表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/11

第5話 雨戸の向こう


 雨戸の向こうから、低い唸り声が響いた。


 獣の声だった。


 犬に似ている。


 けれど、犬ではない。


 もっと低く、濁っていて、腹の底を爪で引っかかれるような音だった。


 リビングの空気が凍りつく。


 父さんは懐中電灯を握ったまま、窓の前で動けなくなっていた。


 母さんは救急箱を抱えたまま、彩乃は布団の上で膝を立てた姿勢のまま、誰も声を出せない。


 ガリッ。


 また、雨戸の表面を何かが引っかいた。


 金属が嫌な音を立てる。


 俺は寝袋から身体を起こそうとした。


「悠真、動かないで」


 母さんが小声で制した。


「熱があるんだから」


「そんなこと言ってる場合じゃない」


 立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れた。


 床が傾いたように感じて、片手をつく。


 頭が重い。


 体が熱い。


 左腕だけが、心臓とは別の生き物みたいに脈打っていた。


 包帯の下が焼けるように痛い。


 でも、それ以上に。


 分かる。


 雨戸の向こうにいるものが、何なのか。


 姿は見えない。


 窓は閉まっている。


 雨戸も下りている。


 それなのに、頭の奥にぼんやりと像が浮かぶ。


 小型の獣。


 体長は一メートル弱。


 痩せている。


 興奮している。


 空腹。


 敵意。


 危険度――。


「……危険度?」


 俺は自分で呟いた言葉に戸惑った。


 何だ、それ。


 誰かが教えてくれたわけじゃない。


 ラジオで聞いた言葉でもない。


 でも、頭の中に自然と浮かんだ。


 まるで目の前の物を見て「椅子」だと分かるように。


 雨戸の向こうの獣が、危険だと分かる。


 いや、危険だというだけではない。


 少しだけ、情報が見える。


 そんな感覚だった。


「悠真?」


 彩乃が不安そうに俺を見る。


「何か……いる」


「それは分かってる」


「違う。何となく分かるんだ。小さい。たぶん犬くらい。でも普通じゃない」


 父さんが顔を強張らせる。


「昨日の犬と同じか?」


「分からない。でも近い」


 ガンッ。


 今度は雨戸が強く揺れた。


 母さんが小さく息を呑む。


 獣は外から体当たりしている。


 一度。


 二度。


 雨戸は耐えているが、古い住宅の雨戸だ。何度も繰り返されれば分からない。


 彩乃が立ち上がった。


「私が行く」


「駄目だ」


 俺は即座に言った。


「何で」


「相手は人間じゃない」


「だから何? 家に入ってきたら戦うしかないでしょ」


「素手で近づくな。噛まれたら終わりだ」


 俺の左腕が、ずきりと痛んだ。


 彩乃の視線がそこへ落ちる。


 何も言い返せなくなった。


 父さんが低い声で言う。


「まずは、入れないことを考えよう」


 その声は震えていた。


 けれど、父さんは逃げていなかった。


「悠真、どうすればいい」


 父さんが俺に聞いた。


 一瞬、戸惑った。


 俺に聞くのか。


 父さんが。


 でも、今は考えるしかない。


 雨戸。


 掃き出し窓。


 リビングの家具。


 物置から出した木材。


 結束バンド。


 ガムテープ。


 ロープ。


「窓の前に重い家具を置く。雨戸が破られても、すぐには入れないようにする」


「分かった」


「彩乃、テーブル動かせるか?」


「余裕」


 彩乃はすぐに動いた。


 さっきまで震えていたとは思えないほど素早い。


 リビングのローテーブルを持ち上げ、掃き出し窓の前へ運ぶ。


 父さんは本棚の下段から本を抜き、棚自体をずらそうとした。


「重っ……」


「父さん、下を持って。引きずればいい」


「ああ」


 母さんは俺の肩を支えようとしたが、俺は首を振った。


「母さんは救急箱と水を。もし誰か怪我したらすぐ使えるように」


「……分かった」


 家族が動く。


 ばらばらではなく、一つの目的のために。


 雨戸の向こうで獣が唸る。


 ガリガリと爪を立てる。


 それに合わせるように、俺の頭の奥で妙な感覚が強くなる。


 敵意。


 空腹。


 興奮。


 知能は低い。


 狙いは、光。


 音。


 匂い。


「ランタン、消して」


 俺は言った。


「え?」


