後ろめたさがある。
「話すかどうかは、お前が決めることだ」
誠は無理に答えを求めなかった。
「ただし、守ることと信じないことは違う。その線だけは間違えるな」
「分かってる」
本当に分かっているのか。
悠真自身にも自信はなかった。
◇
「動くかもしれないぞ!」
店の奥から田島の大きな声が聞こえた。
悠真と誠が向かうと、従業員用の搬入口近くに小型発電機が置かれていた。
工事現場などで使う、ガソリン式の発電機だ。
表面には埃が積もり、側面のカバーが外されている。
田島は工具を並べ、燃料の管を確認していた。
佐伯と英樹も横から覗き込んでいる。
「故障してたんじゃないんですか?」
悠真が尋ねる。
「燃料を長期間入れたまま放置してたせいで、内部が詰まってた」
田島が手を汚したまま答える。
「完全に直ったかは分からないけど、掃除はした。プラグも店の在庫に交換品があった」
「燃料は?」
「少しだけ残ってる」
佐伯が携行缶を持ち上げる。
「店の非常用だ。だが、これ以上は手に入らないかもしれん」
「動いても、使う時間は決めた方がいいですね」
誠が言う。
「照明のために一日中回すわけにはいきません」
「分かってる」
田島は発電機のスイッチを確認する。
「じゃあ、試すぞ」
全員が少し離れた。
田島が始動用のロープを引く。
ガッ、ガッ。
鈍い音がしただけで、エンジンは掛からない。
「もう一度」
再びロープを引く。
ガガッ、ガッ。
発電機が一瞬だけ震え、すぐに止まった。
「駄目か?」
「いや、火は入ってる」
田島はスイッチを調整し、三度目のロープを引く。
ガッ――ブロロロロロッ!
突然、大きなエンジン音が響いた。
発電機全体が細かく震え、排気口から白い煙が上がる。
「動いた!」
彩乃が声を上げる。
店内にいた人々も、音を聞いて集まってくる。
佐伯が延長コードをつなぎ、事務所に置いた小型の照明へ接続した。
数秒後。
白い光が点灯する。
「ついた……」
田島の娘が呟いた。
ただの作業用照明だった。
店内全体を明るくするほどの力はない。
それでも、停電して以来、電気の光を見る機会はほとんどなかった。
小さな照明を囲む人々の顔に、自然と笑みが浮かぶ。
「お父さん、すごい」
娘の言葉に、田島は汚れた手で鼻の下を擦った。
「仕事で似たようなものを触ってただけだ」
「いや、助かった」
佐伯が田島の肩を叩く。
「発電機があれば、工具も一部使える。充電もできる」
「燃料を考えたら、必要な時だけですね」
「ああ。一日一時間か、二時間。作業内容によって決めよう」
発電機の音は大きい。
電気を使えるのはありがたいが、遠くにまで人間の存在を知らせることにもなる。
悠真はそのことを口にしようとした。
その時だった。
カラン。
外から、小さな金属音が聞こえた。
発電機の音に紛れ、最初は誰も気づかなかった。
カラカラッ。
今度は明確だった。
裏手のフェンスへ設置した、空き缶の警報。
「発電機を止めろ!」
英樹が叫ぶ。
田島が慌ててスイッチを切る。
エンジン音が消えた瞬間、店内へ静寂が戻った。
そして。
ガシャンッ!
何かがフェンスへ激しくぶつかる音が響いた。
「全員、店の中へ!」
佐伯が叫ぶ。
「入口とシャッターを閉めろ!」
避難者たちが一斉に動き出す。
恵は翔太の手をつかみ、田島の妻と娘を連れて休憩室へ向かう。
「お母さん、何が来たの?」
「いいから、こっちへ!」
美咲も老夫婦を支えながら店の奥へ誘導した。
悠真は壁へ立て掛けていた金属バットを手に取る。
誠は長い柄の付いたハンマー。
英樹はバール。
彩乃は先端を補強した金属棒を構えた。
「外へ出るな」
英樹が低い声で言う。
「中から様子を見る」
裏手の搬入口近くには、小さな確認窓がある。
佐伯が壁に身を寄せながら、窓の外を覗いた。
「……犬だ」
「何匹ですか?」
「二匹見える。いや、三匹だ」
悠真の脳裏に、朝確認した痕跡が浮かぶ。
三匹。
戻ってきた。
発電機の音に引き寄せられたのかもしれない。
「普通の犬じゃないですよね」
彩乃が尋ねる。
「ああ。でかい」
佐伯の声が硬くなる。
「体高は一メートル近い。毛が黒く変色してる」
魔犬。
悠真が以前戦った個体と同じ種類だ。
だが、三匹同時となれば危険度は大きく違う。
単独で襲う動物と、群れで連携する動物では、戦い方そのものが変わる。
「フェンスは?」
英樹が尋ねる。
「今のところ持ってる」
ガンッ!
