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第6話 魔素



 外では、もう一度、遠い咆哮が響いた。


 犬ではない。


 猫でもない。


 熊、と言われれば近いのかもしれない。


 だが、少なくとも俺が知っている熊の声ではなかった。


 もっと低く、もっと重い。


 音というより、空気そのものを震わせる圧力だった。


 リビングの窓ガラスが、かすかに震える。


 彩乃が息を呑んだ。


 父さんは懐中電灯を握り、母さんは救急箱を抱えたまま固まっている。


 俺は寝袋の上で左腕を押さえていた。


 熱い。


 包帯の下で、傷が脈打っている。


 ただの痛みではない。


 何かが流れている。


 血ではない。


 神経でもない。


 もっと異質なもの。


 さっき頭に浮かんだ言葉が、離れない。


 魔素。


 魔素濃度。


 危険度。


 大型獣。


 そんな単語を、俺は今まで一度も使ったことがない。


 いや、ネット小説やゲームなら見たことはある。


 魔力。


 魔素。


 魔物。


 そういうファンタジーの言葉。


 でも、今俺の頭に浮かんでいるそれは、妄想や遊びの言葉ではなかった。


 もっと生々しい。


 血の匂い。


 獣の唸り声。


 暗闇の中で震える家族。


 その全部に結びついた、現実の言葉だった。


「悠真」


 父さんが小声で聞いた。


「今、何て言った?」


「……あれは、昨日のやつより危ないって」


「その前だ」


 俺は少し黙った。


 聞こえていたらしい。


 自分でも無意識に口にしていたのかもしれない。


「魔素って言ったのか?」


 リビングが静まり返る。


 彩乃が困惑した顔で俺を見る。


「魔素って……ゲームとかの?」


「俺にも分からない」


 正直に答えるしかなかった。


「でも、頭に浮かんだ。外にいるやつは、魔素濃度が高いって」


「熱でうなされてるんじゃないの?」


 彩乃の声には、不安と否定が半分ずつ混じっていた。


 無理もない。


 俺だって、逆の立場ならそう思う。


 停電。


 通信障害。


 変な空。


 異常な動物。


 そこへ突然、兄が「魔素」なんて言い出したら、心配になるに決まっている。


 母さんが俺の額に手を当てた。


「熱は?」


「さっきよりは下がってる」


「でも、まだ熱いわ」


「意識ははっきりしてる」


「それは分かる。でも……」


 母さんは言葉を止めた。


 看護師としてなら、発熱、外傷、幻覚、意識障害を疑うのだろう。


 だが、今起きている現象は、それだけでは説明できない。


 父さんが窓の方を見る。


「今の咆哮は、どの辺りだと思う?」


「遠い。たぶん駅の方か、その先」


 俺はそう答えてから、自分で驚いた。


 なぜ分かる。


 音の方向。


 距離。


 大まかな位置。


 普段なら何となくしか判断できないものが、今は妙にはっきりしていた。


「……分かるのか?」


 父さんが聞く。


「たぶん。正確じゃないけど」


 また咆哮が響く。


 今度は少し短い。


 遠くで、犬の鳴き声が一斉に上がった。


 それから、急に途切れる。


 まるで何かに怯えて黙ったように。


 俺の背筋に冷たいものが走った。


 昨日まで、この町の夜は静かだった。


 たまに車が通り、犬が吠え、電車の音が遠くから聞こえる。


 それだけだった。


 今は違う。


 暗闇の奥に、知らない生き物がいる。


 そして、その存在を俺の身体のどこかが感じ取っている。


「今夜は絶対に外に出ない」


 父さんが言った。


「雨戸も開けない。明かりも最小限。音も立てない」


 誰も反対しなかった。


     ◇


 夜明けまで、俺たちはほとんど眠れなかった。


 時折、遠くから咆哮が聞こえた。


 そのたびに、俺の左腕が熱く疼いた。


 奇妙なことに、咆哮が近づくことはなかった。


