第7話 音に集まるもの
外で、もう一度咆哮が上がった。
今度は、家の壁がかすかに震えた。
リビングに置いた食器が、小さく鳴る。
カタ、と乾いた音。
それだけで、全員の肩が跳ねた。
父さんは雨戸の前で動きを止めたまま、ゆっくりと後ずさる。
母さんは口元を押さえ、彩乃は拳を握り締めていた。
俺は左腕を押さえたまま、耳を澄ませる。
遠くで鳴り続けている車のクラクション。
盗難防止装置の警報音。
誰かの悲鳴。
怒鳴り声。
そして、それらの音に引き寄せられるように響く、重い足音。
ズン。
ズン。
家の近くではない。
まだ距離はある。
だが、住宅街の中を何か大きなものが歩いている。
それだけは分かった。
「……悠真」
父さんが、ほとんど息だけの声で聞いた。
「あれは、こっちに来てるのか」
俺は目を閉じた。
見えるわけではない。
けれど、感じる。
頭の奥に、断片的な情報が浮かぶ。
大型獣。
魔素変異体。
興奮状態。
刺激反応。
音源追跡。
視覚より聴覚優位。
危険度D。
「音に反応してる」
俺は小声で答えた。
「たぶん、クラクションとか警報音の方へ行ってる。こっちじゃない」
「確かか?」
「……確かとは言えない。でも、そんな感じがする」
父さんは頷いた。
もう「そんな感じ」で片付けられる状況ではない。
俺自身、自分の感覚を信じきれているわけではなかった。
それでも、信じるしかなかった。
外で何かが壊れる音がした。
ガシャン。
続いて、車の警報音がさらに大きく鳴る。
誰かが叫んだ。
「逃げろ!」
その声は、途中で悲鳴に変わった。
彩乃がびくりと震える。
俺は反射的に彼女の方を見た。
彩乃は強い。
空手なら並の男を寄せつけない。
でも、今の音を聞いても平然としていられるほど、心が麻痺しているわけじゃない。
拳を握り締める手が震えている。
母さんが彩乃の肩を抱いた。
「声を出さないで」
母さんの声も震えていた。
それでも、看護師としての冷静さを必死に保っているのが分かった。
俺はランタンの明かりをさらに落とした。
リビングがほとんど闇に沈む。
窓には雨戸。
その内側に家具と木材の簡易バリケード。
明かりは最小限。
全員が息を殺す。
外のクラクションが、まだ鳴っている。
それに重なるように、重い足音が聞こえる。
ズン。
ズン。
ズン。
近づいている。
いや、家にではない。
音の方へ。
俺は必死にそう自分へ言い聞かせた。
◇
数分間だったのか、十分以上だったのか。
時間の感覚は完全に壊れていた。
俺たちは暗いリビングで、ただ音を聞いていた。
外を見ることはできない。
見てはいけない。
もし雨戸の隙間から光が漏れたら。
もしこちらに気づかれたら。
そう思うだけで、身体が硬直する。
遠くで、激しい衝突音がした。
車が潰れる音。
ガラスが割れる音。
金属が引き裂かれる音。
そして、獣の唸り声。
低く、満足げなようにも聞こえる声。
彩乃の喉が小さく鳴った。
泣きそうになっているのを、必死に堪えている。
母さんが彩乃の背中をゆっくり撫でる。
父さんは懐中電灯を消していた。
手には、園芸用の支柱。
そんなものでは、あの大型獣には何の意味もないだろう。
それでも父さんは持っている。
家族の前に立つために。
俺はその背中を見ながら、胸が苦しくなった。
父さんは強い人ではない。
喧嘩もできない。
アウトドアも苦手。
工具も得意ではない。
でも今、家族の前にいる。
たとえ何もできなくても、前に立とうとしている。
それが分かるから、余計につらかった。
「父さん」
俺は小声で呼んだ。
「何だ」
「もし来たら、戦わないで。逃げ道を作る方を考えて」
「逃げ道?」
「二階。もしくは廊下を塞いで時間を稼ぐ。正面からは無理だ」
父さんは一瞬黙った。
父親としては、戦うと言いたかったのかもしれない。
でも、すぐに頷いた。
「分かった」
その判断ができるだけで、父さんは十分すごいと思った。
無謀に立ち向かうことだけが勇気じゃない。
今は、家族を生かす判断が必要だ。
◇
やがて、警報音が止まった。
突然だった。
ピタリと。
まるで何かに押し潰されたように。
その後、しばらく音が消えた。
静寂。
心臓の鼓動だけがやけにうるさい。
