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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第四章 地域共同拠点編

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第54話 初めての防衛戦


 地域共同拠点として動き始めたホームセンターには、朝からさまざまな音が響いていた。


 金槌で木材を打ち付ける音。


 商品棚を動かす音。


 床を掃く箒の音。


 そして、慣れない作業に戸惑う人々の声。


「そっちは持ち上げなくていい。手前へ引いてくれ」


「分かりました」


「彩乃ちゃん、指を挟まないようにね」


「大丈夫です。これくらいなら一人でも――」


「一人でやるなって言ってるだろ」


 英樹に注意され、彩乃は不満そうに頬を膨らませた。


 いくら空手を続けているとはいえ、重量のある金属棚は一人で扱うものではない。倒れれば怪我では済まない可能性もある。


 英樹と田島が棚の両端を持ち、彩乃は後ろから押して移動させる。


 運んだ棚は、裏手の搬入口を塞ぐために使われた。


 歪んだシャッターの内側に木材を渡し、その前へ棚を固定する。完全に出入りできなくするのではなく、人間が一人通れる点検口だけを残していた。


「これなら、魔犬が体当たりしても簡単には抜けないだろう」


 英樹は固定した金具を揺らし、強度を確かめる。


「絶対とは言えないが、昨日までよりはましだ」


「ここまでやっても、あの熊みたいな化け物が来たら意味ないですよね」


 田島が苦笑する。


「あれを基準に考えたら、地下要塞でも作るしかない」


「地下要塞ですか」


「掘る道具なら店にあるぞ」


 背後から佐伯の声が聞こえた。


「やめてくださいよ、店長。英樹さんなら本気で設計を始めそうです」


「さすがに地下まではやらん」


 英樹はそう答えたものの、視線は店内の資材置き場へ向いていた。


 将来的に避難壕程度なら作れるかもしれない。


 そんなことを考えている顔だった。


「お父さん、本当にやらないよね?」


 美咲が心配そうに聞く。


「今はな」


「今はって言った」


 美咲が呆れたように息を吐く。


 英樹は聞こえなかったふりをして、次の木材へ手を伸ばした。



 店内の休憩室では、恵と田島の妻である明美が、避難者たちの生活用品を整理していた。


 ホームセンターの事務所や休憩室は、数日間暮らす程度なら利用できる。


 だが、長期間となれば話は別だ。


 着替える場所。


 眠る場所。


 食事をする場所。


 体調を崩した者を休ませる場所。


 すべてを同じ部屋で済ませれば、感染症や揉め事の原因になる。


「この棚を境にして、向こう側を女性の着替え場所にしましょう」


 恵が布製の間仕切りを広げる。


「試着室のカーテンも使えそうですね」


「何枚か残ってたはずです」


 明美が答えた。


「娘もいるので、助かります」


 田島の娘は中学生だ。


 今までは家族だけで休憩室の隅を使っていたが、人が増えれば最低限の配慮は必要になる。


 恵は売り場から集めてきたカーテンや突っ張り棒を並べ、使えそうな組み合わせを考えていた。


「お母さん、これはどこに置くの?」


 翔太が両手でタオルを抱えてやってくる。


「その箱に入れてちょうだい。きれいなものと、使ったものを混ぜないようにね」


「はーい」


 翔太は箱に書かれた文字を確認しながら、ゆっくりタオルを入れた。


 その横では、美咲が大学ノートへ生活用品の数を書き込んでいる。


 タオル。


 毛布。


 石鹸。


 紙皿。


 使い捨て手袋。


 掃除用品。


 数だけでなく、どこへ置いたのかも記録していた。


「石鹸は思ったより残ってるね」


 美咲が言う。


「でも、使い過ぎないようにした方がいいですよね」


「水が限られてるからね」


 恵が答える。


「手洗いは必要だけど、今までみたいに何度も流すわけにはいかないわ」


 自衛隊の給水車が来るようになったとはいえ、好きなだけ水が使えるわけではない。


 まず優先されるのは飲料と調理。


 その次が手洗いや傷の洗浄。


 洗濯や風呂へ回せる量は少なかった。


「雨が降ったら、店の屋根から集められないかな」


 美咲が天井を見上げる。