 あの大型獣が町を歩き回っているのか、それともどこかで暴れているのかは分からない。


 ただ、音が響くたび、頭の奥に断片的な情報が浮かんだ。


 大型。


 単独行動。


 高い攻撃性。


 縄張り形成前。


 飢餓状態。


 危険度D。


 D。


 その評価が高いのか低いのか、俺には分からない。


 昨日の小型獣より危険だということだけは分かった。


 もしあれでDなら、CやBはどれほど危険なのか。


 考えたくもなかった。


 朝が来る頃、咆哮は聞こえなくなった。


 停電した町に、薄い光が差し込む。


 いつもなら安心する朝の光が、今日はやけに頼りなく見えた。


「電気、戻ってないね」


 彩乃がぽつりと言った。


 母さんがキッチンのスイッチを押す。


 反応はない。


 蛇口をひねる。


 水は出た。


 だが、昨日よりさらに細い。


 母さんの表情が険しくなる。


「水圧、落ちてるわね」


「今日中に止まるかもしれない」


 俺が言うと、父さんが頷いた。


「出るうちに確保しよう」


 もう誰も「大げさだ」とは言わなかった。


 鍋、やかん、ペットボトル、空き容器。


 昨日入れた水を確認し、足りない分を追加する。


 トイレ用に風呂の水は残す。


 飲用はペットボトルとポリタンク。


 調理用は鍋と水筒。


 父さんはノートに水の量を書き込んでいく。


 彩乃も文句を言わずに動いた。


 昨日までは「そんなにいる?」と言っていた妹が、今は黙ってペットボトルに水を入れている。


 数日で、人は変わる。


 世界が変われば、嫌でも。


     ◇


 朝食は簡単だった。


 冷蔵庫の中のものを優先して食べる。


 電気が戻らない以上、冷蔵庫はただの箱になりつつある。


 まだ冷気は残っているが、食材の傷みは避けられない。


 母さんは卵と野菜を炒め、昨夜の残りと一緒に出した。


「今日中に肉は火を通した方がいいわ」


「保存できる?」


 父さんが聞く。


「冷蔵庫が駄目なら長くは無理ね。濃い味付けにして、今日明日で食べるしかない」


「干し肉とか作れないの?」


 彩乃が俺を見る。


「道具と時間があれば。でも今は衛生面が怖い。失敗したら腹壊す」


「そっか」


 サバイバル動画で見た知識はある。


 燻製。


 干し肉。


 塩漬け。


 保存食の作り方。


 だが、動画で見るのと現実にやるのは違う。


 特に今は、気温が高い。


 電気がない。


 清潔な環境も限られる。


 下手な保存は、食料を無駄にするだけではなく、食中毒の原因になる。


 知識があるからこそ、安易にはできなかった。


「米は?」


 父さんが聞く。


「鍋で炊ける。ガスが使えるうちは問題ない」


「ガスが止まったら?」


「カセットコンロ。でもガス缶は限られてる。最終的には庭で火を使うことになるかもしれない」


 母さんが少し顔をしかめる。


「庭で火?」


「近所の目もあるし、匂いも出る。できれば避けたい。でも選択肢としては考えておく」


 父さんがノートに書き込む。


『火の使用』

『匂い注意』

『煙注意』

『燃料節約』


 父さんの字は、昨日より少しだけ力強かった。


     ◇


 午前中、ラジオから断続的に情報が入った。


 ただし、内容はさらに曖昧になっていた。


『――政府は、現在発生している通信障害、停電、野生動物被害について、関係機関と連携して対応を進めています』


『――一部地域では避難所が混雑しており、食料や水の配布に遅れが出ています』


『――目撃されている大型動物について、自治体は熊、野犬、外来種などの可能性を調査中です』


『――住民の皆様は、不要不急の外出を控え、屋内で安全を確保してください』


 大型動物。


 熊。


 野犬。


 外来種。


 どれも違う。


 少なくとも、昨夜の咆哮はそんな言葉では収まらない。


 だが、ラジオの向こうの人たちも分かっていないのだろう。


