第53話 新しい拠点
翌朝。
悠真たちは、佐伯の待つホームセンターへ向かう準備を整えていた。
全員で行くわけではない。
藤堂家には真由美と由紀が残り、恒一も怪我のため留守番を命じられた。
「俺も行けるんだけどな」
左腕を吊った恒一が不満そうに呟く。
「行けるかどうかではなく、安静にできるかどうかの問題です」
真由美は冷たい視線を向けた。
「向こうへ行ったら、絶対に何か運ぼうとするでしょう?」
「軽いものなら」
「駄目です」
「見回りくらいなら」
「駄目です」
恒一が何を言っても、返事は変わらなかった。
「恒一先輩、諦めた方がいいですよ」
彩乃が苦笑する。
「お母さん、患者には容赦ないから」
「知ってるよ……」
恒一は肩を落とした。
ホームセンターへ向かうのは、悠真、美咲、誠、英樹、彩乃、三浦恵、それに翔太だった。
佐伯からは、店に避難している人たちへ顔を見せてほしいと言われている。
これから共同拠点として使うなら、物資や建物だけを確認すればいいわけではない。
そこにいる人間とも、話をしなければならなかった。
「翔太、本当に行くの?」
恵が息子を見る。
「行く!」
翔太は小さなリュックを背負い、元気よく答えた。
「水やりするって約束したもん」
「まだ畑もできてないぞ」
英樹が笑う。
「じゃあ、畑を作るのを手伝う!」
「力仕事になるぞ」
「大丈夫!」
細い腕で力こぶを作る翔太を見て、全員が少し笑った。
その無邪気さが、張り詰めた空気を和らげてくれる。
悠真は玄関脇に置いていた金属バットを手に取った。
翔太が少年野球で使っていたものだ。
魔犬を倒し、黒牙の男を退けた武器。
表面には傷が増え、わずかに歪んでいる。
それでも、今の悠真にとっては最も使い慣れた武器だった。
「行こう」
誠の言葉に、全員が頷いた。
◇
道路には、以前より人の姿が増えていた。
自衛隊が小学校を拠点にして巡回を始めたことが大きい。
家の前を片付ける住民。
容器を抱えて給水所へ向かう人々。
壊れた塀を直そうとしている男たち。
少し前までは、外へ出ることさえ死を意味していた。
今も安全になったわけではない。
それでも、人々は家の中に閉じこもっているだけでは生きられないと理解し始めていた。
途中、小学校の前を通る。
校門の両脇には迷彩服姿の隊員が立ち、入ってくる住民を確認していた。
校庭には給水車が停まり、その前には長い列ができている。
別の場所では、白衣と防護服を着た人間がテントを設置していた。
血液や唾液の採取。
魔獣と接触した人間の検査。
身体に異常がないかを確認する診察。
自衛隊と医療関係者は、限られた人員で地域の状況を把握しようとしている。
「昨日より人が増えてるね」
美咲が言った。
「ああ」
悠真は校庭へ目を向けた。
検査を待つ人々の表情は暗い。
魔獣に襲われた傷がなくても、自分の体に何かが起きているのではないか。
そんな不安を抱えているのだろう。
悠真自身も、魔犬に噛まれたことで変化した。
身体能力がわずかに上がり、《鑑定》という能力まで得ている。
だが、それを自衛隊へ伝えるつもりはなかった。
少なくとも今は。
恒一のように目立つ変化ではない。
能力が知られれば、研究対象として扱われる可能性がある。
昨日訪れた広瀬という研究者は、悪意のある人間には見えなかった。
それでも、国が何を考えているのかは分からない。
家族を守るためにも、慎重でいる必要があった。
「悠真?」
美咲に呼ばれ、悠真は我に返る。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
短く答え、再び歩き始めた。
ホームセンターまでは、もう遠くない。
◇
道路の向こうに、大きな看板が見えた。
悠真が何度も通った店。
以前は鮮やかだった看板も、今は薄汚れ、片側がわずかに傾いている。
駐車場には放置された車が数台あった。
入り口には金属製の棚と木材が積まれ、簡単な障害物が作られている。
完全に通路を塞いでいるわけではない。
人一人が通れる隙間だけが残されていた。
「昨日より増えてるな」
英樹が障害物を見ながら呟く。
「佐伯さんが一人でやったのかな」
「一人じゃ無理だろう。避難してる人に手伝ってもらったんじゃないか」
店舗の正面には、手書きの紙が貼られていた。
『営業していません』
『避難者以外の立ち入りは、店長へ声を掛けてください』
『物資の持ち出し禁止』
最後の一文だけが、赤い文字で大きく書かれている。
「店としては閉まってるけど、人はいるんだね」
恵が周囲を見回す。
