第52話 店長の決断
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悠真と美咲の交際報告によって、朝から藤堂家の居間は久しぶりの笑いに包まれていた。
恒一へ飛び火した話題は、本人がいくら否定しても収まらない。
「今はそんなことを考えてる場合じゃないだろ」
左腕を吊った恒一が困ったように言うと、由紀は呆れた顔で息を吐いた。
「そうやって、昔から空手を理由に逃げてきたんでしょう?」
「逃げてるわけじゃない」
「じゃあ、今まで一人もいなかったの?」
「……。」
答えに詰まった恒一を見て、彩乃が声を上げて笑う。
「恒一先輩、蓮司と戦ってた時より追い込まれてる」
「彩乃ちゃんまで勘弁してくれ」
そんなやり取りを眺めながら、三浦恵も口元を押さえて笑っていた。
黒牙に追われ、魔犬に襲われ、命からがら藤堂家へ辿り着いた時には、こうして笑える日が来るとは思っていなかった。
隣では翔太が、悠真と美咲を交互に見ている。
「じゃあ、悠真兄ちゃんと美咲お姉ちゃんは、結婚するの?」
「ぶっ……!」
今度は悠真がむせた。
「翔太、いきなりそこまで話を進めないの」
恵が慌てて息子を止める。
「だって、付き合ったら結婚するんじゃないの?」
「そうなる人もいるけど、すぐじゃないから」
「ふうん」
納得したのかしていないのか分からない顔で、翔太は二人を見つめる。
美咲は耳まで赤くしながらも、少しだけ嬉しそうに笑っていた。
悠真も照れくささを隠すために白湯へ手を伸ばす。
世界が壊れ始めてから、こんなにも穏やかな朝は初めてだった。
しかし、その時間は玄関を叩く音によって途切れた。
コン、コン、コン。
大きくはない。
だが、はっきりとこちらへ存在を知らせる叩き方だった。
居間の空気が一瞬で変わる。
自衛隊が地域の巡回を始めたとはいえ、外への警戒を解くことはできない。
悠真は壁へ立て掛けていた金属バットへ手を伸ばす。恒一も椅子から立とうとしたが、真由美に肩を押さえられた。
「あなたは座っていてください」
「でも」
「座っていてください」
二度目は有無を言わせない声だった。
誠が玄関へ向かい、英樹がその少し後ろへ続く。
「どちら様ですか」
「佐伯だ。悠真はいるか?」
聞き覚えのある声に、悠真はすぐ立ち上がった。
「佐伯さん?」
扉を開けると、ホームセンターの店長である佐伯隆が立っていた。
以前よりも疲れた顔をしている。
作業着には埃が付き、無精髭も伸びていた。背負ったリュックは大きく膨らみ、片手には書類の入った透明なケースを持っている。
「生きてたか、悠真」
「佐伯さんも」
悠真は思わず笑った。
「よかった……本当に」
「そりゃ、こっちの台詞だ」
佐伯は悠真の肩を軽く叩く。
その視線が、背後にいる美咲や彩乃、傷だらけの恒一たちへ向いた。
「色々あったみたいだな」
「はい」
「話は聞いてる。廃工場の熊も、黒牙のこともな」
自衛隊が小学校を拠点にしたことで、周辺住民の間にも少しずつ情報が伝わり始めていた。
もちろん、すべてが公表されているわけではない。
それでも、巨大な熊が廃工場を破壊し、自衛隊が重火器を使って討伐したことは隠しようがなかった。
「中へどうぞ」
誠が佐伯を招き入れる。
「悪いな。少し長い話になる」
◇
佐伯は居間へ通されると、出された白湯へ一度だけ口を付けた。
普段の彼なら、店の状況や在庫についてすぐに話し始めただろう。
だが、その日は透明な書類ケースを膝に置いたまま、しばらく何も言わなかった。
「ホームセンターで何かあったんですか?」
悠真が尋ねる。
「あったというか、終わった」
佐伯は乾いた笑みを浮かべた。
「昨日、本部から最後の連絡が入った」
「最後の?」
「ああ」
ケースから数枚の紙を取り出す。
停電と通信障害が続く中、ファクスと短い衛星回線を使って送られてきたものらしい。一部の文字は掠れ、何度も印刷し直した跡があった。
「全国の店舗へ、事業継続は困難だと正式に通知が出た。物流センターは止まり、取引先とも連絡がつかない。従業員の安全も確保できない」
「廃業するんですか?」
「会社そのものをどうするかまでは、今の状況じゃ決められない。ただ、少なくとも通常営業は終了だ」
佐伯は紙面を指で叩いた。
「店舗は閉鎖。従業員は可能な限り帰宅させる。残っている施設と物資については、人命維持や地域防災に必要な範囲で現地責任者の判断に委ねる」
英樹が眉を上げる。
「現地責任者ってことは」
「俺だ」
佐伯は短く答えた。
「乱暴に言えば、本部からは『もう店として守れない。必要なら使え』と言われたようなものだ」