 分からないものに、既存の言葉を当てはめようとしている。


 人間は知らないものに名前をつけないと不安になる。


 俺も同じだ。


 だから、頭に浮かんだ言葉にすがりそうになる。


 魔素。


 魔獣。


 鑑定。


 そんな非現実的な言葉に。


「避難所、どうする?」


 父さんが改めて聞いた。


 リビングの空気が少し重くなる。


 避難所へ行けば、情報はあるかもしれない。


 人手もある。


 行政や警察と繋がれる可能性もある。


 しかし、リスクも大きい。


 人が集まる。


 物資が不足する。


 衛生状態が悪くなる。


 小型獣や大型獣に襲われた場合、体育館のような広い空間は守りにくい。


 そして、今一番気になるのは人間だった。


 昨日、盗難の話を聞いた。


 スーパーでは殴り合いがあった。


 ホームセンターでも客が店員に詰め寄っていた。


 人が集まれば、善意も集まる。


 同時に、不安も欲望も集まる。


「俺は、まだ行かない方がいいと思う」


 俺は言った。


「理由は昨日と同じ?」


 父さんが聞く。


「それに加えて、今は家がまだ機能してる。水もある。食料もある。母さんの医療品もある。雨戸もある。避難所より安全な可能性が高い」


「ただ、情報が足りない」


「うん。だから見に行くのは必要。でも全員で移動するのは危ない」


 父さんは頷いた。


「なら、今日は俺が自治会館に行く。昨日より詳しく話を聞いてくる」


「俺も――」


「駄目」


 母さんが即座に言った。


 分かっていた。


「熱は下がった」


「まだ傷が腫れている」


「でも」


「でもじゃない」


 母さんの声は固かった。


 彩乃が横から言う。


「私が行く」


「彩乃」


「昨日も行ったし、道も分かる。お父さん一人よりましでしょ」


 彩乃の顔は真剣だった。


 虫が嫌いで、アウトドアが嫌いで、スマホが繋がらないと文句を言っていた妹。


 でも、彼女は空手で全国優勝するほどの努力をしてきた人間でもある。


 怖くないわけではない。


 それでも動こうとしている。


 父さんは少し考えた。


「分かった。ただし、絶対に無理はするな。人にも動物にも近づかない。何かあったらすぐ戻る」


「分かってる」


「お前の空手は、人間相手なら強い。でも動物には通じないと思え」


 父さんの言葉に、彩乃は一瞬だけ悔しそうな顔をした。


 だが、すぐに頷いた。


「分かった」


 俺も言う。


「素手で何とかしようとするなよ。距離を取れ。噛まれるな。爪も危ない」


「分かってるって」


「あと、変な動物を見たら目を合わせるな。走って逃げるのも危ないかもしれない」


「注文多いな」


「心配してるんだよ」


 そう言うと、彩乃は少しだけ目を丸くした。


 それから、顔をそらす。


「……知ってる」


     ◇


 父さんと彩乃が出ている間、俺は母さんと家に残った。


 外は明るい。


 それでも、家の中は薄暗かった。


 雨戸は一部を少しだけ開け、外から中が見えないようにしている。


 ランタンは消している。


 スマホは節電のため電源を切った。


 手回しラジオだけが、時々雑音を混じらせながら声を流す。


 母さんは俺の腕を確認した。


 包帯を外す。


 傷は昨日より少し落ち着いているように見えた。


 赤みは残っている。


 腫れもある。


 だが、膿んではいない。


「感染の悪化にしては、少し変ね」


「変?」


「熱があった割に、傷の状態がそこまで悪くない。普通ならもっと炎症が強くてもおかしくないのに」


「治ってる?」


「治っている……とも言い切れないわ」


 母さんは言葉を選んでいた。


 看護師としての知識と、母親としての不安がぶつかっているように見えた。


「痛みは?」


「まだある。でも昨日よりはまし」


「しびれは?」


「少し。あと、熱いものが流れる感じ」


「それは昨日も言っていたわね」


 母さんはメモを取る。


 体温。


 傷の色。