「雨どいはあるから、タンクへつなげられればできると思う」


 恵も頷く。


「飲むのは怖いけど、掃除やトイレには使えるわね」


「悠真に相談してみます」


 美咲はノートの端へ『雨水』と書き加えた。


 拠点を作るというのは、壁を強くするだけではない。


 そこにいる人間が、毎日を送れるようにすることだった。



 悠真は園芸売り場で、残された種を一袋ずつ確認していた。


 大根。


 小松菜。


 カブ。


 ニンジン。


 白菜。


 葉ネギ。


 季節を考えれば、すべてが適しているわけではない。


 収穫までの期間も違う。


 畑を作ったとしても、今日植えて明日食べられるわけではなかった。


「まずは成長が早い葉物からかな」


 悠真は袋の裏に書かれた栽培日数を確認する。


 小松菜なら条件が良ければ一か月ほどで収穫できる。


 大根も葉は利用できる。


 豆苗やスプラウト用の種が残っていれば、さらに短期間で食べられるかもしれない。


 悠真は周囲に誰もいないことを確認し、小松菜の種へ《鑑定》を使った。


――小松菜種子。


――保存状態、良好。


――推定発芽率、八十一パーセント。


――適正播種時期内。


――魔素の微量付着あり。


「魔素……?」


 悠真は眉を寄せた。


 袋は未開封だ。


 魔獣と接触した形跡もない。


 もう一袋を確認する。


――大根種子。


――保存状態、良好。


――推定発芽率、八十四パーセント。


――魔素の微量付着あり。


 こちらにも同じ表示が出た。


 種にだけ付着しているわけではない。


 土。


 肥料。


 木製の棚。


 売り場に置かれた物の多くから、ごく微量の魔素が検出される。


 世界へ流れ込んだ魔素が、空気や物質へ少しずつ染み込んでいるのかもしれない。


 今のところ、危険を示す表示はない。


 だが、これが植物の成長へどう影響するかは分からなかった。


「成長が早くなるとかなら助かるけど……」


 逆に、普通の野菜が毒を持ったり、異常な姿へ変化する可能性もある。


 魔素によって犬や熊が変異したことを考えれば、植物だけが無関係とは思えない。


「悠真」


 背後から声を掛けられ、悠真は慌てて表示を消した。


 振り返ると、誠がノートを片手に立っている。


「使えそうな種はあったか?」


「うん。葉物を中心に、いくつか試せそう」


「全部一度に使わない方がいいな」


「俺もそう思う」


 発芽しなかった場合に備え、種は分けて保存する。


 土や水の条件も変え、どの育て方が適しているかを確かめる必要がある。


「最初は小さな試験区画を作りたい」


 悠真は売り場の案内図を広げる。


「外売り場の端なら日当たりもある。プランターを使えば、何か異常が起きても畑全体へ広がりにくい」


「異常?」


「土の状態も分からないし、最近は変な生き物も増えてるから」


 嘘ではない。


 魔素という言葉を出さないだけだった。


「慎重すぎるくらいでいい」


 誠は頷く。


「食べる物だからな。育ったからといって、すぐ口に入れるのも危険かもしれない」


「うん」


 収穫できたとしても、《鑑定》で安全性を確認する必要がある。


 その時にどう説明するかは、まだ考えていなかった。


「ところで」


 誠が声を落とす。


「能力のこと、美咲ちゃんには話したのか?」


「……まだ」


 悠真は小さく答えた。


 美咲とは恋人になった。


 互いに好きだと伝え、一緒に生きようと約束した。


 それでも、《鑑定》については詳しくは話していない。


「隠し続けるのか?」


「分からない」


 悠真は種の袋を見つめる。


「美咲なら、誰かに言ったりしないと思う。でも、知ってるだけで危険になるかもしれない」


 もし自衛隊や政府に追及された時。


 知らなければ、美咲は本当に何も答えられない。


 だが、秘密を抱えたまま恋人として接することにも、後ろめたさがある。


「話すかどうかは、お前が決めることだ」


 誠は無理に答えを求めなかった。


「ただし、守ることと信じないことは違う。その線だけは間違えるな」


「分かってる」


 本当に分かっているのか。


 悠真自身にも自信はなかった。



「動くかもしれないぞ!」


 店の奥から田島の大きな声が聞こえた。


 悠真と誠が向かうと、従業員用の搬入口近くに小型発電機が置かれていた。