「光に反応してるかもしれない。外に漏れてる」


 父さんがすぐにランタンの明かりを落とした。


 リビングが一気に暗くなる。


 懐中電灯の光も床へ向ける。


 全員が息を殺した。


 ガリッ。


 ガリ。


 雨戸を引っかく音が、少し弱くなった。


 獣の唸り声も低くなる。


 やっぱり。


 光か、音か、匂いか。


 何かに反応していた。


「……少し静かになった」


 彩乃が囁く。


「声を出すな」


 俺も小声で返す。


 そのまま数十秒。


 いや、数分だったかもしれない。


 時間の感覚が歪む。


 外では獣が雨戸の前をうろついている気配がした。


 爪がコンクリートを擦る音。


 鼻を鳴らす音。


 植木鉢が倒れる音。


 やがて、音は少しずつ遠ざかっていった。


 庭の砂利を踏む音。


 フェンスのあたりで何かが軋む音。


 そして――。


 ガシャン。


 何かが倒れた音の後、気配が消えた。


 誰もすぐには動かなかった。


 父さんが小さく息を吐く。


「……行ったか?」


「たぶん」


 俺はそう答えた。


 だが、確信はない。


 ただ、頭の中に浮かんでいた敵意のようなものが薄れていた。


 それだけだ。


     ◇


 十分ほど待ってから、父さんが二階へ上がった。


 直接外を見るのは危険だ。


 雨戸の隙間から覗くのも危ない。


 だから二階の窓から庭を確認することにした。


 俺も行こうとしたが、母さんに止められた。


「あなたは座っていなさい」


「でも」


「今倒れたら、もっと困る」


 反論できなかった。


 身体は確かに重い。


 額には汗が滲み、背中は寒い。


 彩乃が階段の下から父さんを見上げている。


「どう?」


 二階から父さんの声がした。


「暗くてよく見えん。だが、庭の鉢が倒れてる。フェンスの下が少し曲がってるな」


「まだいる?」


「見える範囲にはいない」


 彩乃が息を吐く。


 母さんは俺の額に手を当てた。


「熱い」


「大丈夫」


「それは禁止。今日から『大丈夫』は禁止」


「横暴だな」


「患者が言う大丈夫ほど信用できないの」


 母さんの声は厳しいが、その手は震えていた。


 俺はそれに気づいてしまった。


 母さんは看護師だ。


 怪我人も、急変する患者も、何度も見ているはずだ。


 でも、家族は別なのだと思う。


「ごめん」


「謝らなくていいから、寝て」


「分かった」


 俺は寝袋に戻った。


 しかし、眠れるはずがなかった。


 頭の中に、さっきの感覚が残っている。


 敵意。


 空腹。


 危険度。


 小型獣。


 まるで何かを読み取ったような感覚。


 あれは何だ。


 熱のせいか。


 傷のせいか。


 それとも、昨日の犬にかすられたせいなのか。


 包帯の下で、左腕が疼く。


 熱と痛みの奥に、別の何かが混じっている気がした。


 不気味なのに、どこか冷静な感覚。


 知る。


 見る。


 分かる。


 俺は目を閉じた。


 暗闇の中に、赤い目が浮かんだ。


     ◇


 夜明け前。


 結局、家族全員がほとんど眠れなかった。


 父さんは窓際に座ったまま、何度も外を確認した。


 母さんは俺の体温を測り、傷口を見て、ラジオを確認した。


 彩乃は膝を抱えたまま、時々眠りかけては外の音に反応して目を覚ました。


 俺は熱でぼんやりしながら、それでも意識だけは妙に冴えていた。


 外で鳥が鳴き始めた頃、ようやくリビングに薄い光が入ってきた。


 朝だ。


 電気は戻っていない。


 スマホも繋がらない。


 水道は、まだ出るか分からない。


 父さんがゆっくり立ち上がった。


「庭を確認する」


「私も行く」


 彩乃が即座に言った。


「駄目だ」


「昨日の何かがまだいたら、お父さん一人じゃ危ないでしょ」


「俺も行く」


 俺が言うと、母さんが睨んだ。


「あなたは駄目」


「でも――」


「熱が三十八度ある人間を外に出すわけないでしょう」


 昨日より少し下がったとはいえ、まだ高い。


 身体も重い。


 自分でも分かっている。


 父さんは少し考えてから言った。


「彩乃、玄関までだ。俺が先に見る。危ないと思ったらすぐ戻る」


「分かった」


 彩乃は不満そうだったが、頷いた。


 父さんは物置から出しておいた園芸用の支柱を一本持った。


 武器というには頼りない。