 痛み。


 しびれ。


 症状の変化。


「母さんまで紙か」


「記録は大事よ」


「父さんと同じこと言ってる」


「夫婦だからね」


 母さんが少しだけ笑った。


 その笑顔に安心しかけた時、俺の視界に母さんの手元の救急箱が入った。


 消毒液。


 殺菌作用。


 外用。


 使用期限、残り一年八か月。


 包帯。


 清潔。


 圧迫固定。


 残量、中。


 ガーゼ。


 滅菌。


 残量、少。


「……」


 俺は瞬きをした。


 文字が見えたわけではない。


 箱にラベルが浮かんだわけでもない。


 でも、情報が分かる。


 視界の中にあるものの性質が、頭の中に流れ込んでくる。


 救急箱だけではない。


 テーブル。


 木製。


 重量、中。


 移動可能。


 遮蔽物として使用可。


 窓。


 ガラス。


 脆弱。


 雨戸あり。


 損傷、軽微。


 母さん。


 人間。


 疲労、中。


 睡眠不足。


 精神的負荷、高。


「悠真?」


 母さんが俺の顔を覗き込む。


「どうしたの?」


「……見える」


「何が?」


「情報、みたいなもの」


 母さんの表情が真剣になる。


「具体的に言える?」


「救急箱の中身とか、窓が弱いとか、母さんが疲れてるとか」


 母さんは一瞬、目を見開いた。


「疲れているのは、見れば分かるでしょう」


「それだけじゃない。睡眠不足とか、精神的にかなり負荷がかかってるとか」


 言ってから、母さんの顔が少し強張った。


 俺は慌てて付け足す。


「ごめん。変なこと言った」


「いいの。続けて」


「たぶん、物や人を見ると、断片的に分かる。全部じゃない。たまにだけど」


「昨日の獣も?」


「たぶん」


「魔素という言葉も?」


「うん」


 母さんは黙った。


 否定しない。


 馬鹿にもしない。


 ただ、真剣に考えている。


 その姿に、俺は少し救われた。


 母さんは医療者だ。


 本来なら、こんな非科学的な話は受け入れにくいはずだ。


 それでも、今は俺の言葉を聞こうとしてくれている。


「もしそれが本当なら」


 母さんはゆっくり言った。


「あなたの身体に、昨日の動物から何かが入った可能性がある」


「魔素?」


「その言葉が正しいかは分からない。でも、何らかの未知の要因。感染症、毒素、あるいは……今まで知られていない何か」


「母さんが魔素って言わないの、看護師っぽい」


「当たり前でしょ。診断名に魔素なんて書けないわ」


 少しだけ笑えた。


 でも、笑いはすぐに消えた。


「俺、どうなるんだろう」


 小さな声で言った。


 母さんは俺の手を握った。


「分からない。でも、変化があるなら記録する。悪くなるなら対処する。良くなるなら、それも見る」


「怖いな」


「うん」


「でも、これが役に立つなら……」


「悠真」


 母さんの声が少し強くなった。


「役に立つかどうかより、まずあなたが無事でいることが大事」


「分かってる」


「本当に?」


「……分かってるつもり」


 母さんはため息をついた。


「あなたは昔からそう。怖がりなのに、人のためだと前に出る」


「そんなことない」


「あるわよ。美咲ちゃんが泣いてた時も、彩乃がいじめられそうになった時も、あなたは自分が強いわけじゃないのに前に出た」


「昔の話だろ」


「人はそんなに変わらないわ」


 母さんの言葉に、何も返せなかった。


     ◇


 父さんと彩乃が戻ってきたのは昼過ぎだった。


 二人とも汗だくだった。


 それだけで、外の暑さと緊張が伝わってくる。


「どうだった?」


 父さんは玄関で水を一口飲んでから言った。


「自治会館は昨日より人が増えていた。避難所に行くか迷っている人が多い。だが、避難所も混んでいるらしい」


「情報は?」


「電気はまだ復旧見込みなし。水道は一部で止まり始めている。駅前のスーパーは閉店。再開未定。ドラッグストアも入場制限」