 工事現場などで使う、ガソリン式の発電機だ。


 表面には埃が積もり、側面のカバーが外されている。


 田島は工具を並べ、燃料の管を確認していた。


 佐伯と英樹も横から覗き込んでいる。


「故障してたんじゃないんですか?」


 悠真が尋ねる。


「燃料を長期間入れたまま放置してたせいで、内部が詰まってた」


 田島が手を汚したまま答える。


「完全に直ったかは分からないけど、掃除はした。プラグも店の在庫に交換品があった」


「燃料は?」


「少しだけ残ってる」


 佐伯が携行缶を持ち上げる。


「店の非常用だ。だが、これ以上は手に入らないかもしれん」


「動いても、使う時間は決めた方がいいですね」


 誠が言う。


「照明のために一日中回すわけにはいきません」


「分かってる」


 田島は発電機のスイッチを確認する。


「じゃあ、試すぞ」


 全員が少し離れた。


 田島が始動用のロープを引く。


 ガッ、ガッ。


 鈍い音がしただけで、エンジンは掛からない。


「もう一度」


 再びロープを引く。


 ガガッ、ガッ。


 発電機が一瞬だけ震え、すぐに止まった。


「駄目か?」


「いや、火は入ってる」


 田島はスイッチを調整し、三度目のロープを引く。


 ガッ――ブロロロロロッ!


 突然、大きなエンジン音が響いた。


 発電機全体が細かく震え、排気口から白い煙が上がる。


「動いた!」


 彩乃が声を上げる。


 店内にいた人々も、音を聞いて集まってくる。


 佐伯が延長コードをつなぎ、事務所に置いた小型の照明へ接続した。


 数秒後。


 白い光が点灯する。


「ついた……」


 田島の娘が呟いた。


 ただの作業用照明だった。


 店内全体を明るくするほどの力はない。


 それでも、停電して以来、電気の光を見る機会はほとんどなかった。


 小さな照明を囲む人々の顔に、自然と笑みが浮かぶ。


「お父さん、すごい」


 娘の言葉に、田島は汚れた手で鼻の下を擦った。


「仕事で似たようなものを触ってただけだ」


「いや、助かった」


 佐伯が田島の肩を叩く。


「発電機があれば、工具も一部使える。充電もできる」


「燃料を考えたら、必要な時だけですね」


「ああ。一日一時間か、二時間。作業内容によって決めよう」


 発電機の音は大きい。


 電気を使えるのはありがたいが、遠くにまで人間の存在を知らせることにもなる。


 悠真はそのことを口にしようとした。


 その時だった。


 カラン。


 外から、小さな金属音が聞こえた。


 発電機の音に紛れ、最初は誰も気づかなかった。


 カラカラッ。


 今度は明確だった。


 裏手のフェンスへ設置した、空き缶の警報。


「発電機を止めろ!」


 英樹が叫ぶ。


 田島が慌ててスイッチを切る。


 エンジン音が消えた瞬間、店内へ静寂が戻った。


 そして。


 ガシャンッ!


 何かがフェンスへ激しくぶつかる音が響いた。


「全員、店の中へ!」


 佐伯が叫ぶ。


「入口とシャッターを閉めろ!」


 避難者たちが一斉に動き出す。


 恵は翔太の手をつかみ、田島の妻と娘を連れて休憩室へ向かう。


「お母さん、何が来たの?」


「いいから、こっちへ!」


 美咲も老夫婦を支えながら店の奥へ誘導した。


 悠真は壁へ立て掛けていた金属バットを手に取る。


 誠は長い柄の付いたハンマー。


 英樹はバール。


 彩乃は先端を補強した金属棒を構えた。


「外へ出るな」


 英樹が低い声で言う。


「中から様子を見る」


 裏手の搬入口近くには、小さな確認窓がある。


 佐伯が壁に身を寄せながら、窓の外を覗いた。


「……犬だ」


「何匹ですか?」


「二匹見える。いや、三匹だ」


 悠真の脳裏に、朝確認した痕跡が浮かぶ。


 三匹。


 戻ってきた。


 発電機の音に引き寄せられたのかもしれない。


「普通の犬じゃないですよね」


 彩乃が尋ねる。


「ああ。でかい」


 佐伯の声が硬くなる。


「体高は一メートル近い。毛が黒く変色してる」


 魔犬。


 悠真が以前戦った個体と同じ種類だ。


 だが、三匹同時となれば危険度は大きく違う。


 単独で襲う動物と、群れで連携する動物では、戦い方そのものが変わる。


「フェンスは?」


 英樹が尋ねる。


「今のところ持ってる」


 ガンッ!