再び衝突音。
金網が大きく揺れ、空き缶がけたたましく鳴る。
「でも、長くは無理だ」
佐伯が答えた。
「昨日曲げられた場所を狙ってる」
魔犬は偶然ぶつかっているのではない。
前回壊しかけた場所を覚えている。
「頭がいい……」
誠が呟く。
悠真は確認窓へ近づいた。
「俺も見ます」
「気をつけろ」
窓から外を覗く。
三匹の魔犬が、裏手のフェンス周辺を走り回っていた。
一匹は正面から金網へ体当たりし、別の一匹は地面を掘っている。
残る一匹は少し離れ、店の周囲を探るように歩いていた。
役割を分担している。
悠真は一匹ずつ《鑑定》する。
――魔犬。
――危険度、D。
――興奮状態。
――空腹。
――群れの序列、下位。
フェンスへ体当たりしている個体。
――魔犬。
――危険度、D。
――前脚に古い損傷あり。
――群れの序列、中位。
地面を掘っている個体。
そして、離れて周囲を見ている個体。
――魔犬。
――危険度、D+。
――群れの指揮個体。
――警戒状態。
――人間の生活圏を餌場として認識。
「奥にいる一匹が、たぶん群れの中心です」
悠真は窓から離れながら言った。
「どうして分かる?」
佐伯が尋ねる。
「他の二匹が動いてる間、あいつだけ周囲を見てる。直接フェンスに近づいてない」
観察した内容を理由にする。
「指示を出してるように見えます」
「犬が指示を?」
「普通の犬じゃありません」
悠真の言葉に、誰も反論しなかった。
今までの魔獣が、既存の動物と同じ常識で動かないことは全員が知っている。
「どうする?」
彩乃が金属棒を握り直す。
「このままフェンスが壊れるのを待つの?」
「自衛隊へ知らせる」
誠が答える。
「だが、来るまで持つか分からない」
小学校までは遠くない。
それでも、連絡手段がない。
誰かが直接走って知らせなければならなかった。
正面入口から出れば、裏手の魔犬に気づかれない可能性はある。
しかし、一匹が店の周囲を巡回している。
途中で見つかれば、追われることになる。
「俺が行く」
田島が言った。
「駄目です」
誠が止める。
「田島さんがいなくなれば、発電機や車を直せる人がいなくなる」
「じゃあ、誰が行くんです」
「誰も行かない」
英樹が壁に置かれた資材を見る。
「ここで追い返す」
「三匹ですよ」
「外へ出て殴り合うつもりはない」
英樹は売り場から運んでいた長い単管パイプを持ち上げた。
「柵の内側から攻撃する」
フェンスには、まだ魔犬の体が通れない。
金網越しなら、一方的に攻撃できる可能性がある。
だが、近づき過ぎれば爪や牙が届く。
金網が破れれば、そのまま接近戦になる。
「危険だよ」
美咲が休憩室から戻り、悠真を見た。
「分かってる」
「だったら……」
「でも、ここを捨てるわけにはいかない」
避難者たちがいる。
動けない老人もいる。
正面から全員で逃げれば、魔犬に見つかる可能性が高い。
「大丈夫」
悠真は美咲へ言った。
自分でも、何を根拠に大丈夫と言っているのか分からなかった。
それでも、美咲の不安そうな顔を見たまま黙っていることはできない。
「無茶はしない」
美咲は何か言おうとして、唇を結んだ。
「絶対に戻ってきて」
「うん」
「約束だからね」
「ああ」
短く約束を交わす。
悠真、誠、英樹、佐伯、田島、彩乃の六人は、裏口近くへ集まった。
武器は単管パイプ、バール、ハンマー、金属棒。
田島は園芸売り場にあった長い熊手を持っている。
「扉は開けない」
英樹が全員へ確認する。
「点検口から一人ずつ出て、建物とフェンスの間に入る。絶対にフェンスから離れない」
「破られたら?」
彩乃が尋ねる。
「すぐ中へ戻る」
「間に合わなかったら?」
「その時は」
英樹の言葉が止まる。
「俺が前に出る」
「お父さん」
「彩乃ちゃんたちは先に戻れ」
「嫌です」
彩乃は即答した。
「私も戦えます」
「空手と魔獣相手は違う」
「それでも、おじさん一人を置いて逃げるよりはましです」
英樹は何か言い返そうとしたが、彩乃の目を見て諦めたように息を吐く。
「勝手に前へ出るなよ」
「分かりました」
点検口を開ける。
外の空気と共に、獣の臭いが流れ込んできた。
一人ずつ外へ出る。
建物の裏側と外周フェンスの間には、幅五メートルほどの通路がある。
三匹の魔犬はすぐに人間の存在へ気づいた。
唸り声が響く。
黒く変色した毛。
異様に発達した顎。
口元から垂れる粘ついた唾液。
「来るぞ!」
一匹がフェンスへ突進した。
ガシャンッ!