「動物は?」


 父さんの表情が曇る。


「昨夜、駅の近くで大型犬のようなものが目撃されたらしい。犬と言っても、かなり大きかったと。人が襲われたという話もある」


「大型犬……」


 俺の頭に、昨夜の咆哮が蘇る。


 危険度D。


 大型獣。


 魔素濃度、高。


 彩乃が口を開いた。


「あと、変な人たちがいた」


「変な人?」


「駅前の方から来たっぽい男たち。バイクの音がしてた。コンビニの前で騒いでた」


 父さんが続ける。


「暴走族か半グレかは分からん。まだ大きな騒ぎにはなっていないが、物資を集めているように見えた」


 胸の奥が冷えた。


 動物。


 停電。


 断水。


 物流停止。


 そして、人間。


 災害は、人の悪意も浮かび上がらせる。


「近づかない方がいい」


 俺は言った。


 父さんも頷く。


「俺もそう思う」


 彩乃が少し苛立ったように言う。


「でも、ああいう奴らって、放っておいたら調子に乗るんじゃない?」


「だからって喧嘩を売るな」


「分かってる」


「彩乃」


「分かってるって!」


 彩乃は声を荒げた。


 すぐに、自分でも驚いたような顔をする。


「……ごめん」


 母さんが静かに言った。


「怖かったのね」


 彩乃は唇を噛んだ。


「怖くない」


 強がりだった。


 誰が見ても分かる。


 でも、誰もそれを責めなかった。


     ◇


 午後、ついに水道が止まった。


 最初は、蛇口から出る水がさらに細くなった。


 糸のような流れ。


 それが、ぽたぽたと滴るだけになり。


 やがて、完全に止まった。


 彩乃が蛇口をひねったまま固まる。


「……出ない」


 リビングにいた全員が黙った。


 電気が止まった時とは違う重さがあった。


 水は、命に直結する。


 浴槽。


 ポリタンク。


 ペットボトル。


 鍋や容器に溜めた水。


 昨日までの「念のため」が、今は家族の命綱になった。


 父さんがノートを開く。


「今日から水の使用量を決める」


「飲み水優先」


 俺が言う。


「手洗いは最低限。アルコールとウェットティッシュを使う。食器はラップを敷いて洗い物を減らす。トイレは風呂の水」


「洗濯は?」


 彩乃が聞く。


「しばらく無理。下着だけ手洗いするにしても、水がもったいない」


「最悪……」


「命よりはましだろ」


「分かってる」


 分かっている。


 でも、嫌なものは嫌だ。


 その感覚も大事だと思った。


 人間は急にサバイバル仕様にはならない。


 清潔でいたい。


 普通の服を着たい。


 スマホを見たい。


 シャワーを浴びたい。


 冷たい飲み物が飲みたい。


 そういう当たり前を我慢することが、精神を削っていく。


 これから先、戦う相手は獣だけではない。


 暑さ。


 不潔さ。


 空腹。


 不安。


 苛立ち。


 それら全部が、家族を追い詰めていく。


     ◇


 夕方、俺の体温は三十七度ちょうどまで下がった。


 傷の腫れも少し引いている。


 母さんは納得していないようだったが、少なくとも悪化はしていない。


 むしろ、身体は軽くなっていた。


 昨日までの重さが嘘のように、手足がよく動く。


 ただ、左腕の奥にはまだ熱が残っている。


 それは痛みというより、力に近かった。


 俺は庭側の窓を見る。


 雨戸。


 爪痕あり。


 耐久低下。


 補強推奨。


 また情報が浮かぶ。


 前より少しはっきりしている。


 俺は父さんに言った。


「雨戸の補強、もう少しやりたい」


「体は大丈夫なのか?」


「熱は下がった。無理はしない」


 母さんがじっと俺を見る。


「少しだけよ」


「うん」


 父さんと一緒に、窓の内側のバリケードを見直す。


 木材の位置。


 家具の重心。


 結束バンドの固定。


 ガムテープの弱さ。