 それでも、手ぶらよりはいい。


 彩乃は空手部のジャージに着替えていた。


 素足ではなく、しっかり靴を履いている。


 その姿を見ると、家の中で虫に怯えていた妹とは別人に見えた。


 玄関の鍵を開ける音がする。


 扉がゆっくり開く。


 朝の空気が流れ込んできた。


 いつもなら爽やかなはずの空気が、今日は妙に生臭い。


「……何、この匂い」


 彩乃が鼻を押さえる。


 俺もリビングから身を乗り出した。


 血の匂い。


 土の匂い。


 獣の匂い。


 混ざっている。


 父さんが庭へ回る。


 俺は窓の内側から、閉めた雨戸の隙間を少しだけ開けて外を見た。


 母さんが「駄目」と言いかけたが、俺は首を振る。


 少しだけ。


 外を見た瞬間、息が止まった。


 庭は荒らされていた。


 植木鉢が倒れ、土が散らばっている。


 家庭菜園の小さな畝が掘り返されていた。


 フェンスの下には、毛の塊のようなものが引っかかっている。


 黒灰色の毛。


 昨日の犬に似ている。


 だが、それだけではなかった。


 雨戸の表面。


 そこには爪痕が残っていた。


 浅い傷ではない。


 金属の表面が、何本もえぐられている。


 普通の犬の爪で、こんな跡がつくのか。


 答えは考えるまでもなかった。


「悠真、見るな」


 父さんが庭から言った。


 でも遅かった。


 俺は見てしまった。


 庭の隅。


 物置の陰。


 そこに、小さな死骸があった。


 猫だった。


 近所でよく見かける三毛猫。


 彩乃が「ミケ」と勝手に呼んでいた野良猫だ。


 腹が裂かれ、血が土に染みている。


 喰われている。


 ただ殺されたのではない。


 食べられていた。


「……っ」


 彩乃がそれを見て、口元を押さえた。


 顔が真っ青になる。


「見なくていい!」


 父さんが強く言った。


 彩乃は後ずさり、玄関の壁に手をつく。


「ミケ……」


 震える声だった。


 空手の試合では何人もの相手と戦ってきた妹が、今はただの女子高生の顔をしていた。


 俺は拳を握った。


 熱で力が入らない。


 それでも、怒りとも恐怖ともつかない感情が腹の底に沈んでいく。


 昨日までここは、ただの庭だった。


 母さんが家庭菜園をして、彩乃が虫を見つけて騒いで、俺がクロスバイクの整備をする場所だった。


 その庭に、喰われた猫の死骸がある。


 世界が家の中まで入り込んできた。


 そう感じた。


     ◇


 父さんは猫の死骸に直接触れず、スコップで庭の隅へ移した。


 母さんが使い捨て手袋とマスクを渡す。


 感染症が怖い。


 何に感染するのか分からないことが、さらに怖い。


「庭の土も触らない方がいいわ」


 母さんが言う。


「血が混じってる。何か分からない」


「埋める?」


 父さんが聞く。


 母さんは少し迷ってから頷いた。


「深く。できれば石灰があればいいけど」


「園芸用の消石灰なら物置にあったかも」


 俺が言うと、父さんが物置を確認した。


 あった。


 家庭菜園用に買っていたものだ。


 こんな形で使うことになるとは思わなかった。


 父さんは庭の隅に穴を掘り、猫の死骸を埋めた。


 彩乃は玄関の内側で黙って見ていた。


 泣いてはいない。


 でも、唇を強く噛んでいた。


 俺は何も言えなかった。


 慰める言葉が浮かばなかった。


 大丈夫。


 そんな言葉は、もう使えなかった。


     ◇


 朝食の時、誰もほとんど喋らなかった。


 昨夜の残りの炒め物と、冷蔵庫の卵を使った簡単な料理。


 ガスはまだ使える。


 水道も細いが出た。


 それだけで助かっている。


 だが、食卓の空気は重かった。


 彩乃は箸を持ったまま、ほとんど食べていない。


「食べろ」


 俺が言うと、彩乃は小さく睨んできた。


「分かってる」


「食べないと動けない」


「分かってるって」


 声が少し荒くなる。


 でも、その手は震えていた。


 母さんが優しく言う。


「無理に全部食べなくていい。でも少しは食べなさい」


「……うん」


 彩乃は卵を一口食べた。


 それだけで、母さんは少し安心したようだった。


 父さんはノートを開いていた。


 昨日作った物資リスト。


 そこに新しい項目が増えている。


『防犯』

『外敵』

『夜間行動禁止』


 父さんの字は、少し震えていた。


