第4話 備える家
世界はもう、昨日までの世界ではなかった。
そう思った瞬間から、家の中の見え方まで変わった。
リビングの窓。
玄関の鍵。
勝手口。
庭に面した掃き出し窓。
二階のベランダ。
普段ならただの家の一部だったものが、急に「侵入口」に見え始める。
昨日までなら、鍵を閉め忘れたところで「不用心だな」で済んだ。
けれど今は違う。
外には、普通ではない犬がいる。
人を襲い、殴られてもなかなか止まらず、目を赤く光らせるような何かがいる。
そして、それだけではない。
電気は戻らない。
通信も不安定。
物流も止まり始めている。
スーパーでは人が殴り合い、ホームセンターでは棚が空になり、救急車はなかなか来ない。
それでも、窓の外の住宅街は一見すると静かだった。
夕暮れの空に紫色の光が薄く滲み、停電した家々の屋根を不気味に照らしている。
蝉の声だけが、いつも通りうるさかった。
「悠真」
母さんの声で、俺は我に返った。
リビングのテーブルには、手回しラジオ、懐中電灯、乾電池、水の入ったペットボトル、缶詰、レトルト食品、救急箱が並んでいる。
今までは買ってきた物をとりあえず置いていただけだった。
でも、もうそれでは駄目だ。
何がどこにあるか。
どれだけあるか。
何日持つか。
考えなければいけない。
「顔色悪いわよ」
「少し疲れただけ」
「腕は?」
「痛むけど、大丈夫」
「大丈夫かどうかは私が見るって言ったでしょう」
母さんは俺の返事を待たずに、包帯の上からそっと触れた。
その指が一瞬止まる。
「……熱いわね」
「夏だから」
「傷の周りが熱いの」
母さんの声が少し低くなる。
看護師の顔だ。
俺は反射的に笑おうとした。
「大げさだよ。かすっただけだし」
「動物に噛まれた傷は浅く見えても危ないの。牙や爪で傷口に菌が入ることもある。普通なら病院へ行くべきよ」
「今の病院に?」
言ってから、少しきつい言い方だったと気づいた。
母さんは何も言わなかった。
今日の病院がどれだけ混乱していたか、母さん自身が一番分かっている。
電子カルテが使えない。
救急が増えている。
通信が繋がらない。
非常用電源にも限界がある。
そこへ、犬にかすられた程度の俺が行っても、すぐ診てもらえるか分からない。
「ごめん」
「いいの。あなたの言う通り、今の病院に行くのも危険かもしれない」
母さんは救急箱から体温計を取り出した。
「でも、家でできる確認はする。熱を測って」
「分かった」
体温計を脇に挟む。
ピピッという音を待つ間、リビングは妙に静かだった。
父さんはラジオの前で腕を組んでいる。
彩乃はスマホを何度も確認しているが、もうほとんど繋がらないらしい。
画面を見てはため息をつき、また画面を消す。
ピピッ。
体温計を取り出す。
表示は、三十七度四分。
「微熱ね」
母さんが言う。
「この暑さと疲れのせいかもしれないけど、今夜は様子を見るわ」
「分かった」
「無理に動かないこと」
「でも、やることがある」
「悠真」
母さんの声に、俺は言葉を止めた。
優しい声ではなかった。
けれど怒っているわけでもない。
心配している声だった。
「あなたが倒れたら困るの。分かる?」
「……分かってる」
分かっている。
でも、何もしないでいる方が怖かった。
◇
父さんが口を開いた。
「とりあえず、家の中の物を確認しよう」
その言葉に、俺は少し驚いた。
父さんからそう言い出すとは思わなかった。
「食料と水、電池、薬。何がどれだけあるか書き出す。会社でも、トラブルの時はまず現状確認だ」
父さんはテーブルにノートとボールペンを置いた。
通信が死にかけている今、また紙だった。
でも、父さんの言う通りだった。
頭の中で考えているだけでは混乱する。
見える形にする必要がある。
「俺、手伝う」
「お前は座ってろ」
「でも」
「指示は出していい。動くのは俺と彩乃でやる」
彩乃が顔を上げる。
「私も?」
「当たり前だろ。家族なんだから」
「……分かった」
彩乃は少し不満そうだったが、立ち上がった。
父さんはノートの一ページ目に大きく書いた。