店内の入口付近には、見張りらしい中年男性が一人立っていた。
こちらに気づくと、警戒した顔で棒を構える。
棒の先には包丁が布と針金で固定されていた。
「止まってください」
男が声を上げる。
「誰ですか」
「佐伯さんに呼ばれて来ました」
誠が前へ出る。
「藤堂といいます。こちらは朝倉さんと三浦さんです」
男はすぐには警戒を解かなかった。
「店長を呼びます」
視線をこちらへ向けたまま、店内へ声を掛ける。
しばらくすると、佐伯が早足で現れた。
「来たか」
悠真たちの顔を見ると、見張りの男へ手を上げる。
「大丈夫だ。昨日話した人たちだ」
「そうですか」
男は包丁を取り付けた棒を下げた。
だが、表情から警戒心は消えていない。
佐伯が男を紹介する。
「こちらは田島さんだ。家が火事になって、奥さんと娘さんと一緒にここへ避難している」
「田島です」
男は四十代半ばほどに見えた。
腕には火傷の痕があり、服にも焦げた跡が残っている。
「さっきはすみません」
「いえ。今は、それくらい慎重な方がいいと思います」
誠の言葉に、田島は小さく頷いた。
「黒牙の残りが来るかもしれませんから」
その名前が出ると、彩乃の表情がわずかに硬くなる。
佐伯も気づいたのか、すぐに話を変えた。
「まず中を見てくれ。昨日のうちに、避難している人たちと最低限の片付けはした」
入り口の障害物を抜け、店内へ入る。
自動ドアは電気が止まっているため、手動で開けたまま固定されていた。
店内は薄暗い。
天井に設置された照明は点かず、入口や窓から差し込む光だけが通路を照らしている。
以前は商品で埋め尽くされていた棚も、今は空白が目立つ。
食料品。
飲料水。
乾電池。
携帯用ガスボンベ。
衛生用品。
役に立つと分かりやすい商品は、騒動の初期にほとんど売り切れていた。
それでも、すべてがなくなったわけではない。
釘やネジ。
工具。
ロープ。
ブルーシート。
防寒用品。
園芸資材。
木材。
金網。
塗料。
接着剤。
今まで一般の客には重要視されていなかった商品が、これから生きるためには何より価値のある物資になる。
「入口近くの商品は動かした」
佐伯が説明する。
「外から見えやすい場所に置いておくと、侵入を誘うからな」
「在庫は把握できていますか?」
誠が尋ねる。
「大まかにはな。だが、正確な数までは分からない」
「電源がないから、在庫管理の端末も使えないですよね」
美咲が言う。
「ああ。だから紙で数え直してる」
レジカウンターには、大学ノートが何冊も積まれていた。
商品名と数量。
保管場所。
誰がいつ使ったのか。
すべてを手書きで記録しているらしい。
「持ち出す時は必ず記録するようにした」
「今のところ、守ってもらえてますか?」
「今いる人たちはな」
佐伯は声を落とす。
「だが、人が増えれば分からん」
その懸念は当然だった。
物資が限られていると知れば、隠れて持ち出そうとする者も出る。
自分の家族だけを優先したいと考える人間もいるだろう。
悪意がなくても、目の前で子供が空腹を訴えれば、規則を破る者はいる。
「管理する人間が必要ですね」
誠が言う。
「一人に任せるのも危険です。最低でも二人で確認して、記録を残した方がいい」
「俺もそう思ってる」
佐伯は頷いた。
「後で、役割を決めたい」
悠真は店内を見回しながら、意識を集中させた。
目立たないように、棚に残された商品へ《鑑定》を使う。
視界の端に、情報が浮かぶ。
園芸用種子。
保存状態――良好。
発芽率――やや低下。
使用可能。
液体肥料。
品質――一部劣化。
使用可能。
木材。
乾燥状態――良好。
腐食なし。
その一方で、長期間放置された一部の農薬には注意表示が出ていた。
容器の劣化。
漏出の危険。
周囲に置かれた資材への汚染可能性。
「佐伯さん」
「どうした?」
「あの棚の農薬、少し確認した方がいいかもしれません」
悠真は危険表示の出た場所を指さす。
「容器が膨らんでるように見えます」
「本当か?」
佐伯が近づき、棚を確認する。
「確かに、底が変色してるな」
近くにいた英樹もしゃがみ込む。
「漏れてる可能性がある。周りの物を動かす前に、手袋とマスクを用意した方がいい」
「立入禁止にしておこう」
佐伯はすぐに棚の前へ商品ケースを置き、紙に注意書きを書き始めた。
悠真は何でもない顔で、その様子を見守った。
《鑑定》があれば、危険な物資と使える物資を短時間で見分けられる。
今まで以上に、この能力が役に立つ場面は増えるだろう。
ただし、あまりにも正確に判断し続ければ、周囲に不審がられる。