「今日から、夜は雨戸を全部閉める。庭には出ない。ゴミも外に出さない。食べ物の匂いが漏れないようにする」


「ゴミ?」


 彩乃が聞く。


「動物は匂いで来るかもしれない」


 俺が答える。


「昨日のやつ、光にも反応してた気がする。音と匂いもたぶん」


「何で分かるの?」


 彩乃の問いに、俺はすぐ答えられなかった。


 何で分かるのか。


 俺にも分からない。


 ただ、分かった。


 そう言うしかない。


「昨日、雨戸の向こうにいる時……何となく」


「何となく?」


「危険だとか、興奮してるとか、腹が減ってるとか、そういうのが頭に浮かんだ」


 リビングが静かになる。


 父さんも、母さんも、彩乃も、俺を見ている。


 自分で言っていて、馬鹿みたいだと思った。


 熱でうなされた幻覚。


 犬に襲われた恐怖。


 そう説明する方が自然だ。


 でも、あれは幻覚ではなかった。


「熱のせいかもしれない」


 俺は先にそう言った。


 逃げ道を作るように。


 母さんは俺の額に手を当てた。


「まだ熱はある。でも、意識ははっきりしているわね」


「お兄ちゃん、昨日から変だよ」


 彩乃が不安そうに言う。


「変って何だよ」


「何か……妙に落ち着いてる時がある。怖いのに、怖がってるだけじゃないっていうか」


「そう見える?」


「うん」


 自分では分からない。


 怖い。


 今も怖い。


 でも、雨戸の向こうの獣について考える時だけ、頭のどこかが冷たくなる。


 情報として見ようとする。


 種類。


 状態。


 危険度。


 弱点。


 そんな言葉が浮かぶ。


 まるで、何かを鑑定しているように。


「鑑定……」


 無意識に呟いていた。


 父さんが聞き返す。


「鑑定?」


「いや、ゲームとかでよくあるやつ。物の情報を見るスキルみたいな」


 彩乃が顔をしかめる。


「こんな時にゲーム?」


「違う。例えだよ」


 でも、自分で言って妙にしっくりきた。


 鑑定。


 見るだけで、相手の情報が分かる。


 もちろん、現実にそんなものがあるはずがない。


 昨日までの世界なら。


 でも、昨日までの世界では、赤い目の犬も、雨戸をえぐる獣も存在しなかった。


 なら、今はどうなのか。


 その答えは、誰にも分からなかった。


     ◇


 午前中、俺は熱のせいでリビングに寝かされていた。


 動きたい。


 やることは山ほどある。


 雨戸の補強。


 物資の整理。


 美咲の家への確認。


 ホームセンターの状況。


 町の様子。


 でも、母さんに「寝ていなさい」と言われたら逆らえない。


 父さんと彩乃は、庭側の窓の内側に家具と木材を置いて簡易的なバリケードを作っていた。


 不格好だった。


 ガムテープと結束バンドで無理やり固定しているだけ。


 それでも、ないよりはいい。


 父さんは汗だくになりながら作業している。


「こういうの、難しいな」


「父さん、不器用すぎ」


「うるさい。分かってる」


「そこ、斜め」


「分かってると言ってるだろ」


 彩乃が手伝いながら文句を言う。


 そのやり取りに、少しだけ日常が戻る。


 だが、窓の向こうに残る爪痕が、それをすぐに現実へ引き戻した。


 母さんは台所で水の管理をしていた。


 容器ごとに「飲用」「調理用」「生活用」と紙を貼っている。


 父さんのノートも、だんだん細かくなっていく。


 物資。


 防衛。


 連絡先。


 近所の状況。


 父さんは本当に、紙と記録に強かった。


 俺は寝袋の中からそれを見ていた。


 何もできないことがもどかしい。


 でも、同時に少し安心していた。


 俺が動けなくても、家族は動ける。


 それは大事なことだった。


     ◇


 昼前。


 ラジオから新しい情報が入った。


『――一部自治体では、避難所の開設が始まっています。ただし、停電および通信障害の影響により、受け入れ状況は地域によって異なります』


 父さんがラジオの音量を上げる。


『不要不急の外出を控えるよう呼びかける一方、食料や水、医薬品が不足している場合は、最寄りの避難所や自治体窓口へ――』


 ザザッ。


 雑音。


 音声が乱れる。


 しばらくして別のニュースが入る。


『――昨夜から今朝にかけて、関東地方各地で小型動物による住宅侵入や家畜被害が報告されています。専門家は、停電による環境変化や発光現象との関連は不明としつつ、野生動物には近づかないよう――』