 再び衝突音。


 金網が大きく揺れ、空き缶がけたたましく鳴る。


「でも、長くは無理だ」


 佐伯が答えた。


「昨日曲げられた場所を狙ってる」


 魔犬は偶然ぶつかっているのではない。


 前回壊しかけた場所を覚えている。


「頭がいい……」


 誠が呟く。


 悠真は確認窓へ近づいた。


「俺も見ます」


「気をつけろ」


 窓から外を覗く。


 三匹の魔犬が、裏手のフェンス周辺を走り回っていた。


 一匹は正面から金網へ体当たりし、別の一匹は地面を掘っている。


 残る一匹は少し離れ、店の周囲を探るように歩いていた。


 役割を分担している。


 悠真は一匹ずつ《鑑定》する。


――魔犬。


――危険度、D。


――興奮状態。


――空腹。


――群れの序列、下位。


 フェンスへ体当たりしている個体。


――魔犬。


――危険度、D。


――前脚に古い損傷あり。


――群れの序列、中位。


 地面を掘っている個体。


 そして、離れて周囲を見ている個体。


――魔犬。


――危険度、D+。


――群れの指揮個体。


――警戒状態。


――人間の生活圏を餌場として認識。


「奥にいる一匹が、たぶん群れの中心です」


 悠真は窓から離れながら言った。


「どうして分かる?」


 佐伯が尋ねる。


「他の二匹が動いてる間、あいつだけ周囲を見てる。直接フェンスに近づいてない」


 観察した内容を理由にする。


「指示を出してるように見えます」


「犬が指示を?」


「普通の犬じゃありません」


 悠真の言葉に、誰も反論しなかった。


 今までの魔獣が、既存の動物と同じ常識で動かないことは全員が知っている。


「どうする?」


 彩乃が金属棒を握り直す。


「このままフェンスが壊れるのを待つの?」


「自衛隊へ知らせる」


 誠が答える。


「だが、来るまで持つか分からない」


 小学校までは遠くない。


 それでも、連絡手段がない。


 誰かが直接走って知らせなければならなかった。


 正面入口から出れば、裏手の魔犬に気づかれない可能性はある。


 しかし、一匹が店の周囲を巡回している。


 途中で見つかれば、追われることになる。


「俺が行く」


 田島が言った。


「駄目です」


 誠が止める。


「田島さんがいなくなれば、発電機や車を直せる人がいなくなる」


「じゃあ、誰が行くんです」


「誰も行かない」


 英樹が壁に置かれた資材を見る。


「ここで追い返す」


「三匹ですよ」


「外へ出て殴り合うつもりはない」


 英樹は売り場から運んでいた長い単管パイプを持ち上げた。


「柵の内側から攻撃する」


 フェンスには、まだ魔犬の体が通れない。


 金網越しなら、一方的に攻撃できる可能性がある。


 だが、近づき過ぎれば爪や牙が届く。


 金網が破れれば、そのまま接近戦になる。


「危険だよ」


 美咲が休憩室から戻り、悠真を見た。


「分かってる」


「だったら……」


「でも、ここを捨てるわけにはいかない」


 避難者たちがいる。


 動けない老人もいる。


 正面から全員で逃げれば、魔犬に見つかる可能性が高い。


「大丈夫」


 悠真は美咲へ言った。


 自分でも、何を根拠に大丈夫と言っているのか分からなかった。


 それでも、美咲の不安そうな顔を見たまま黙っていることはできない。


「無茶はしない」


 美咲は何か言おうとして、唇を結んだ。


「絶対に戻ってきて」


「うん」


「約束だからね」


「ああ」


 短く約束を交わす。


 悠真、誠、英樹、佐伯、田島、彩乃の六人は、裏口近くへ集まった。


 武器は単管パイプ、バール、ハンマー、金属棒。


 田島は園芸売り場にあった長い熊手を持っている。


「扉は開けない」


 英樹が全員へ確認する。


「点検口から一人ずつ出て、建物とフェンスの間に入る。絶対にフェンスから離れない」


「破られたら?」


 彩乃が尋ねる。


「すぐ中へ戻る」


「間に合わなかったら?」


「その時は」


 英樹の言葉が止まる。


「俺が前に出る」


「お父さん」


「彩乃ちゃんたちは先に戻れ」


「嫌です」


 彩乃は即答した。


「私も戦えます」


「空手と魔獣相手は違う」


「それでも、おじさん一人を置いて逃げるよりはましです」


 英樹は何か言い返そうとしたが、彩乃の目を見て諦めたように息を吐く。


「勝手に前へ出るなよ」


「分かりました」


 点検口を開ける。


 外の空気と共に、獣の臭いが流れ込んできた。


 一人ずつ外へ出る。


 建物の裏側と外周フェンスの間には、幅五メートルほどの通路がある。


 三匹の魔犬はすぐに人間の存在へ気づいた。


 唸り声が響く。


 黒く変色した毛。


 異様に発達した顎。


 口元から垂れる粘ついた唾液。


「来るぞ!」


 一匹がフェンスへ突進した。


 ガシャンッ!