能力を隠したまま使うには、理由を作らなければならない。
「園芸売り場で働いてたから気づいたの?」
美咲が小声で尋ねる。
「まあ、そんなところ」
悠真は曖昧に笑った。
美咲は少しだけ首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
◇
店内の奥にある休憩室には、避難してきた人々が集まっていた。
田島の妻と中学生の娘。
家を魔犬に荒らされた老夫婦。
一人暮らしだった七十代の男性。
人数は全部で六人。
佐伯を含めても七人しかいない。
だが、疲れ切った表情を見るだけで、それぞれがどれほどの経験をしてきたのか分かった。
「昨日話した人たちだ」
佐伯が悠真たちを紹介する。
「この店を地域の共同拠点として使えるように、一緒に考えてもらう」
「共同拠点?」
老夫婦の夫が不安そうに聞き返す。
「ここに住めるということですか」
「今すぐ追い出すつもりはありません」
誠が答えた。
「ただし、食料や水には限りがあります。ここへいる全員が、できることを分担する必要があります」
「働けということか」
七十代の男性が、少し険しい表情を浮かべる。
「体が悪い人に、力仕事をしろとは言いません」
誠は落ち着いて答える。
「見張りでも、掃除でも、道具の整理でも、できることはあります」
「何もできない人間は出ていけと?」
「そうは言っていません」
言葉は穏やかだが、誠は目を逸らさない。
「ここにある物資は、佐伯さん個人の物ではありません。だからこそ、誰か一人が勝手に使うこともできない」
「皆で生きるために使うなら、皆で守らなければいけません」
部屋が静かになる。
悠真は父の横顔を見た。
相手を責めず、感情的にもならない。
だが、必要なことは曖昧にしない。
こうした調整は、悠真よりも誠の方が遥かに向いている。
「私は料理ができます」
田島の妻が、おずおずと手を上げた。
「今ある物で作れるものなら」
「私は裁縫を少し」
老婦人も続く。
「服や布が破れたくらいなら直せます」
「俺は車の整備をしていた」
田島が言う。
「道具があれば、発電機や車も見られるかもしれない」
佐伯の目がわずかに見開かれた。
「発電機が一台ある。故障して動かないが」
「後で見せてください」
話し始めると、それぞれにできることがあると分かった。
老人は若い頃、農家で働いていた。
田島の娘は料理や掃除を手伝える。
老婦人は裁縫。
田島は機械。
一人暮らしだった男性も、体力は落ちているが、以前は警備員として働いていたという。
何もできない人間など、ほとんどいない。
ただ、自分に何ができるのかを、まだ見つけられていないだけなのかもしれない。
「僕もできるよ!」
突然、翔太が声を上げた。
「水やりと、荷物を運ぶの!」
大人たちの視線が集まる。
翔太は少し怯んだが、それでも手を下げなかった。
「重いものは無理だけど、小さいものなら運べます!」
老婦人が柔らかく笑う。
「それは助かるわね」
「うん!」
その笑顔につられるように、張り詰めていた空気が少し和らいだ。
「子供に無理はさせません」
恵が言う。
「でも、できることを一緒に探すのは大切だと思います」
「そうだな」
佐伯が頷いた。
「まずは全員で、この店を安全に使える状態にしよう」
◇
店内の確認を終えると、次は外周へ向かった。
英樹を先頭に、フェンスや搬入口、資材置き場を見て回る。
正面の駐車場側は比較的見通しがいい。
問題は建物の裏側だった。
搬入口には大型トラックが出入りするための広い扉がある。
今は閉まっているが、シャッターの一部が歪み、地面との間に隙間ができていた。
「これなら、小型の魔獣が入れる」
英樹がしゃがみ込み、隙間を確認する。
「魔犬くらいなら無理やり潜るかもしれない」
「中から棚を置いて塞いでる」
佐伯が言う。
「だが、それだけじゃ足りないな」
「木材と金具で内側から固定しよう。普段使う搬入口は別に作った方がいい」
さらに進むと、裏手のフェンスに大きく曲がっている場所があった。
地面には何かが掘ったような跡が残っている。
彩乃が金属棒を構え、周囲を警戒する。
「これ、魔獣が来た跡ですか?」
「たぶんな」
佐伯の表情が険しくなる。
「一昨日の夜、裏で音がした。外には出なかったが」
悠真は掘られた地面へ視線を向け、《鑑定》を使った。
土に残った痕跡。
獣毛。
体液。
表示された情報に、背筋が冷たくなる。
魔犬。
個体数――三。
活動時期――二日前。
現在地――不明。
付近を縄張りとして認識している可能性あり。
「魔犬かもしれません」