金網が大きくたわむ。
佐伯と田島が単管パイプを突き出す。
先端が魔犬の肩と首へ当たった。
「ギャウッ!」
魔犬が悲鳴を上げて下がる。
「効いてる!」
「油断するな!」
地面を掘っていた個体が、別の場所へ回り込む。
悠真は《鑑定》で動きを確認する。
前脚に古い損傷がある。
右へ体重を掛ける動きが遅い。
「次は右側から来ます!」
悠真が叫ぶ。
直後、魔犬が右側の金網へ飛び掛かった。
英樹が待ち構えていたバールを突き出す。
先端が魔犬の口元へ入り、牙と金属がぶつかる音がした。
「今だ!」
彩乃が金属棒を両手で握り、金網の隙間から魔犬の前脚を打つ。
「ギャインッ!」
古傷のある脚を叩かれた魔犬が、地面へ倒れた。
そこへ田島が熊手を突き出す。
鋭い爪が肩へ食い込み、魔犬を金網へ押さえ付けた。
「押さえた!」
「頭を!」
英樹がバールを振り下ろす。
一度。
二度。
三度目で、魔犬の体から力が抜けた。
「一匹!」
だが、喜ぶ余裕はなかった。
最初の魔犬が、別の場所へ繰り返し体当たりしている。
金網を固定していた針金が一本切れた。
「まずい!」
佐伯が単管パイプを突き出す。
魔犬はそれを牙で受け止め、勢いよく横へ振った。
佐伯の手からパイプが離れ、地面を転がる。
次の体当たりで、フェンスの下部が大きくめくれた。
魔犬の頭が内側へ入る。
「下がれ!」
英樹が叫ぶ。
しかし、魔犬は前脚をねじ込み、強引に隙間を広げようとしていた。
悠真は金属バットを握り締める。
表示を見る。
――魔犬。
――興奮。
――侵入行動。
――注意、左目の視界不良。
左側からなら反応が遅い。
悠真はフェンスへ近づいた。
「悠真!」
誠の声が飛ぶ。
「大丈夫!」
魔犬の頭が金網を越える。
大きく開かれた口が、悠真の足へ向かう。
悠真は左へ回り込み、金属バットを振り下ろした。
ゴンッ!
鈍い音。
バットが魔犬の左側頭部へ直撃する。
魔犬の顎が地面へぶつかった。
だが、一撃では止まらない。
頭を振り、再び牙を剥く。
「もう一度!」
今度は彩乃が横から金属棒を突き出した。
先端が魔犬の左目へ入る。
「ガァァッ!」
魔犬が暴れ、フェンス全体が揺れた。
「悠真!」
彩乃の声に合わせ、悠真はバットを両手で握る。
狙うのは頭頂部。
全身の力を込めて振り下ろす。
ゴキッ。
骨の砕ける感触が、両手へ伝わった。
魔犬の体が一度大きく痙攣し、そのまま動かなくなる。
荒い息を吐きながら、悠真はバットを下ろした。
「二匹目……」
「まだ一匹いる!」
誠が叫ぶ。
群れの指揮個体。
少し離れた場所から状況を見ていた魔犬が、低く唸っている。
二匹の仲間を失った。
それでも襲ってくるのか。
悠真は《鑑定》を使う。
――警戒。
――恐怖。
――撤退を検討。
――人間集団を危険対象として再認識。
「来ないで……」
彩乃が金属棒を構えたまま呟く。
魔犬は数秒間、悠真たちを睨み続けた。
やがて後ろへ一歩下がる。
さらに一歩。
そして突然、体を翻して走り出した。
「逃げた!」
「追うな!」
英樹が全員を止める。
魔犬は駐車場の外周を回り、住宅地の方角へ姿を消した。
誰もすぐには武器を下ろせなかった。
再び戻ってくるのではないか。
別の場所から飛び掛かってくるのではないか。
しばらく周囲を警戒し、姿が完全に見えなくなったことを確かめる。
「中へ戻ろう」
英樹の言葉で、ようやく全員が動き始めた。
◇
店内へ戻ると、美咲が真っ先に悠真の元へ駆け寄った。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
美咲は悠真の腕や顔を確認する。
血が付いているが、すべて魔犬のものだった。
「大丈夫」
「約束したばっかりなのに……」
美咲の声が震える。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