「住宅侵入……」


 母さんが呟く。


 うちだけではない。


 あの獣は、この町のあちこちに出ている。


 あるいは、関東中に。


 父さんが腕を組む。


「避難所、どう思う」


「行かない方がいい」


 俺は即答した。


 全員の視線がこちらに向く。


「理由は?」


 父さんが聞く。


「人が集まりすぎる。物資も限られる。停電してるなら衛生状態も悪くなる。昨日の犬みたいなのが出てるなら、学校の体育館とかは守りにくい」


「でも、情報は集まるかもしれない」


「それはある。でも今は家に水と食料がある。母さんの医療品もある。ここを捨てて行く理由はまだないと思う」


 父さんはしばらく考えた。


 それから頷く。


「俺も同意見だ」


 父さんが俺の意見に頷いた。


 それが少しだけ意外だった。


「ただし、情報は必要だ。明るいうちに、誰かが近くの避難所か自治会館の様子を見に行った方がいい」


「俺が行く」


「駄目」


 母さんと彩乃が同時に言った。


 俺は口を閉じる。


 父さんが苦笑した。


「今日は俺が行く。彩乃、ついてくるか?」


「行く」


「危険があったらすぐ戻る。戦おうとするな」


「分かってる」


「本当に分かってるか?」


「分かってるってば」


 彩乃は少しむっとしたが、真剣だった。


 母さんは不安そうに二人を見る。


「無理はしないで」


「ああ。近所を少し見るだけだ」


 父さんはそう言った。


 けれど、その「少し見るだけ」が、もう昨日までの散歩とは違うことを全員が理解していた。


     ◇


 父さんと彩乃が出ている間、俺と母さんは家に残った。


 母さんは何度も俺の体温を測った。


 三十七度九分。


 少し下がっている。


 ただ、左腕の痛みは変わらない。


 むしろ、痛みの質が変わっていた。


 傷が痛むというより、腕の奥に熱いものが流れているような感覚。


 血管の中を、別の何かが巡っている。


 俺は包帯をそっとずらした。


 赤みはまだある。


 腫れもある。


 その中に、薄い紫色の線が見えた。


 一瞬だけ。


 瞬きをすると消える。


「……母さん」


「何?」


「この傷、変な色してない?」


 母さんが近づき、傷を見る。


 真剣な目。


「赤みはある。紫っぽい内出血も少し。でも、異常な色というほどでは……」


「そうか」


 母さんには見えていない。


 俺だけに見えているのか。


 それとも、熱のせいなのか。


「何か見えるの?」


 母さんが聞いた。


 俺は少し迷った。


 馬鹿なことを言っていると思われるかもしれない。


 でも、この状況で隠す意味はない。


「紫色の線みたいなのが、たまに見える。血管みたいに」


 母さんの表情が強張った。


「痛みは?」


「痛い。でも、普通の痛みじゃない気がする」


「しびれは?」


「少し」


「意識は?」


「はっきりしてる」


 母さんは深呼吸した。


「本当なら病院へ連れて行きたい」


「うん」


「でも今は危険すぎる」


「分かってる」


 母さんは俺の手を握った。


 その手は温かかった。


「何かあったら、すぐ言いなさい。どんな小さな変化でも」


「分かった」


「怖い?」


 突然そう聞かれて、俺は少し黙った。


 怖い。


 もちろん怖い。