『水』
『食料』
『燃料』
『照明』
『医療』
『衛生』
『工具・資材』
思ったより整理されている。
俺が驚いていると、父さんは苦笑した。
「何だ、その顔」
「いや、父さんってこういうの苦手かと思ってた」
「サバイバルは苦手だが、棚卸しとリスト作りは仕事で散々やってる」
「なるほど」
父さんはアウトドアも工具も苦手だ。
虫も嫌いだし、キャンプよりホテル派だ。
でも、会社員として長年働いてきた経験はある。
会議。
調整。
記録。
確認。
普段は地味で、家ではあまり見えない力。
でも今は、それが必要だった。
父さんは彩乃に言う。
「彩乃、台所の食品を全部確認してくれ。賞味期限が近いものと、常温保存できるものを分ける」
「え、賞味期限まで?」
「大事だ。母さん、薬と衛生用品をお願いできるか」
「分かったわ」
「悠真は、水と燃料、あとキャンプ道具を教えてくれ」
「了解」
自然と、家族の役割が決まっていく。
誰かが命令したわけではない。
でも、動かなければいけないと全員が感じていた。
◇
まず、水。
浴槽に満杯。
ポリタンク二つ。
ペットボトルの水が二リットル六本。
昨日と今日で買い足した分が少し。
鍋、やかん、水筒、保存容器にも水を入れてある。
父さんがノートに数字を書き込む。
「飲み水としては、どれくらい持つ?」
「一人一日二リットルとして、四人で八リットル。飲むだけなら数日は大丈夫。でも料理や手洗い、トイレを考えると全然足りない」
「トイレか……」
父さんが顔をしかめる。
普段は考えない。
でも、水が止まれば一番困るものの一つだ。
「風呂の水はトイレ用に回せる。飲み水はペットボトル優先。ポリタンクはなるべく飲用に残したい」
「分かった」
次に食料。
米は十キロ弱。
母さんが普段から少し多めに買っていたらしい。
缶詰は十数個。
レトルト食品。
乾麺。
パスタ。
カップ麺。
冷蔵庫には肉、魚、野菜、卵、牛乳。
ただし、停電が続けば冷蔵品は早めに消費しなければならない。
「冷凍庫は?」
俺が聞くと、母さんが答える。
「なるべく開けてないわ。まだ少しは持つと思う。でも明日も停電なら、冷凍肉は調理した方がいい」
「じゃあ今日と明日は冷蔵庫のもの優先だな」
「保存食はなるべく後回しね」
彩乃が食品を並べながら、ぽつりと言う。
「こういうの、テレビで見る災害のやつみたい」
「災害だよ」
俺が言うと、彩乃は少し黙った。
「……だよね」
その声には、ようやく現実を認め始めたような響きがあった。
◇
燃料と照明。
カセットガスは六本。
キャンプ用の小型ガス缶が二つ。
ライターが数個。
固形燃料が少し。
LEDランタンが二つ。
懐中電灯が三つ。
乾電池。
モバイルバッテリー。
手回しラジオ。
ソーラー充電器は、安物だが一つだけ持っていた。
「それ、使えるのか?」
父さんがソーラー充電器を見て聞く。
「晴れてれば少しは。スマホを満充電にするには時間かかるけど、ないよりはまし」
「本当に色々持ってるな」
「キャンプ用だから」
彩乃が横から言う。
「兄ちゃんの趣味、初めて役に立ってる」
「初めては余計だ」
「でも本当に助かってると思う」
その言葉が、思ったより素直だったので、俺は少し反応に困った。
「……まあ、使わないで済む方がよかったけどな」
「それはそう」
医療品は、母さんが中心になって確認した。
包帯。
ガーゼ。
消毒液。
絆創膏。
解熱鎮痛薬。
胃腸薬。
風邪薬。
湿布。
体温計。
使い捨て手袋。
マスク。
アルコール。
母さんはそれらを一つずつ確認し、使用期限も見ていく。
「薬は思ったよりあるわ。でも抗生物質はない。処方薬だから当然だけど」
「犬に噛まれた時って、抗生物質いる?」
「本来は医師の判断ね。傷の状態によっては必要になることがある」
母さんの視線が俺の腕に向いた。
包帯の下が、またじんじんと痛む。
「俺のはかすっただけだから」
「だから様子を見るの」
母さんはそう言って、医療品を箱にまとめた。
◇
日が落ちる前に、家の外回りも確認することになった。