悠真は以前訪れたホームセンターを思い出した。
食料や飲料水、乾電池などの目立つ商品はほとんど残っていなかった。
だが、建築資材や園芸用品、工具、薪、炭、雨水タンク、種、肥料など、生き延びるために使えるものはまだ多く残っている。
「従業員の皆さんは?」
「昨日までに全員帰した。遠方の人間は、小学校の避難場所へ移ってもらった」
「佐伯さんは?」
「俺はしばらく店に残る」
迷いのない返事だった。
「一人でですか?」
「そのつもりだった」
佐伯は白湯の入ったコップを見つめる。
「だがな。昨日、店の前に三組の家族が来た」
「家族?」
「一組は、家を魔犬に荒らされた老夫婦。もう一組は、火事で家を失った母親と子供。最後は、一人で逃げてきた爺さんだ」
店は閉まっている。
営業はできない。
食料も十分にはない。
それでも、大きな建物と高いフェンスを見て、助けてもらえると思ったのだろう。
「追い返したんですか?」
美咲が不安そうに尋ねる。
「できるわけないだろ」
佐伯は苦々しく笑った。
「倉庫の休憩室と事務所を使わせた。売り物だった毛布も渡した」
店長としてなら、許されない行為だったかもしれない。
だが、会社から店を守れという命令はもうない。
目の前には住む場所を失った人間がいる。
佐伯は、商品を守るより人を守る方を選んだ。
「小学校へ行ってもらうことも考えた」
佐伯は続ける。
「だが、あそこは自衛隊の前進拠点になってる。給水や診療、検査を受ける場所としては頼れるが、全員が寝泊まりできるほど余裕があるわけじゃない」
教室の一部は診察や採血に使われ、持ち込まれた機器の設置場所にもなっている。
校庭には自衛隊車両と給水車。
体育館には負傷者や緊急性の高い避難者。
地域住民すべてを長期間受け入れることは難しい。
「そこで考えた」
佐伯が全員を見回す。
「ホームセンターを、この地域の共同拠点にできないかとな」
部屋が静かになる。
悠真は佐伯の言葉を頭の中で繰り返した。
「共同拠点……」
「避難所だけじゃない」
佐伯は身を乗り出す。
「家を失った人間が一時的に暮らせる場所。残った物資を管理する倉庫。畑を作るための資材を集める場所。物を修理し、必要なものを作る場所だ」
英樹の目が変わった。
「店の敷地なら、資材置き場も広い」
「ああ。駐車場もある。外売り場には土も肥料も残ってる。木材、単管パイプ、金網、工具もある」
「フェンスはそのまま使えるが、出入口は補強が必要だな」
英樹はすでに建物の構造を思い浮かべているようだった。
「裏の搬入口も塞いだ方がいい。見張り台を作るなら、資材館の屋根が使えるかもしれない」
「英樹さん」
由紀が少し呆れたように夫を見る。
「まだやるって決まったわけじゃないでしょう」
「悪い。ついな」
英樹は頭を掻いた。
しかし、佐伯の顔には初めて小さな笑みが浮かんだ。
「その『つい』が必要なんだ」
「俺は店の中なら分かる。在庫も、設備も、鍵の場所もな。ただ、建物を防衛施設に変える知識はない」
今度は悠真を見る。
「悠真。お前は店の商品を知ってる。園芸や農業の知識もある」
「大学で習っていることなんて、まだ基礎だけです」
「基礎すら知らない人間の方が多い」
佐伯は即座に返した。
「それに、この状況じゃ正解を知っている奴なんていない。分かる奴が、分かる範囲でやるしかないんだ」
悠真は黙って考えた。
藤堂家は守るべき生活拠点だ。
家族が休み、食事をし、眠る場所。
だが、人が増えれば限界が来る。
畑を広げる土地も、物資を保管する空間も、防衛設備を作る余裕も少ない。
一方、ホームセンターには広い駐車場と資材がある。
高いフェンス。
頑丈な建物。
屋根。
倉庫。
そして、まだ使い切れていない道具と材料。
「家から完全に移るわけではないんですよね?」
真由美が確認する。
「ああ」
佐伯は頷いた。
「藤堂家や朝倉家は生活の場所として残す。ホームセンターは、地域で働き、作り、守る場所だ」
「二つの拠点を使い分けるわけですね」
誠が言う。
「その方がいいと思います」
自宅は家族の生活拠点。
ホームセンターは地域の生産・避難・防衛拠点。
すべてを一か所へ集めれば、襲撃された時に全員が危険になる。
二つに分ければ、片方に何かあっても、もう片方へ逃げられる。
「ただし、問題もあります」
誠の表情は慎重だった。
「人が集まれば、食料も水も必要になる。誰でも無条件に受け入れるわけにはいかない」
「分かってる」
佐伯も真剣な顔で答える。
「店にある物は無限じゃない。むしろ食い物はほとんど残ってない」
「自衛隊の給水だけに頼り続けることもできません」