 でも、怖いと言ったら母さんがもっと不安になる気がした。


 だから一瞬迷った。


 すると母さんは、少しだけ悲しそうに笑った。


「怖い時は怖いって言っていいのよ」


 その言葉で、胸の奥が緩んだ。


「……怖い」


「うん」


「でも、何もしない方がもっと怖い」


「うん」


 母さんはそれ以上何も言わなかった。


 ただ、俺の手を握っていた。


     ◇


 父さんと彩乃が帰ってきたのは、一時間ほど後だった。


 二人とも無事だった。


 だが、表情は暗い。


「どうだった?」


 俺が聞くと、父さんは玄関で靴を脱ぎながら言った。


「自治会館に人が集まってた。避難所というより、情報交換の場だな」


「何か分かった?」


「電気はまだ復旧見込みなし。水道は地域によって弱くなってる。スーパーは昼で閉めた。駅前はかなり混乱してるらしい」


 彩乃が続ける。


「あと、動物の被害。うちだけじゃなかった」


「どのくらい?」


「近所の犬が襲われたって。庭の鶏を飼ってる家もやられたらしい。あと……人も噛まれたって」


 母さんが息を呑む。


「人も?」


「うん。夜に外へ出た人が、何かに足を噛まれたって。病院へ行こうとしたけど、救急車が来ないから家族が車で運んだって」


 父さんが重く頷く。


「警察も来たらしいが、人手が足りてない。『夜間の外出は控えてください』としか言えないみたいだ」


 俺は唇を噛んだ。


 夜間の外出を控える。


 それは正しい。


 でも、獣が家まで来るなら、外へ出なければ安全とは言えない。


「それと」


 父さんが言いにくそうに続けた。


「一部で、盗難も出てるらしい」


「盗難?」


「水や食料だ。外に置いていたポリタンクが盗まれた家がある。車庫のガソリン携行缶もなくなったと」


 彩乃が拳を握る。


「こんな時に?」


「こんな時だからだろう」


 父さんの声は苦かった。


 魔物だけじゃない。


 獣だけじゃない。


 人間も、少しずつ変わり始めている。


 俺は昨日ホームセンターで見た客の怒鳴り声を思い出した。


 水をもっと寄越せと叫んでいた男。


 誰も止めず、ただ沈黙していた列。


 秩序はまだある。


 でも、薄くなっている。


 紙のように。


 濡れればすぐ破れる紙のように。


     ◇


 その日の夕方、俺たちは家の防衛をもう一段強めることにした。


 玄関には内側から家具を寄せる。


 勝手口には木材を噛ませる。


 庭側の窓には、ローテーブルと本棚、木材を重ねて置く。


 食料や水は外から見えない場所へ移動。


 ランタンの明かりは夜になったら極力弱くする。


 ゴミは密閉。


 生ゴミは二重に袋へ入れ、匂いを漏らさない。


 父さんはノートに、見張りの時間を書いた。


 母さんは反対したが、最終的には折れた。


 全員が眠るのは危険だ。


 昨日のような獣が来るかもしれない。


 あるいは、人が来るかもしれない。


 俺は熱があるので見張りから外された。


 不満だったが、母さんの視線に負けた。


「お兄ちゃんは寝て。今は邪魔」


 彩乃にまで言われた。


「邪魔って」


「倒れたら邪魔でしょ」


「言い方」


「でも本当」


 彩乃はそう言って、少しだけ笑った。


 その笑顔は強がりだった。


 でも、強がれるだけましだった。