俺は止められたが、座って指示だけ出すという条件で玄関先までは許された。
父さんが玄関の鍵を確認する。
古いタイプの鍵だが、二重ロックにはなっている。
勝手口は少し心もとない。
庭側の掃き出し窓は大きく、ガラスを割られれば簡単に入られる。
「ここが弱いな」
俺が言うと、父さんも頷いた。
「雨戸は閉められる」
「夜は全部閉めた方がいい。暗いし、中の明かりが外に漏れると目立つ」
「目立つって、誰に?」
彩乃が聞く。
俺は一瞬言葉に詰まった。
誰に。
おかしな犬。
物資を求める人。
何か分からないもの。
「……分からない。でも、目立たない方がいい」
彩乃は何か言いたげだったが、結局頷いた。
庭には物置がある。
中には古い工具、脚立、園芸用品、父さんが昔買って使わなくなった高圧洗浄機、母さんの家庭菜園用の支柱やネットが入っていた。
「この支柱とネット、使える」
「何に?」
「窓の内側に簡易的な柵を作れる。あと、庭に入られないように誘導もできるかも」
「そんなことまで考えるの?」
彩乃の声に、少しだけ怯えが混じる。
俺は首を横に振った。
「考えたくない。でも、考えない方が怖い」
ホームセンターで見た黒い犬を思い出す。
あの速度。
あの牙。
あの赤い目。
あれが夜に庭へ入ってきたら。
ガラス一枚で止まるとは思えなかった。
父さんが物置から木材の端材を出してくる。
「ガラスの内側に立てかけるくらいならできる。釘打ちは苦手だが、突っ張り棒みたいに固定するなら何とかなるか」
「ガムテープと結束バンドも使える。強度は低いけど、一時しのぎにはなる」
「分かった」
父さんは不器用な手つきで木材を運んだ。
俺はそれを見ながら、少し不思議な気持ちになった。
父さんは何もできない人だと思っていた。
少なくとも、アウトドアや工作に関しては。
でも今、父さんはできないなりに動いている。
上手くはない。
手際も悪い。
それでも、家族のために何かしようとしている。
それだけで、少し胸が熱くなった。
◇
夕飯は、冷蔵庫の肉と野菜を使った炒め物だった。
停電しているので、できるだけ傷みやすいものから食べる。
母さんの判断だ。
ガスはまだ使えた。
水も細いが出る。
暗いリビングで、ランタンの明かりを囲んで食事をする。
彩乃が箸を動かしながら言った。
「なんか、キャンプみたい」
「家の中だけどな」
「キャンプ嫌いだけど、これはちょっと分かる。明かりが一個しかないと、みんな近くにいる感じする」
「虫がいなければ?」
「虫がいなければ」
俺たちは少し笑った。
母さんも笑った。
父さんも口元を緩めた。
けれど、食事中もラジオはつけっぱなしだった。
雑音混じりの声が、途切れ途切れに情報を伝えている。
『――停電は現在も広範囲で続いており、復旧の見通しは地域によって異なります』
『――不要不急の外出を控え、生活用水の確保を』
『――一部地域で野生動物による被害が増加』
『――通信各社は復旧作業を』
同じような言葉の繰り返し。
具体的なことはほとんど分からない。
ただ、良くなっていないことだけは分かった。
「情報が少ないな」
父さんが呟く。
「テレビが見られないのが痛い」
「ラジオだけだと限界あるね」
「新聞も明日届くか分からん」
父さんの言葉に、俺はふと気づいた。
新聞。
いつも朝、当たり前のように届いていたもの。
あれも物流の一部だ。
配達する人がいて、印刷する工場があり、紙が運ばれ、燃料があり、道路が動いているから届く。
何か一つ止まれば、当たり前は消える。
当たり前というものが、想像以上に細い糸で繋がっていたことを、今さら思い知らされる。
◇
夕飯の後、俺は少し寒気を感じ始めた。
外は蒸し暑い。
エアコンも止まっていて、リビングにはじっとりとした熱がこもっている。
それなのに、背筋だけが薄く冷たい。
「悠真?」
美咲の声が聞こえた気がした。
違う。
彩乃の声だった。
「顔、赤くない?」
「そうか?」
「うん。なんかぼーっとしてる」
母さんがすぐに体温計を持ってきた。
「測って」