悠真が言う。
「雨水は生活用水に使える。でも飲料水は別に確保する必要がある」
「畑もすぐ収穫できるわけじゃない」
三浦恵も会話へ加わった。
「今から種を植えても、食べられるようになるまで時間がかかりますよね」
「はい」
「だったら、その間をどう乗り切るかも考えないと」
恵の言葉に、佐伯はゆっくり頷いた。
「そういう意見を出してくれる人間が必要なんだ」
彼は一人ずつ顔を見た。
誠。
真由美。
英樹。
由紀。
恒一。
美咲。
彩乃。
恵。
そして悠真。
「俺一人じゃ、店の鍵を守ることしかできない」
佐伯の声は静かだった。
「だが、皆が力を貸してくれるなら、あの店を生き残るための場所に変えられるかもしれない」
悠真は、初めてホームセンターで働き始めた日のことを思い出した。
商品名も場所も覚えられず、何度も佐伯に叱られた。
木材の種類。
工具の使い方。
キャンプ用品。
園芸資材。
佐伯は厳しかったが、質問すれば必ず教えてくれた。
あの場所は、悠真にとって単なるアルバイト先ではない。
備えることの大切さを教えてくれた場所だった。
そして今度は。
その店が、地域全体を救う場所になるかもしれない。
「やりましょう」
悠真は言った。
佐伯の目を見る。
「ホームセンターを使いましょう」
「避難するだけの場所じゃなくて、少しずつでも自分たちで作れる場所にする」
「食べ物を育てて」
「壊れたものを直して」
「家を失った人が、次へ進むまで休める場所にする」
言葉にするほど、それが簡単ではないことも分かっている。
人が増えれば揉め事も起きる。
物資を巡る争いもある。
魔獣に狙われるかもしれない。
黒牙のような集団が、再び現れる可能性もある。
「最後には」
悠真は少しだけ言葉を選んだ。
「ここへ逃げれば何とかなるって、地域の人が思える場所にしたいです」
佐伯はしばらく悠真を見つめていた。
やがて、深く息を吐く。
「そうか」
その表情から、張り詰めていたものが少しだけ抜けた。
「なら、決まりだな」
「ただし」
誠が釘を刺す。
「全員で現地を確認してからです。建物の安全、残っている物資、周辺の魔獣、避難経路。そのすべてを調べる」
「当然だ」
「自衛隊にも相談しましょう」
真由美が言う。
「小学校が近いなら、巡回経路に入れてもらえるかもしれません」
「医療品の扱いも確認したいです」
「分かった」
「建物については、俺が見る」
英樹が言った。
「壁、屋根、出入口、電気設備、水回り。使える場所と危険な場所を分ける」
「無茶するなよ」
由紀が夫を睨む。
「一人ではやらない」
英樹は苦笑した。
「今度はちゃんと人を集めてやる」
「警備は俺が考えます」
恒一も口を開いた。
真由美がすぐに眉を吊り上げる。
「あなたは、まず怪我を治してください」
「計画を考えるくらいならできます」
「現場で動かないなら」
「約束します」
その返事を、真由美は完全には信じていないようだった。
「私も手伝います」
恵が言う。
「家庭菜園くらいしか経験はありませんけど、畑や炊き出しなら」
「僕も!」
翔太が元気よく手を上げた。
「水やりできるよ!」
佐伯は思わず笑った。
「頼もしいな」
「任せて!」
小さな胸を張る翔太を見て、部屋の空気が少し明るくなる。
大きなことは、まだ何も始まっていない。
計画すらない。
人も。
食料も。
水も。
時間も足りない。
それでも。
生き残るために逃げ続けてきた人々が、初めて何かを作ろうとしていた。
「明日の朝」
佐伯が立ち上がる。
「一度、店を見に来てくれ」
「今残っている人たちにも紹介する」
「分かりました」
悠真も立ち上がった。
佐伯と向き合う。
「また、あそこで働くことになるんですね」
「給料は出せないぞ」
「今は誰も期待してませんよ」
「違いない」
二人は顔を見合わせ、久しぶりに笑った。
会社としてのホームセンターは、その役目を終えた。
だが、その建物も、設備も、積み上げられた物資も、まだ残っている。
店として終わった場所が。
今度は、人々が生きるための場所として始まろうとしていた。
悠真は窓の外へ目を向けた。
停電した街。
壊れた家。
誰も歩いていない道路。
それでも遠くには、自衛隊の給水車が小学校へ向かう姿が見えた。
国は、国として動いている。
自衛隊は、守れる範囲を守ろうとしている。
なら、自分たちにもできることがある。
まずは、あのホームセンターから。
小さくてもいい。
一つずつ。
生きていくために必要なものを、作り直していけばいい。
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