 金網が大きくたわむ。


 佐伯と田島が単管パイプを突き出す。


 先端が魔犬の肩と首へ当たった。


「ギャウッ!」


 魔犬が悲鳴を上げて下がる。


「効いてる!」


「油断するな!」


 地面を掘っていた個体が、別の場所へ回り込む。


 悠真は《鑑定》で動きを確認する。


 前脚に古い損傷がある。


 右へ体重を掛ける動きが遅い。


「次は右側から来ます!」


 悠真が叫ぶ。


 直後、魔犬が右側の金網へ飛び掛かった。


 英樹が待ち構えていたバールを突き出す。


 先端が魔犬の口元へ入り、牙と金属がぶつかる音がした。


「今だ!」


 彩乃が金属棒を両手で握り、金網の隙間から魔犬の前脚を打つ。


「ギャインッ!」


 古傷のある脚を叩かれた魔犬が、地面へ倒れた。


 そこへ田島が熊手を突き出す。


 鋭い爪が肩へ食い込み、魔犬を金網へ押さえ付けた。


「押さえた!」


「頭を!」


 英樹がバールを振り下ろす。


 一度。


 二度。


 三度目で、魔犬の体から力が抜けた。


「一匹!」


 だが、喜ぶ余裕はなかった。


 最初の魔犬が、別の場所へ繰り返し体当たりしている。


 金網を固定していた針金が一本切れた。


「まずい!」


 佐伯が単管パイプを突き出す。


 魔犬はそれを牙で受け止め、勢いよく横へ振った。


 佐伯の手からパイプが離れ、地面を転がる。


 次の体当たりで、フェンスの下部が大きくめくれた。


 魔犬の頭が内側へ入る。


「下がれ!」


 英樹が叫ぶ。


 しかし、魔犬は前脚をねじ込み、強引に隙間を広げようとしていた。


 悠真は金属バットを握り締める。


 表示を見る。


――魔犬。


――興奮。


――侵入行動。


――注意、左目の視界不良。


 左側からなら反応が遅い。


 悠真はフェンスへ近づいた。


「悠真!」


 誠の声が飛ぶ。


「大丈夫!」


 魔犬の頭が金網を越える。


 大きく開かれた口が、悠真の足へ向かう。


 悠真は左へ回り込み、金属バットを振り下ろした。


 ゴンッ!