 見れば見るほど、どこが脆いか分かる。


「そこ、上が弱い」


「ここか?」


「うん。押されたら外れる。下に木材を噛ませて、斜めに支えた方がいい」


「なるほど」


 父さんは言われた通りに作業する。


 以前なら、俺も何となくで考えていたはずだ。


 でも今は違う。


 構造の弱点が見える。


 支点。


 荷重。


 破損しやすい箇所。


 全部ではないが、直感的に分かる。


 父さんが汗を拭った。


「お前、こういうの得意だったか?」


「ホームセンターで色々見てたから」


 半分は本当。


 半分は違う。


 でも、今はまだそれでいい。


 自分でも説明できないものを、家族にどう説明すればいいのか分からなかった。


     ◇


 夜が来た。


 停電三日目の夜。


 水道も止まった。


 通信はほぼ死んでいる。


 外では時々、遠くから獣の声が聞こえる。


 昨日より町全体が静かだった。


 人々が学んだのだ。


 夜は危ない。


 明かりを漏らしてはいけない。


 音を立ててはいけない。


 まだ誰かが教えたわけではない。


 それでも、恐怖は人に学習させる。


 俺たちはランタンの明かりを最小限にして、リビングに集まっていた。


 夕飯は、火を通した肉と米。


 水を節約するため、食器にはラップを敷いている。


 彩乃は文句を言わなかった。


 父さんはノートを見ている。


 母さんは医療品を整理している。


 俺はラジオの横で、左腕を押さえていた。


 ラジオから雑音混じりの声が流れる。


『――政府は、本災害を大規模複合災害として対策を進めると発表しました』


 大規模複合災害。


 まだ、魔素とは言わない。


 魔獣とも言わない。


 でも、もう普通の停電ではないと、政府も認め始めている。


『――なお、各地で報告されている発光現象および動植物の異常について、専門家チームが調査を――』


 ザザッ。


 音が乱れる。


 次に聞こえた声は、ひどく緊迫していた。


『――埼玉県南西部において、大型の獣とみられる個体が住宅街に侵入したとの情報が入っています。近隣住民は屋内に避難し、絶対に外へ出ないでください』


 父さんが顔を上げる。


 母さんの手が止まる。


 彩乃が俺を見る。


 埼玉県南西部。


 俺たちの住む地域と、近い。


 あるいは、同じ圏内かもしれない。


『繰り返します。大型の獣とみられる個体が――』


 そこで、ラジオが大きく乱れた。


 ザザザザッ。


 音が途切れる。


 次の瞬間。


 外から、遠くの咆哮が聞こえた。


 昨日より近い。


 そして、俺の頭の中に情報が浮かぶ。


 大型獣。


 魔素変異体。


 危険度D。


 移動中。


 方角――北東。


 俺は立ち上がった。


「近い」


 父さんが低い声で聞く。


「どれくらいだ」


「分からない。でも昨日より近い。たぶん、町の中にいる」


 彩乃の顔が青ざめる。


「こっち来るの?」


 俺は答えられなかった。


 分からない。


 だが、次の瞬間。


 遠くで、車のクラクションが鳴り響いた。


 続いて、金属が潰れるような音。


 そして、人の悲鳴。


 夜の住宅街に、はっきりと響いた。


 父さんが雨戸の隙間へ近づこうとする。


「駄目!」


 俺は叫んだ。


 自分でも驚くほど強い声だった。


「見ない方がいい。明かりも漏らすな」


 父さんが動きを止める。


 俺の左腕が焼けるように熱い。


 頭の奥で、危険を知らせる警鐘が鳴っている。


 大型獣は、光と音に反応する。


 そして今、町のどこかで車の警報音が鳴り続けている。


 その音に向かって、何かが動いている。


 俺は震える声で言った。


「……あいつ、音に向かってる」


 外で、もう一度咆哮が上がった。


 今度は、家の壁がかすかに震えた。

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