     ◇


 夜。


 町は昨日よりさらに暗かった。


 停電に慣れたせいか、家々の明かりは少ない。


 カーテンの隙間から漏れるランタンや懐中電灯の光も、皆が警戒しているのか弱くなっている。


 遠くで時折、犬のような声が聞こえる。


 そして、もっと遠くで人の怒鳴り声も聞こえた。


 俺は寝袋の中で、左腕を押さえていた。


 熱は三十七度台まで下がった。


 少し楽になったはずなのに、頭の奥は妙に冴えている。


 雨戸の向こうの音。


 外を歩く何かの気配。


 家族の呼吸。


 ラジオの雑音。


 全部がいつもより鮮明に聞こえる気がした。


 父さんが一番目の見張り。


 彩乃が二番目。


 母さんが三番目。


 俺は寝るように言われた。


 でも、眠れない。


 目を閉じると、情報の断片が浮かぶ。


 木材。


 強度不足。


 雨戸。


 損傷あり。


 玄関。


 侵入困難。


 勝手口。


 脆弱。


 まるで、家そのものを頭の中で点検しているようだった。


 俺は目を開けた。


 暗いリビング。


 ぼんやりとしたランタンの光。


 その中で、父さんがノートを見ている。


 ノートの表紙が視界に入った瞬間、また頭の奥に何かが浮かんだ。


 紙。


 可燃。


 記録媒体。


 重要度――低。


「……何だよ、これ」


 小さく呟く。


 物を見ると、情報が浮かぶ。


 まだ断片的だ。


 意味のあるものと、ないものが混ざっている。


 でも、確かに見える。


 これは熱のせいではない。


 少なくとも、ただの熱ではない。


 その時。


 ラジオが突然、大きな雑音を発した。


 ザザザザッ。


 父さんが驚いてラジオを見る。


 俺も身体を起こした。


 雑音の向こうで、かすかに声が聞こえる。


『――繰り返します。現在、関東地方の複数地点で、原因不明の大型動物の目撃情報が――』


 大型動物。


 その言葉に、全身が強張る。


『――目撃された個体は、既存の野生動物とは特徴が異なる可能性があり――』


 ザザッ。


『――絶対に近づかず、屋内に――』


 音声が途切れる。


 父さんがラジオを叩く。


「おい、続きは?」


 雑音だけが流れる。


 その直後。


 遠くで、何かが吠えた。


 昨日の小型獣とは違う。


 犬でもない。


 熊でもない。


 もっと大きい。


 空気そのものを震わせるような咆哮。


 窓ガラスが、かすかに震えた。


 父さんが立ち上がる。


 母さんも彩乃も目を覚ました。


 俺の左腕が熱を持つ。


 頭の奥に、言葉が浮かぶ。


 大型獣。


 魔素濃度、高。


 危険度――D。


 俺は息を呑んだ。


 魔素。


 今、確かにその言葉が浮かんだ。


 誰かに教えられたわけでもない。


 でも、分かってしまった。


 外にいるものは、ただの動物じゃない。


 この世界に流れ込み始めた何かに、変えられた獣だ。


 俺はかすれた声で言った。


「……あれは、昨日のやつより危ない」


 誰も笑わなかった。


 誰も否定しなかった。


 ただ、暗い家の中で、家族全員が息を殺していた。


 外では、もう一度、遠い咆哮が響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