俺は耳を澄ます。
遠くの足音。
獣の呼吸。
低い唸り。
それらが、少しずつ遠ざかっていく。
俺の頭の奥に浮かんでいた危険の感覚も、ほんの少し薄れた。
「離れてる……と思う」
俺が言うと、父さんは小さく息を吐いた。
だが、すぐに警戒を解かない。
誰も動かない。
五分。
十分。
さらに待つ。
ようやく母さんが、ほとんど聞こえない声で言った。
「少し、座りましょう」
彩乃はその場に崩れるように座り込んだ。
母さんが支える。
俺も寝袋に腰を落とす。
全身から力が抜けた。
汗がひどい。
熱のせいだけではない。
恐怖で、服が背中に張りついていた。
「……何なの、あれ」
彩乃が呟いた。
誰も答えられなかった。
答えられるなら、こんなに怖くない。
獣。
大型動物。
魔素変異体。
どの言葉も、まだ現実に追いついていない。
「犬じゃないよね」
彩乃が続けた。
「熊でもないよね」
「たぶん」
俺は答えた。
「じゃあ、何?」
「分からない」
「お兄ちゃん、さっき分かるって言ってたじゃん」
「全部分かるわけじゃない」
少し強い声になってしまった。
彩乃が黙る。
すぐに後悔した。
「ごめん」
「ううん。私もごめん」
彩乃は膝を抱えた。
強がる余裕もないようだった。
俺は左腕を見る。
包帯の下が熱い。
でも、熱はさっきより少し落ち着いている。
代わりに、頭の奥が妙に澄んでいる。
外の脅威が近づいた時、俺の中の何かは強く反応した。
まるで危険を分析するために、勝手に目を覚ましたように。
それが怖かった。
便利かもしれない。
家族を守る役に立つかもしれない。
でも同時に、俺自身が普通の人間から少しずつずれていくような感覚があった。
◇
その夜の後半、俺たちはさらに音に気をつけることになった。
食器を重ねる音。
ペットボトルを倒す音。
椅子を引く音。
全部が怖い。
父さんはリビングの床にタオルを敷き、物が落ちても音が響きにくいようにした。
母さんは金属製の食器を奥へしまい、紙皿とラップを優先するようにまとめた。
彩乃はスマホの通知音を完全に切った。
俺は家の中の音が出やすい場所を確認した。
ドアの軋み。
階段のきしむ段。
勝手口の鍵。
窓枠。
見ると、分かる。
正確には、見て、触れて、少し考えると情報が浮かぶ。
古い蝶番。
潤滑不足。
音発生。
油差し推奨。
階段三段目。
木材収縮。
荷重で軋み。
回避推奨。
俺は父さんに言った。
「階段は三段目を踏まない方がいい。音が鳴る」
「何で分かる」
「見たら……何となく」
父さんは少しだけ複雑な顔をした。
信じている。
でも、受け入れきれていない。
そんな顔だった。
当たり前だ。
俺だって、自分で受け入れきれていない。
「分かった。印をつけておこう」
父さんはガムテープを小さく切り、階段の端に貼った。
三段目。
踏むな。
そう書く。
家が少しずつ、ただの家ではなくなっていく。
生活する場所から、生き残るための場所へ。
その変化が、寂しかった。
◇
夜が明ける頃、誰もが疲れ切っていた。
大型獣が家の近くまで来ることはなかった。
だが、遠くでは何度も音がした。
悲鳴。
クラクション。
何かが壊れる音。
そして、咆哮。
町のどこかで、誰かが襲われている。
そのことが分かっていても、助けに行くことはできなかった。
行けば、死ぬ。
それが分かっている。
分かっているからこそ、苦しかった。
朝日が薄く差し込む。
雨戸の隙間から、細い光がリビングに伸びた。
父さんが立ち上がる。
「外を確認する」
「待って」
俺は止めた。
「まず音を聞いて。近くに気配がないか確認してから」
父さんは頷いた。
全員で耳を澄ます。
鳥の声。
遠くの犬の鳴き声。
車の音はほとんどない。
人の声も少ない。
昨日までの朝とは違う。
町が、疲れ切っているような静けさだった。
俺の頭の中に、強い危険の感覚はない。
「たぶん、近くにはいない」
「よし」
父さんは玄関へ向かった。
彩乃もついていく。
「彩乃は中にいろ」
「嫌」
「昨日も言っただろ」
「だから玄関まで。外には出ない」
父さんは少し迷ったが、頷いた。
母さんは俺を見た。
「あなたはここ」
「分かってる」
さすがに今日は反論しなかった。