悠真が言う。
「足跡の大きさが、前に見たものと似てます」
「近くにまだいると思うか?」
誠が尋ねる。
「分かりません。でも、一度来たなら、また来る可能性はあります」
正確には、かなり高い。
魔犬たちはこの場所を縄張り候補として見ている。
店の中に人が増えれば、匂いや物音も増える。
放置しておけば、いずれ襲ってくるかもしれない。
「自衛隊に伝えよう」
英樹が言った。
「小型魔獣の駆除もしてるんだろう?」
「巡回の時に見てもらえるよう頼んでみる」
佐伯は掘られた場所を睨んだ。
「それまでにフェンスを補強する」
「外側に金網を追加して、下を深く埋めた方がいい」
英樹は地面へ線を引く。
「掘られても簡単には入れないようにする。音が鳴る仕掛けも必要だな」
「音?」
「空き缶や金属片をロープにつなぐ。触れたら鳴るようにすれば、夜でも気づける」
「店に材料はある」
佐伯が即答した。
「今日から作ろう」
決断は早かった。
安全が確認されるまで待っている余裕はない。
自分たちでできることは、今すぐ始めなければならない。
◇
昼前。
全員は店の事務所へ集まっていた。
佐伯が壁に大きな紙を貼る。
店にあった模造紙だった。
中央に、太い文字で書く。
『今日やること』
その下へ、必要な作業を並べていく。
外周フェンスの補強。
搬入口の封鎖。
危険な薬品の隔離。
在庫の再確認。
避難区画の清掃。
発電機の点検。
水の保管場所を作る。
作業は山ほどあった。
今日一日で終わる量ではない。
それでも、誰からともなく担当を決め始めた。
英樹と田島は、搬入口とフェンス。
佐伯と誠は、物資管理と規則作り。
恵、美咲、田島の妻は、休憩室や給湯室を生活に使えるよう整える。
彩乃は外周の警戒をしながら、軽い資材を運ぶ。
翔太と田島の娘は、大人の目が届く範囲で掃除を手伝う。
悠真は、園芸用品と備蓄可能な資材の確認を担当することになった。
紙の一番下には、佐伯が新しい文字を書き足した。
『ここで暮らす全員が、できることをする』
命令ではない。
罰則もない。
それでも、今後この場所を使う上で、最も大切な約束だった。
「拠点の名前も必要だな」
田島が壁の紙を見ながら言った。
「名前?」
「いつまでも、店とかホームセンターとか呼ぶのも分かりづらいだろ」
「避難所じゃ駄目なの?」
田島の娘が尋ねる。
「避難するだけの場所にはしたくない」
佐伯が答えた。
「ここでは、作って、直して、生きていく」
悠真はその言葉を聞き、店内を見回した。
まだ薄暗い。
棚は乱れ、床には埃が積もっている。
入口には即席の障害物。
裏手には魔犬の痕跡。
安全でも、快適でもない。
だが。
昨日までは閉店した店だった場所に、人が集まり始めている。
誰かが掃除をしている。
誰かが壊れた場所を調べている。
誰かが残った物資を数えている。
子供たちの声も聞こえる。
「地域共同拠点」
悠真は呟いた。
佐伯が振り返る。
「そのままだな」
「分かりやすい方がいいと思います」
「確かに」
佐伯は新しい紙を一枚取り出した。
太い黒色のペンで、ゆっくりと文字を書く。
『地域共同拠点』
その下へ、少し考えてから一文を加えた。
『ここにある物は、皆で生きるために使います』
派手な看板ではない。
ただの紙だ。
風雨に晒されれば、すぐに破れてしまうだろう。
それでも佐伯は、その紙を店の入口へ貼った。
会社の名前が入った営業時間の案内の横。
営業終了を告げる紙の下。
終わった店に、新しい役割を示す言葉が加わった。
「さて」
佐伯が腕をまくる。
「看板を貼っただけで拠点になるわけじゃない」
「まずは片付けですね」
美咲が笑う。
「それからフェンスだ」
英樹が工具を持ち上げる。
「僕は掃除!」
翔太も箒を掲げた。
悠真は金属バットを壁へ立て掛け、園芸売り場に残る種や道具へ目を向ける。
生き残るだけなら、隠れていればいい。
だが、生き続けるためには。
食料を育て、物を直し、人と協力しなければならない。
ここから先は、誰かに守ってもらうだけでは進めない。
悠真たちは、自分たちの手で生活を作り直そうとしていた。
閉店したホームセンターに、金槌を打つ音が響く。
箒が床を擦る音。
商品を数える声。
子供たちの笑い声。
そのすべてが。
壊れ始めた世界の中で、新しい暮らしが始まる音だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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