「また?」
「また」
逆らう気力もなく、体温計を挟む。
ピピッ。
三十八度一分。
母さんの表情が険しくなった。
「上がってる」
「疲れたんだと思う」
「傷も見せて」
包帯を外す。
左腕の傷は、浅いはずだった。
だが、赤みが広がっていた。
傷口の周囲が熱を持ち、わずかに腫れている。
それだけなら感染の可能性で説明できる。
だが、俺にはそれ以外のものが見えた気がした。
傷口の奥。
赤黒い線のようなものが、皮膚の下に薄く走っている。
一瞬だけ。
まるで紫色の光が血管に沿って滲んだように見えた。
「……今、光った?」
俺が呟くと、母さんが眉をひそめた。
「何が?」
「いや……何でもない」
彩乃が不安そうに俺の腕を覗き込む。
「やっぱ病院行った方がいいんじゃない?」
母さんはすぐには答えなかった。
病院へ行く。
正しい判断だ。
普通なら。
でも外は暗い。
停電している。
信号も消えている。
野生動物の異常行動が報道されている。
病院自体も混乱している。
母さんは唇を噛んだ。
「今夜は危険よ。朝まで様子を見る。熱がさらに上がる、意識がぼんやりする、傷が悪化するなら、明るくなったら病院へ行く」
「俺は大丈夫」
「大丈夫じゃない」
母さんの声が震えていた。
それを聞いて、俺は何も言えなくなった。
父さんが静かに言う。
「今夜は交代で起きよう」
「え?」
「悠真の様子を見るのと、外の警戒だ。何もないとは限らない」
父さんの顔は真剣だった。
昨日まで、停電しても会社へ行った父さん。
朝には戻ると言っていた父さん。
その父さんが、今は「警戒」という言葉を使っている。
それだけで、状況が一段進んだ気がした。
「俺が最初に起きる」
父さんが言う。
「次は私」
母さんが続ける。
「私も起きる」
彩乃が言った。
「お前は寝てろ。明日も動くかもしれない」
「嫌。私も家族なんだから」
父さんが彩乃を見る。
少し驚いたような顔をして、それから小さく頷いた。
「分かった。でも無理はするな」
「うん」
俺は寝袋に横になった。
体が熱い。
頭が重い。
でも背筋は寒い。
ランタンの光がぼやけて見える。
ラジオの雑音が遠く聞こえる。
左腕が、ずきずきと脈打つ。
その痛みが、心臓の鼓動と重なっていた。
◇
夜が深くなる。
家の外は静かだった。
静かすぎた。
停電した町には、エアコンの室外機の音も、店の看板の低い振動も、遠くの電車の音もない。
たまに車の音が通り過ぎる。
遠くで犬が吠える。
それだけ。
俺は眠っているのか、起きているのか分からない状態で、浅い呼吸を繰り返していた。
夢を見た。
紫色の空。
赤い目。
黒い犬。
血の匂い。
そして、誰かが遠くで囁いている。
言葉ではない。
でも、意味だけが胸の奥へ流れ込んでくる。
――見ろ。
――知れ。
――選べ。
「……っ」
目を開けた。
リビングは暗い。
ランタンの明かりは最低限まで絞られている。
父さんが窓際に座っていた。
手には懐中電灯。
その背中は、いつもより少し小さく見えた。
「父さん……?」
「起きたか」
「何かあった?」
「いや。今のところは何もない」
父さんはそう言った。
だが、その直後。
外から、ガサリ、という音がした。
庭の方だ。
父さんが動きを止める。
俺も息を止めた。
ガサ。
ガサガサ。
庭の植え込みが揺れる音。
風はない。
何かがいる。
父さんは懐中電灯を握り直した。
「母さんを起こすな」
小さな声だった。
でも、母さんはすでに起きていた。
彩乃も布団から上半身を起こしている。
全員が、その音を聞いていた。
ガリッ。
今度は、何か硬いものを引っかく音。
掃き出し窓の雨戸。
その外側で。
何かが、爪を立てていた。
俺の左腕が、焼けるように痛んだ。
同時に、頭の奥で何かが弾けた。
暗闇の向こうにいるものの姿が、見えた気がした。
目ではない。
けれど、分かった。
小型獣。
興奮状態。
飢餓。
敵意。
危険度――。
「……危ない」
俺は、かすれた声で呟いた。
その瞬間。
雨戸の向こうから、低い唸り声が響いた。