身体は少し楽になっているが、無理をすればまた熱が上がる気がした。
父さんが玄関を開ける。
朝の空気が入る。
昨日よりも、匂いが強い。
焦げ臭い。
血の匂い。
土の匂い。
獣の匂い。
父さんが外へ出た。
数秒後、その足が止まる音がした。
「……これは」
「何?」
彩乃の声。
父さんはすぐには答えなかった。
俺はリビングから身を起こす。
玄関の方を見ても、外は見えない。
「父さん?」
「悠真」
父さんの声は硬かった。
「来ない方がいい」
そう言われると、余計に胸がざわつく。
母さんが玄関へ向かった。
俺も立ち上がろうとしたが、足元がふらついた。
それでも壁に手をついて進む。
「悠真!」
「少しだけ見る」
母さんが止める前に、俺は玄関から外を見た。
住宅街の朝。
いつもなら、通勤する人や学生が歩いている道。
そのアスファルトの上に、深い爪痕があった。
車一台分ほどの幅で、道路を横切るように。
近くの電柱は傾き、停まっていた軽自動車の側面が大きく潰れている。
ガラスは割れ、車体には何か巨大な爪で引っかいたような傷が残っていた。
血の跡もある。
人のものか、動物のものかは分からない。
そして、道路の端には、足跡があった。
大型犬どころではない。
熊よりも大きい。
肉球のような跡と、長い爪の跡。
それが、住宅街の奥へ続いている。
見た瞬間、頭の中に情報が浮かんだ。
魔素変異体。
個体名、不明。
分類、獣型。
危険度D。
痕跡、新鮮。
通過時刻、数時間以内。
俺は喉が乾くのを感じた。
これがD。
こんなものが、最低ランクではないにしても、まだD。
世界は本当に、俺たちの知っているものではなくなっていた。
「……戻ろう」
父さんが言った。
誰も反対しなかった。
◇
家に戻ると、父さんはすぐノートを開いた。
声は震えていない。
だが、顔は青い。
「昨夜の大型獣は、家の前の通りを通った。うちには気づかなかった可能性が高い」
「理由は?」
母さんが聞く。
父さんは俺を見た。
「音と光を抑えたからだと思う」
俺は頷いた。
「たぶん。車の警報音に向かった。うちは静かにしてたから通り過ぎた」
「つまり、音を出した家や車が危ない」
母さんが言う。
リビングが重く沈む。
昨日までの生活は、音だらけだった。
テレビ。
洗濯機。
掃除機。
車。
スマホの通知。
笑い声。
料理の音。
生活音。
でも今、それらは危険を呼ぶ可能性がある。
父さんはノートに大きく書いた。
『夜間、音厳禁』
『光を漏らさない』
『車は使わない』
『警報音、危険』
『外敵は音に反応』
その文字を見て、俺はようやく理解した。
俺たちはもう、災害への備えをしているのではない。
狩られないための生活を始めているのだ。
◇
午前中、自治会の人が数人、家の前を通った。
父さんが慎重に玄関を少しだけ開けて話を聞いた。
昨夜、駅方面で複数の被害が出たらしい。
車に乗って避難しようとした家族が襲われた。
警報音を鳴らしていた車が潰された。
詳しい人数は分からない。
救急車も警察も来たが、対応しきれていない。
自治会館では、夜間の外出禁止を呼びかけることになったという。
だが、誰がそれを守らせるのか。
守らなかった人を、誰が助けるのか。
答えはなかった。
「避難所に行く人も増えてるみたいだ」
父さんが戻ってきて言った。
「でも、昨日の夜のことを聞いて、家に残る人もいる。みんな判断が割れてる」
「正解なんてないよ」
俺は言った。
家にいれば安全とは限らない。
避難所へ行けば安全とも限らない。
水も食料も、情報も、人手も、全部が足りない。
何を選んでも危険がある。
ただ、その危険の種類が違うだけだ。
母さんが静かに言う。
「うちは、今はここに残る」
父さんが頷く。
「俺もそう思う」
彩乃も小さく頷いた。
「私も。避難所、人多そうだし……怖い」
その正直な言葉に、誰も何も言わなかった。
◇
昼過ぎ、俺は自分の状態を確かめるため、庭の物置を見た。
もちろん外には出ない。
リビングの窓越しに、雨戸の隙間から見るだけだ。
視線を向ける。
物置。
金属製。
施錠中。
内部資材あり。
工具、園芸用品、消石灰、ロープ、支柱。
損傷なし。
次に、倒れた植木鉢。
陶器。