美咲はそれ以上言えず、悠真の服を強くつかんだ。
悠真も、血の付いていない方の腕で美咲の背中へ触れる。
生きて戻った。
その事実を確かめるように。
「悠真兄ちゃん!」
翔太が恵の手を振りほどき、こちらへ走ってくる。
「犬、やっつけたの?」
「二匹だけな。一匹は逃げた」
「すごい!」
「すごくはないよ」
悠真は真剣な顔で翔太を見る。
「危ないから、翔太は絶対に近づいちゃ駄目だ」
「うん……」
強い口調に、翔太は素直に頷いた。
店内にいた避難者たちは、血の付いた武器を持つ悠真たちを見つめている。
恐怖。
安堵。
驚き。
それぞれの感情が入り混じっていた。
「この店にいれば安全だと思ってた」
老婦人が小さく呟いた。
「でも、ここにも来るのね」
「絶対に安全な場所はないと思います」
誠が答える。
「だから、皆で守れる場所に変えるんです」
先ほどまでなら、ただの理想に聞こえたかもしれない。
だが、今は違う。
補強したフェンスが侵入を遅らせた。
空き缶の警報が魔犬の接近を知らせた。
用意した武器と、役割を決めた人間たちが二匹を倒した。
どれか一つでも欠けていれば、店内へ侵入されていた可能性がある。
「フェンスの補強は、もっと必要だ」
英樹が血の付いたバールを床へ置く。
「今回破られた場所だけじゃない。全周を確認する」
「警報も増やそう」
佐伯が続ける。
「発電機を使う時は、見張りを立てる。音を出せば魔獣が寄ってくると考えた方がいい」
「武器も、店のあちこちに置いた方がいいですね」
田島が言う。
「取りに戻る時間がない場合もある」
「子供が触れない場所へ保管しましょう」
恵もすぐに意見を出した。
戦いが終わった直後だというのに、全員が次の対策を考えている。
怖くないわけではない。
逃げたいと思う者もいるだろう。
それでも、ここを守らなければ行く場所がない。
「一匹逃げたのが気になる」
彩乃が言った。
「また仲間を連れてくるかな」
「可能性はある」
悠真は答えた。
指揮個体は、人間を危険対象として認識した。
すぐに戻ってくるとは限らない。
だが、二度と来ないとも言えない。
「今日のうちに、自衛隊へ報告しよう」
誠が言う。
「死体も勝手に処理しない方がいい。検査に使うかもしれない」
「正面入口に見張りを立てて、巡回の隊員が来たら呼び止める」
佐伯が決める。
壁に貼られた模造紙。
『今日やること』
その下へ、新しい項目が書き加えられた。
『外周の再補強』
『発電機使用時の警戒』
『武器の配置』
『自衛隊への報告』
そして佐伯は、一番上に新しい一文を書く。
『ここは、まだ安全ではない』
その文字を見て、誰も口を挟まなかった。
地域共同拠点と名付けたからといって、安全になるわけではない。
看板を掲げただけで、人々を守れるわけでもない。
安全は、自分たちの手で作らなければならない。
失敗を繰り返し。
危険を知り。
一つずつ備えを増やしながら。
悠真は血の付いた金属バットを握ったまま、店内を見回した。
怯えている者。
怪我の確認をする者。
壊れたフェンスを直すため、資材を探し始める者。
泣きそうな顔で、それでも母親の手伝いをする子供。
ここにいる人々は、まだ仲間になったばかりだ。
互いのことも、ほとんど知らない。
それでも今日。
同じ場所を守るために、初めて一緒に戦った。
閉店したホームセンターが地域共同拠点になった日。
そこを守る者たちの最初の戦いは、こうして終わった。
そして、悠真たちは思い知った。
拠点を作るということは。
守るべき場所を、新たに一つ増やすことでもあるのだと。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。
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