 鈍い音。


 バットが魔犬の左側頭部へ直撃する。


 魔犬の顎が地面へぶつかった。


 だが、一撃では止まらない。


 頭を振り、再び牙を剥く。


「もう一度!」


 今度は彩乃が横から金属棒を突き出した。


 先端が魔犬の左目へ入る。


「ガァァッ!」


 魔犬が暴れ、フェンス全体が揺れた。


「悠真!」


 彩乃の声に合わせ、悠真はバットを両手で握る。


 狙うのは頭頂部。


 全身の力を込めて振り下ろす。


 ゴキッ。


 骨の砕ける感触が、両手へ伝わった。


 魔犬の体が一度大きく痙攣し、そのまま動かなくなる。


 荒い息を吐きながら、悠真はバットを下ろした。


「二匹目……」


「まだ一匹いる!」


 誠が叫ぶ。


 群れの指揮個体。


 少し離れた場所から状況を見ていた魔犬が、低く唸っている。


 二匹の仲間を失った。


 それでも襲ってくるのか。


 悠真は《鑑定》を使う。


――警戒。


――恐怖。


――撤退を検討。


――人間集団を危険対象として再認識。


「来ないで……」


 彩乃が金属棒を構えたまま呟く。


 魔犬は数秒間、悠真たちを睨み続けた。


 やがて後ろへ一歩下がる。


 さらに一歩。


 そして突然、体を翻して走り出した。


「逃げた!」


「追うな!」


 英樹が全員を止める。


 魔犬は駐車場の外周を回り、住宅地の方角へ姿を消した。


 誰もすぐには武器を下ろせなかった。


 再び戻ってくるのではないか。


 別の場所から飛び掛かってくるのではないか。


 しばらく周囲を警戒し、姿が完全に見えなくなったことを確かめる。


「中へ戻ろう」


 英樹の言葉で、ようやく全員が動き始めた。



 店内へ戻ると、美咲が真っ先に悠真の元へ駆け寄った。


「怪我は?」


「ないよ」


「本当に?」


 美咲は悠真の腕や顔を確認する。


 血が付いているが、すべて魔犬のものだった。


「大丈夫」


「約束したばっかりなのに……」


 美咲の声が震える。


「ごめん」


「謝ってほしいわけじゃない」


 美咲はそれ以上言えず、悠真の服を強くつかんだ。


 悠真も、血の付いていない方の腕で美咲の背中へ触れる。


 生きて戻った。


 その事実を確かめるように。


「悠真兄ちゃん!」


 翔太が恵の手を振りほどき、こちらへ走ってくる。


「犬、やっつけたの?」


「二匹だけな。一匹は逃げた」


「すごい!」


「すごくはないよ」


 悠真は真剣な顔で翔太を見る。


「危ないから、翔太は絶対に近づいちゃ駄目だ」


「うん……」


 強い口調に、翔太は素直に頷いた。


 店内にいた避難者たちは、血の付いた武器を持つ悠真たちを見つめている。


 恐怖。


 安堵。


 驚き。


 それぞれの感情が入り混じっていた。


「この店にいれば安全だと思ってた」


 老婦人が小さく呟いた。


「でも、ここにも来るのね」


「絶対に安全な場所はないと思います」


 誠が答える。


「だから、皆で守れる場所に変えるんです」


 先ほどまでなら、ただの理想に聞こえたかもしれない。


 だが、今は違う。


 補強したフェンスが侵入を遅らせた。


 空き缶の警報が魔犬の接近を知らせた。


 用意した武器と、役割を決めた人間たちが二匹を倒した。


 どれか一つでも欠けていれば、店内へ侵入されていた可能性がある。


「フェンスの補強は、もっと必要だ」


 英樹が血の付いたバールを床へ置く。


「今回破られた場所だけじゃない。全周を確認する」


「警報も増やそう」


 佐伯が続ける。


「発電機を使う時は、見張りを立てる。音を出せば魔獣が寄ってくると考えた方がいい」


「武器も、店のあちこちに置いた方がいいですね」


 田島が言う。


「取りに戻る時間がない場合もある」


「子供が触れない場所へ保管しましょう」


 恵もすぐに意見を出した。


 戦いが終わった直後だというのに、全員が次の対策を考えている。


 怖くないわけではない。


 逃げたいと思う者もいるだろう。


 それでも、ここを守らなければ行く場所がない。


「一匹逃げたのが気になる」


 彩乃が言った。


「また仲間を連れてくるかな」


「可能性はある」


 悠真は答えた。


 指揮個体は、人間を危険対象として認識した。


 すぐに戻ってくるとは限らない。


 だが、二度と来ないとも言えない。


「今日のうちに、自衛隊へ報告しよう」


 誠が言う。


「死体も勝手に処理しない方がいい。検査に使うかもしれない」


「正面入口に見張りを立てて、巡回の隊員が来たら呼び止める」


 佐伯が決める。


 壁に貼られた模造紙。


『今日やること』


 その下へ、新しい項目が書き加えられた。


『外周の再補強』


『発電機使用時の警戒』


『武器の配置』


『自衛隊への報告』


 そして佐伯は、一番上に新しい一文を書く。


『ここは、まだ安全ではない』


 その文字を見て、誰も口を挟まなかった。


 地域共同拠点と名付けたからといって、安全になるわけではない。


 看板を掲げただけで、人々を守れるわけでもない。


 安全は、自分たちの手で作らなければならない。


 失敗を繰り返し。


 危険を知り。


 一つずつ備えを増やしながら。


 悠真は血の付いた金属バットを握ったまま、店内を見回した。


 怯えている者。


 怪我の確認をする者。


 壊れたフェンスを直すため、資材を探し始める者。


 泣きそうな顔で、それでも母親の手伝いをする子供。


 ここにいる人々は、まだ仲間になったばかりだ。


 互いのことも、ほとんど知らない。


 それでも今日。


 同じ場所を守るために、初めて一緒に戦った。


 閉店したホームセンターが地域共同拠点になった日。


 そこを守る者たちの最初の戦いは、こうして終わった。


 そして、悠真たちは思い知った。


 拠点を作るということは。


 守るべき場所を、新たに一つ増やすことでもあるのだと。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。

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