破損。
使用不可。
土。
血液混入。
衛生リスク。
触接触非推奨。
やはり、情報が浮かぶ。
昨日より安定している。
俺は試しに、テーブルの上の缶詰を見た。
サバ缶。
可食。
タンパク源。
賞味期限、残り二年。
塩分やや高。
「……便利だな」
思わず呟いた。
怖い。
だが、便利だ。
この力があれば、食べられるもの、危険なもの、壊れやすい場所、敵の状態を判断できるかもしれない。
家族を守る役に立つ。
そう思った瞬間、左腕がじんわりと熱くなった。
まるで、その考えに反応するように。
俺は包帯の上から腕を押さえた。
力を得た。
そう言うには早い。
まだ何も分かっていない。
けれど、俺の身体は確実に変わり始めている。
それが何を意味するのか。
答えはまだ見えなかった。
◇
夕方。
ラジオから、聞き慣れない言葉が流れた。
『――専門家会議は、現在発生している動植物の異常変化について、未知の環境要因による生体変異の可能性を指摘しています』
未知の環境要因。
生体変異。
魔素とは言わない。
魔獣とも言わない。
でも、少しずつ近づいている。
『また、各地で一部の人間に発熱、感覚過敏、身体能力の一時的上昇、幻覚様症状などが報告されており――』
俺は顔を上げた。
母さんも、父さんも、彩乃も、同時に俺を見た。
発熱。
感覚過敏。
身体能力の一時的上昇。
幻覚様症状。
まさに、俺の状態に近い。
『政府は、野生動物に噛まれた、引っかかれた、または発光現象に長時間曝露された方は、最寄りの医療機関または自治体窓口に相談するよう呼びかけています』
母さんが小さく息を呑む。
「悠真……」
「分かってる」
分かっている。
でも、相談したところで何ができるのか。
病院は混乱している。
通信は死んでいる。
外には魔素変異体がいる。
そして、俺は今のところ悪化していない。
むしろ、妙な力が目覚め始めている。
父さんが重く言った。
「お前の状態は、他でも起きているんだな」
「たぶん」
彩乃が不安そうに言う。
「お兄ちゃん、化け物になったりしないよね?」
その言葉は、彼女自身が言った瞬間に後悔したようだった。
顔が青ざめる。
「ごめん、今のなし」
俺は少しだけ笑った。
「ならないよ」
本当は、分からない。
でも、そこは嘘でもそう言うしかなかった。
「俺は俺だ」
彩乃は唇を噛み、こくりと頷いた。
◇
その夜。
俺たちは昨日よりも静かに過ごした。
食事中も声は小さい。
移動する時は足音を抑える。
ランタンの明かりは最小限。
窓と雨戸は完全に閉める。
音を出さない。
光を漏らさない。
匂いを出さない。
それだけで、生活は息苦しくなる。
でも、生きるためには必要だった。
父さんがノートを閉じる。
「明日は、近所と協力できるか話した方がいいかもしれない」
「近所?」
「うちだけでできることには限界がある。見張りも、情報収集も、防衛も。だが、人を集めすぎると危ない」
「信用できる人だけ?」
「ああ。佐藤さんや、美咲ちゃんの家、それから自治会の人たち。少しずつだ」
父さんの会社員としての顔が出ていた。
人をまとめる。
話を聞く。
利害を調整する。
それはサバイバル動画には出てこない、生き残るための別の技術だった。
「俺も手伝う」
「まず体を治せ」
「もう大丈夫」
母さんが睨む。
「禁止って言ったでしょう」
「……大丈夫じゃないかもしれないけど、動ける」
「言い直しても駄目」
彩乃が少し笑った。
久しぶりに、ちゃんとした笑顔だった。
その笑顔を見て、俺も少しだけ救われた。
その時。
外から、バイクの音が聞こえた。
ブォン、ブォン、と無駄に吹かすような音。
夜の静けさを破る、ひどく目立つ音だった。
父さんの顔が険しくなる。
彩乃が眉をひそめる。
「こんな夜に……?」
バイクの音は一台ではない。
二台。
三台。
もっといる。
遠くから近づいてくる。
そして、誰かの笑い声が聞こえた。
荒く、下品で、恐怖を知らないような笑い声。
俺の頭の奥に、獣とは違う警戒が走った。
人間。
複数。
興奮状態。
敵意、不明。
危険度――測定不能。
俺は息を殺した。
魔獣より先に、人間が来た。
夜の住宅街に、暴走族のエンジン音が響き渡っていた。




